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3. おくのほそ道(平泉〜尿前の関)
平泉の章は、「おくのほそ道」の中でも最高の名文と評価されている。ここも全文掲載したい。
平泉〜尿前(しとまえ)の関
(岩手)<平泉>
三代の栄耀、一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衛が跡は、田野になりて、金鶏山のみ、形を残す。先づ、高館にのぼれば、北上川、南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて、大河に落ち入る。康衛等が旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさしかため、夷をふせぐと見えたり。扨も、義臣すぐって、此の城に篭り、功名、一時の草村となる。「国破れて、山河あり、城春にして、草青みたり」と笠打ち敷きて、時のうつるまで、なみだを落とし侍りぬ。
夏草や兵共が夢の跡
卯の花に兼房身ゆる白毛かな 曾良
兼て、耳驚かしたる、二堂開帳す。経堂は、三将の像を残し、光堂は、三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、玉の扉、風にやぶれ、金の柱、霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の草村となるべきを、四面、新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時、千歳の記念とはなれり。
五月雨の降り残してや光堂
尿前の関 蚤虱馬の尿する枕もと
< 平泉 >
高館(義経臨終の地)
東北本線 平泉駅
岩手県西磐井郡平泉町
武蔵坊弁慶の墓
東北本線 平泉駅
岩手県西磐井郡平泉町
写真の日付が93年3月17日となっている。会社に入る直前だ。もう9年近くも前になるが、 中尊寺金色堂 を見たときの驚きは忘れられない。金色堂の建立は1124年である。芭蕉が訪れたのは1689年だから565年後である。僕が訪れたのは869年後だ。その間、輝きを失わずにいたというのは奇跡に近い。盗賊もさすがに畏れ多かったのだろうか。約900年間、盗賊にも襲われず、暴風雨や落雷などの自然災害も受けずに保存されてきた金色堂。時間の重みを感じさせる貴重な文化遺産である。
義経・弁慶は平泉で死なずに生き延び、青森から北海道を経てモンゴルに渡り、ジンギスカンになったという伝説がある。死んでほしくないという庶民の心がそのような伝説を生んだのだろう。一の谷の戦い、屋島の戦い、壇の浦の戦いとすべて勝ったにもかかわらず、評価されること無く兄に討たれてしまった悲劇の武将。日本人は悲劇のヒーローが好きである。忠臣蔵が好まれるのも、主君の恨みを晴らした後に全員切腹という結末があるからだろう。日本人は英雄よりも悲劇のヒーローを好む。この国民性は何に由来するものなのだろうか。
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