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29. 世に棲む日日(その7) 松下村塾編  


 晋作は松下村塾を訪れる。松陰との出会いだ。

 松陰の松下村塾のおこりは、かれが安政二年十二月十五日、藩命によって野山獄を出され、実家の杉家で「禁錮」ということになったときからはじまる。自宅で監禁という刑だから、外部の人間と会ったり弟子をとったりしてはいけないことになっているが、しかし近所の子弟がこっそりやってくる。やむなく教えているうちに、子弟がふえてきた。藩でも黙許した。久保五郎左衛門は隣の久保家でこどもをおしえている。松陰は杉家の「幽囚室」(三畳半)でおしえている。あわせて「松下村塾」だが、ところが久保塾にいるこどもが、松陰を慕ってこっちのほうに流れてきたため、人数がだんだんふえた。松陰がこどもに慕われたのは、かれの学問の深さというよりも、かれの人柄が子供たちにとってはたまらなく好かったらしい。
 
 「あれが、塾だ。」
 と、久坂がいったのは、敷地の一隅にある物置小屋のような建物だった。
 (あれが)
 高杉も、さすがにその粗末さにおどろいてしまった。おそらく前身は農具小屋だったにちがいない。

 松陰は、高杉の文章を分析し、松陰独特の平易な表現でそれをくわしく説明すると、高杉は自分の欠点をいわれているくせに、妙なことに聞くほどに昂奮をおぼえた。
 帰路も、この昂奮がつづいた。
 (あれは神人かもしれん)
 と、それほど大げさな気持で松陰をおもったのは、高杉がはじめて自分とは何者かということを知った衝動によるものであろう。自分がどういう資質、性格、あるいは可能性をもった人間であるかという自分の像は、自分自身ではふつう、ついにわからない。かといって他人にきいてもわかるはずのないことであったが、高杉は自分像というものをほとんど芸術的なばかりのみごとさで、松陰によってとりだされてしまったのである。
 これではどうも生涯、松陰についてゆくしか自分のみちはないかもしれない、と高杉はおもった。

 

< 松下村塾 >
 松下村塾は、松陰神社として一帯が保存されている。鳥居をくぐると、境内の左側に「吉田松陰歴史館」が有り、松陰の生涯が等身大蝋人形で再現されている。ここである程度勉強してからの方が、感慨深いというものだ。まっすぐ歩いていくと、松下村塾が見えてくる。
 確かに、松下村塾は小さい。初めて行ったときは、その小ささに驚いた。こんな粗末な小屋から、倒幕の原動力となった人物が何人も輩出されたという事実に、驚きを禁じえない。また、彼らの人生の短さにも驚かざるを得ない。松陰は29歳、晋作は27歳、玄瑞は24歳でこの世を去っている。
 
松陰神社
山口県萩市
山陰本線 東萩駅 自転車10分

松下村塾内部



 

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