このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

26. 世に棲む日日(その4) 黒船来航編  


 1853年、黒船来航。そのとき、松陰は江戸にいた。

 「浦賀で、なにがあるのかね。」
 松陰は窓ぎわへ寄ってきて、無邪気にきいた。道家は、あきれた。
 (こいつ、なにも知らないな)
 哀れに思い、まず上へあがらせ、「きのうの昼のことだ」と、事実を告げた。アメリカの黒船四艘かが、大砲に砲弾を詰め、照準を江戸にむけつつ湾内に進入した、と松陰におしえた。
 「くわしいことは?」
 と、驚きと緊張のあまり、松陰は顔を真青にして詰めよった。道家竜介はのけぞるような姿勢で、わからんわからん、わかっているのはそれだけだ、といった。
 
 「寅次郎もきたのか」
 象山は、部屋をたずねた松陰に、まずそういった。相変らず容儀盛んな男で、これだけ旅篭が満員なのに、一人で一部屋を独占し、門生を次室にはべらせている。
 「先生は、いつ」
 「昨夜だ」
 象山のいうところでは、浦賀の一番乗りであったらしい。これだけ容儀の重々しい男のくせに、早耳でしかも行動が実に機敏であり、諸事ぬかりというものがなかった。

 さらに浦賀にあっては、ペリーは一時艦体を浦賀の近くの久里浜湾に入れたが、この浜をひどく気に入り、
 「サスケハナ湾と命名する。」
 と、艦隊内で宣言し、その名を、作製しつつある海図にも書き入れさせた。サスケハナとは、かれの旗艦の艦名である。
 九日(六月)、松陰はなお浦賀にいる。
 この日、久里浜においてペリーははじめて幕府代表と対面した。
 この会談は、この当時の日本の世論では屈辱的会談とされたが、ペリーの側にとっても多少の生命の危険は感じたらしく、あらかじめ久里浜湾の水深をはかり、いざというときには艦隊が十分進入してその艦砲の射程が陸地にとどくことを調査した。
 それやこれやのペリーとその艦隊の威喝的な態度や意図が、それを受けねばならぬ側の日本人にするどく反映せぬはずがない。幕府役人に対してはペリーは、その「東洋人観」による外交態度がもくろみどおりに成功して腰をくだかせたが、しかし在野世論はこれに大反撥をきたし、対外敵愾心が日本列島の津々浦々に澎湃としておこって、以後十五年、いわゆる幕末の騒乱がおこるのだが、そこまでは米国の一海軍大佐であるペリーの器量では予測できなかったであろう。ペリーの日本理解は、あくまでも清国役人と清国人が基準になっており、それがすべてであった。

 

< 浦賀 >
 浦賀駅を下りると、浦賀水道を間に挟んで、道が二手に分かれる。まず浦賀水道の左側を進み、渡し船で浦賀水道の右側に渡り、右側を観光してから久里浜方面に展開する、というコースが効率的だと思われる。左側の写真は、浦賀水道を結ぶ渡し船の上で撮ったものである。渡し船の所要時間は約3分。乗客は僕一人であった。ペリーも、黒船の上から、この景色を眺めたに違いない。
 また、吉田松陰と佐久間象山が議論を交わした徳田屋跡は渡し船乗場のすぐそばにある。建物は関東大震災で倒壊してしまい、立て直されたものだそうだ。

浦賀水道
神奈川県横須賀市
京浜急行浦賀駅
徳田屋



< 久里浜 >
 久里浜駅からバスで5分ほどのところに、ペリー公園がある。公園は湾に面しており、公園内には石碑が立ち、ペリー記念館も有る。

ペリー像
ペリー公園内
神奈川県横須賀市
京浜急行京急久里浜駅バス5分
北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑
ペリー公園内

 
泰平の
ねむりをさます
じょうきせん
たった四はいで
夜も寝られず

ペリー公園内



 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください