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28. 世に棲む日日(その6) 晋作登場編  


 第2の主人公、高杉晋作が登場する。

 高杉家というのは、代々藩の中級官僚を出してきて、いわば能吏の家系といっていい。とくにここ五代ばかりが粒ぞろいで、藩主の側役や、財務官、地方行政官などに任じて、大功はなかったにせよ、ほとんど小過すらなかった家として家中でもめずらしがられていた。
 石高は、百五十石である。
 ついでながら石高でその家の年俸を勘定する家は高等官の家格たることをあらわし、それも百五十石ともなれば当主の才能と運次第で、家老に準ずる執政官にまで飛躍しうる潜在的な資格がある。要するに、士官・将校の家である。例が飛躍するが、ルイ王朝のフランス国家にあっては、軍隊士官を出しうる家は貴族にかぎられていた。もっとも全体の何割かというふうに例外がみとめられていて、町人の階級からも将校になることはできたが、中少尉以上には昇進できなかった。こういう例で日本の藩を考えると、石取りの家が藩貴族であるということがいえるであろう。
 高杉晋作はこういう家に生まれた。こういう家の出身者が、革命家になるというのは長州だけでなく薩摩や土佐でもきわめてまれで、ましてその指導者になったという例は他藩でも絶無に近く、こういう点、高杉晋作の存在は、じつに珍奇というほかない。 
 
 あるとき、町で久坂義助(玄瑞)という、藩医の子に出遭った。
 「高杉さん、相変らず剣術ですか。」
 と、
この秀麗な容貌をもった一つ歳下の少年がニコニコ笑いながらいった。たまたま晋作が、竹刀に防具をくくりつけてかついでいたのである。
 が、晋作は答えない。にがい顔でいたが、やがて、
 「物にはたずねようがあるだろう。私がたまたま剣術道具をもっているからといって相変らず剣術ですか、というたずねかたは人を型によって見ようとするもので、君らしくもない。私はいまから道具を繕わせにゆくところだ。単に、それだけだ。」
 といった。
 晋作は余人にはあまりこうではない。が、この義助をみると、どうにも妙な感情をおさえかねるところがある。
 競争心であるらしい。

 「医学所はおもしろいか」
 と、晋作はきいた。
 「・・・・・・」
 と、久坂はすをのんだような顔で、かぶりをふった。おもしろくない、という。わしはなによりも医者というものが大きらいなのだ、それよりもわしは亡兄のあとをつぎたい、といった。晋作は混乱した。
 「すると、医者になることではないのか。」
 亡兄玄機が藩きっての蘭医であったことは、晋作も知っている。
 「ちがう。兄が医者であったのは、それは仮の姿だ。志は天下を救うにあった。」
 だから。
 と、久坂玄瑞は、語を継いだ。
 「いま、松本村の吉田松陰先生のもとにかよっている。」
 (松本村の松陰)
 という名を、晋作はまたきいた。

 

< 萩 >
 萩の観光にはレンタサイクルが便利である。東萩駅前にレンタサイクル店が何件か営業しており、ここで地図も借りられるが、それほど詳細な地図ではない。自転車から城下町までは、まっすぐ行けば15分程度である。
 萩の街並は、城下町ファンには堪えられない味である。白い壁と細い路地が素晴らしい。電線が有るのと、道路がアスファルトで舗装されているところが、やや残念である。もっとも、石畳だと自転車では走りにくい。

萩市街
山口県萩市
山陰本線 東萩駅 自転車15分


< 高杉晋作生家 >
 高杉晋作の生家は、城下町の中に有る。今回(2002年6月)に行ったところ、門が閉じていた。前回(1997年8月)に行ったときは、家の中には上がれなかったものの、庭から見ることが出来たような記憶がある。経営方針が変わったのだろうか?それとも僕が行った日に限り、何らかの事情により閉まっていたのだろうか?

高杉晋作生家跡


< 久坂玄瑞生家 >
 久坂玄瑞の生家は、城下町からはやや離れたところにある。路地の中に入りこむので、やや分かりにくい。生家は保存されておらず、碑が立っている。

久坂玄瑞生家跡




 

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