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6. 智恵子抄  


智恵子生家
東北本線 二本松駅・安達駅
記念館も併設され、智恵子の切り絵が展示されている。
福島県安達郡安達町

 明治19年に長沼智恵子は福島県二本松町(現在は市)に生まれる。日本女子大学校家政科に入学後に洋画に興味を持つ。卒業後も東京にとどまって油絵を学び、その一方で女子思想運動にも参加する。その後、高村光太郎と知り合って、大正3年に結婚する。


< 結婚生活 >
 この詩は昭和3年に発表されている。智恵子はどうしても東京に馴染むことが出来ず、一年のうち三四ヶ月は実家に帰っていた。また、油絵もなかなか評価されることが無く、智恵子は悩んでいた。光太郎によれば、智恵子は素描にはすばらしい力と優雅とを持っていたが、油絵具を十分に克服することがどうしても出来なかったという。「東京に空がない。」という智恵子の痛切な訴えを、光太郎は「あどけない話」として受け止めている。

あどけない話

智恵子は東京に空がないと言ふ、
ほんとの空が見たいと言ふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

< 安達太良山 >
安達太良山 登山道安達太良山 山頂
東北本線 二本松駅から岳温泉行きバス
福島県二本松市
ほんとの空は曇っていた。


< 智恵子発病 >
 高村智恵子は昭和6年に精神に変調をきたす。昭和7年に服毒自殺未遂を起こす。その後病状が悪化し、昭和10年2月にゼームス坂病院に入院する。

人生遠視

足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する。
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる
 
山麓の二人

二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡いて波うち
芒ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
− わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
逃れる途無き魂との別離
その不可抗の予感
− わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙って妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返って
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃として二人をつつむこの天地と一つになった。


< 智恵子の死>
高村智恵子の死は、昭和13年10月5日の夜であった。死因は粟粒性肺結核。

レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンをまってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それから一時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう


< 智恵子の死後 >
この詩は昭和24年10月に発表されたものである。

元素智恵子

智恵子はすでに元素にかへった
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
精神とは肉体の別の名だ、
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
智恵子はただ嬉々としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなほ
わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。


高村光太郎の死は昭和31年4月2日の早朝のことであった。

 

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