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30. 世に棲む日日(その8) 伊藤博文編  




 伊藤利助は、可愛気といえばあまり可愛気がなかったらしい。かれは足軽ですらない低い階層の家の子で、松下村塾がまだ久保塾のころからきていたが、松陰の代になって吉田栄太郎がつれてきて入門させた。富永のいうように、どことなくヌラヌラしている。
 博文は、後年、新渡戸稲造から質問されたとき、松陰について意外なことをいっているのが、新渡戸の追想録にある。その文章を借りる。
「世の中では、我輩が吉田松陰の塾にながくおったようにして、松陰の弟子のよにいっておるものがあるが、それは事実上間違いであって、我輩は松陰の世話にあまりなっておらない。実際、当人に会うたこともたびたびはない。」
と、いう。博文は一年あまり在塾した。むろんしばしば会っているが、博文にとっては松陰はさほど昂奮を持って語らねばならぬほどの師ではなかったらしい。
 


 

< 伊藤博文旧宅 >
 後に初代首相となる伊藤博文も、松下村塾の出身である。博文は1889年に大日本帝国憲法を起草し、1894年からの日清戦争を首相として戦って 下関条約 を締結し、1905年に韓国初代統監となるが、1909年10月、中国のハルビン駅で安重根に暗殺され、波乱の生涯を閉じた。
 
伊藤博文銅像
山口県萩市
山陰本線 東萩駅 自転車15分
逆光で申し訳無い。

伊藤博文旧宅



 

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