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5. おくのほそ道(象潟〜大垣)
芭蕉と曾良は象潟まで北上した後、日本海側を南下し、敦賀から琵琶湖の脇を通って大垣に到着する。おくのほそ道は大垣で完結する。
象潟〜大垣
(秋田・新潟・富山・福井・滋賀・岐阜)象潟 象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
象潟や料理何くふ神祭り 曾良
蜑(あま)の家や戸板を敷きて夕すゞみ 低耳
波越えぬ契りありてやみさごの巣 曾良越後路 文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天の河市振 一家に遊女も寝たり萩と月 那古の浦 わせの香や分け入る右は有そ海 金沢 塚もうごけ我が泣く声は秋の風
秋すゞし手毎にむけや瓜茄子
あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風
しをらしき名や小松吹く萩すゝき太田(ただ)神社 むざむやな甲のしたのきりぎりす 那谷寺 石山の石より白し秋の風 山中 山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ
ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原 曾良
けふよりや書付消さん笠の露全昌寺 終夜(よもすがら)秋風聞くやうらの山
庭掃きて出でばや寺にちる柳汐越の松・天竜寺
・永平寺物書きて扇引き裂く名残哉 等栽 − 敦賀 月清し遊行のもてる砂の上
名月や北国日和定めなき種(いろ)の浜 さびしさやすまにかちたる浜の秋
波の間や小貝にまじる萩の塵大垣 蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ
< 象潟 >
蚶満寺の創建は853年である。芭蕉が訪れたときは、松島のような景観だったのだが、1804年の象潟地震で土地が隆起してしまい、現在は田圃の中に島が点在するという景色になっている。
土地が隆起する前の景観を、芭蕉はこう表現している。
江の縦横、一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島はわらふがごとく、象潟は、うらむがごとし。さびしさに、かなしびをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。
この場合の「うらむ」は「怨」や「恨」ではなく、「憾」すなわち、「憂える」と解釈するのが正しいそうだ。したがって、「おくのほそ道 永遠の文学空間」によると、この部分はこう解釈するらしい。
入江の広さは縦横それぞれ一里ばかりで、その全体の姿は松島に似ているようで、また違ってもいる。松島は、美人がわらっているような美しさであり、象潟は美人が憂いに沈んでいるような感じのするなまめかしい美しさである。寂しさの上に悲しみを加えて、この土地のたたずまいは、美人が心を悩ましている面影に似ているといえるのである。
僕が松島に行ったのは1996年12月、 象潟 に行ったのは2001年の7月だ。松島が冬の曇天、象潟が真夏の快晴だったので、イメージはなんとなく反対だ。
蚶満寺
奥羽本線 象潟駅
秋田県由利郡象潟町象潟の景観
< 敦賀 >
敦賀駅前から氣比神宮までの道路沿いには、銀河鉄道999と宇宙戦艦ヤマトのモニュメントが展示されている。鉄郎とメーテル、古代進と森雪の像も撮影してきたのだが、デジカメとパソコンの予期せぬトラブルで消えてしまった。ここにご紹介できないのが残念である。トラブルにもかかわらず、残った貴重な2枚がこれだ。
氣比神宮
福井県敦賀市
北陸本線 敦賀駅 徒歩20分程度
<大垣>
おくのほそ道むすびの地である大垣市。大垣駅から大垣城は徒歩10分ほどである。大垣城は関ヶ原の合戦で石田三成が西軍の本拠地とした場所である。昭和20年7月19日に惜しくも戦争で焼失した。
大垣城から芭蕉像や蛤塚があるむすびの地までは徒歩15分ほどである。川沿いの道は眺めもよく、歩きやすい道である。
芭蕉像
岐阜県大垣市
東海道本線 大垣駅蛤塚(右前の石碑)
大垣城 むすびの地記念館のそばの風景
芭蕉はほかにも紀行文を残している。「野ざらし紀行」は江戸から大和山城、「笈の小文」は関西から阿波への紀行文である。芭蕉が亡くなったのは1694年、旅行の5年後である。辞世の句は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」であった。
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