このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

名曲−1. 荒城の月  


 今回は「荒城の月」関連の場所をご紹介したい。
 
< 荒城の月>
 1898(明治31)年、土井晩翠は会津の鶴ヶ城をイメージしてこの七五調の詩を書き上げた。この詩を読んだ滝廉太郎は竹田の岡城をイメージして曲を付けたと言われている。滝廉太郎が「中学唱歌」を出版したのは1901年。21歳のときの作品である。

春高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝 わけいでし
むかしの光 いまいずこ

秋陣営の 霜の色
鳴き行く雁の 数見せて
植うる剣に 照りそいし
むかしの光 いまいずこ

今荒城の 夜半の月
かわらぬ光 たがためぞ
垣にのこるは ただ葛
松に歌うは ただ嵐

天井影は かわらねど
栄枯は移る 世の姿
写さんとてか 今もなお
嗚呼荒城の夜半の月
 

< 鶴ヶ城 >
 戊辰戦争の舞台の一つ、鶴ヶ城。戊辰戦争は1868年(戊辰の年)から始まった新政府と旧幕府軍との戦いである。簡単に歴史に触れておきたい。

1867年10月大政奉還。将軍慶喜による政権の返上。
1868年1月鳥羽・伏見の戦い。旧幕軍敗走。
1868年3月江戸無血会城。勝海舟・西郷隆盛の会見。
1868年5月北越戦争。8月16日、河井継之助戦死。
1868年8月8月23日、白虎隊の悲劇
1869年五稜郭の戦い。5月1日、土方歳三箱館で戦死。

 戊辰戦争でも焼け落ちなかった鶴ヶ城は、1874(明治7)年に政府の命令で取り壊されてしまう。現在の天守閣は1965(昭和40)年に再建されたものである。土井晩翠(1871〜1952)が修学旅行で鶴ヶ城を訪問したときは、天守閣は取り壊されて存在しなかった。

鶴ヶ城
白虎隊の飯盛山とは結構距離がある。
磐越西線 会津若松駅
福島県 会津若松市

荒城の月碑
磐越西線 会津若松駅
福島県 会津若松市


< 岡城 >
 岡城が歴史の舞台に立ったことはない。本丸は1597年に中川秀成が完成させた。その後中川氏が約280年間竹田を統治するが、1874年に取り壊される。
 滝廉太郎が大分県竹田市に引っ越してきたのは1891年、12歳のときである。当時、すでに竹田城はなく、残っていたのは城跡のみある。滝廉太郎は岡城でよく遊んでいたという。

岡城跡
豊肥本線 豊後竹田駅
大分県竹田市

岡城跡

滝廉太郎の像荒城の月碑


< 滝廉太郎 >
 天才作曲家、滝廉太郎。「荒城の月」、「花」、「箱根八里」が彼の作品というのは誰でも知っていることであろう。しかし、「お正月」や「はとぽっぽ」まで彼の作品というのは意外に知られていない。あと10年でも長く生きていたら、どれだけ多くの名曲を作ったことだろう。彼が世を去ったのはわずか23歳10ヶ月のときであった。
 また、滝廉太郎の実の妹の孫がニュース23のキャスター筑紫哲也氏である。したがって、彼は滝廉太郎記念館の名誉館長である。

 大分県竹田市は滝廉太郎を前面に押し出した街作りをしている。まず、豊後竹田駅の列車の発車の音楽が「荒城の月」だ。さらに、正午の時報まで「荒城の月」であった。彼が住んでいた家は滝廉太郎記念館となっており、そばには廉太郎トンネルがある。

滝廉太郎記念館
豊肥本線 豊後竹田駅
大分県竹田市
廉太郎トンネル
人が中に入ると滝廉太郎の曲が流れる。
豊肥本線 豊後竹田駅
大分県竹田市


 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください