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27. 世に棲む日日(その5) 密航編  


 1854年、ペリーが再び黒船を率いてやってきた。松陰は、密航を企てる。

 もはや夜あけにも近い。
 「あすの夜だ。」
 と、松陰は百策ことごとく敗れたが、なおもあすがある、と金子に言った。二人はその祠の扉をあけ、ちょうど昔の武者修業者のようにその中でねむった。
 翌日も、風がやまない。
 かれらは日中をその付近ですごし、日没を待った。やがて黒船にむかって踏海を決行したのは、この夜である。
 
 その小船を、二人はふたたび闇の海上であやつった。風が強くなっており、舟は容易にすすまない。わずか一丁ほどの距離を、悪戦苦闘した。やっと旗艦ポーハタンの舷側まで漕ぎつけたが、わるいことに沖側の舷側である。波が荒い。舟をちかづけようにも、波に翻弄されてうまく舷側につけられない。
 とてもだめだ。内側のほうへまわりましょう。
 と、金子がいったが、舟のほうがうまく回転せず、そのうちに波が盛りあがってきて、舷側にぶつけられた。

 通訳官ウィリアムズが見た松陰と金子の印象は、
 「教育のある者で、優美に漢字を書き、その態度も礼儀正しく、非常に洗練されていた。」
 という。

(中略)

 「手紙でものべたように、我等は世界を見たい。アメリカへ連れていってもらいたい。」
 と、松陰がたのむと、ウィリアムズは急にむずかしい顔になり、
 「私個人の考えではたれか日本人を一人、アメリカへ連れて帰りたいと思っているのだが、しかしいまは時期ではない。あなた方が、あなたの政府に許可を得るまで、その希望をかなえてあげるわけには参らない。」
 と、ながながと書いた。かれのこの拒絶は、ペリーの意思でもあった。ペリーは松陰の手紙もよんだし、この甲板上のさわぎについても、提督室にあってすでに報告をうけている。
 アメリカ側は、この拒絶についてさらにくわしい内容のものを、その正式記録にのせている。
 「この処置につき、もし提督が自分だけの感情で事をはこんでいいという立場なら、この気の毒な二人の日本人を、よろこんで艦内にかくまったであろう。しかし、そうもできなかった。米国はやっと通商条約を日本と結ぶことができた。日本側の条件は、日本の法律をまもってくれということであった。もしここで米国が、この日本人民の逃亡に共謀するとすれば、日本の国法をやぶることになる。日本の国法では、人民の外国ゆきを死刑をもって禁じている。米国人にとってなんの罪もないことだが、しかしこの二人の祖国の法律では重大な犯罪なのである。さらにかれら二人は、うたがえばきりのないことだが、ひょっとすると間諜−米国側が日本の法律をまもるかどうかということを、日本がためすための道具−としてつかわれているかもしれない。
 さらに、
「この事件は、日本人というものがいかにつよい知識欲をもっているかということの証拠として非常に興味がある。かれらは知識をひろくしたいというただそれだけのために、国法を犯し、死の危険を辞さなかった。日本人はたしかに物を知りたがる市民である。」

 

< 下田 >
 下田は、東京駅から特急「踊り子」で2時間40分程度の距離である。ここも、見所の多い場所だ。
 1854年の日米和親条約締結により、幕府は鎖国を解いて下田と箱館の2港を開港する。初代アメリカ駐日総領事として下田に着任したのがハリスである。ハリスは1856年に玉泉寺に領事館を開設する。現在、玉泉寺にはハリス記念館が併設されている。1858年、ハリスは日米修好通商条約を締結する。この条約により下田は閉鎖となり、横浜が開港されることとなる。
 下田でハリスの身の回りの世話をしたのが唐人お吉である。唐人お吉が晩年に開業した小料理屋「安直楼」は保存されており、現在も観光可能である。唐人お吉の墓の有る宝福寺には、唐人お吉記念館が有る。
 
吉田松陰先生像
三島神社
静岡県下田市
伊豆急行伊豆急下田駅
踏海の朝(松陰と金子重輔)
弁天島

吉田松陰拘禁之跡
乗艦を断られた松陰と金子は、自首し、奉行所に捕らえられた。

ペリー艦隊上陸記念の碑
右側の錨は、アメリカ海軍から贈呈されたもの。




 

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