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7. 人間失格&津軽  


 今回は太宰治関連の場所をご紹介したい。
 

< 太宰治 略歴 >
 自殺と心中の未遂を繰り返し、麻薬中毒になり、不倫して子供を作り、最後は妻子を残して別の女性と心中。これだけダメな人間は珍しい。

事件主要作品
1909
明治42
6月19日 青森県北津軽郡金木村に六男として生まれる。
       本名 津島修治
1929
昭和4
12月 自己の出身階級に悩んで服毒自殺を図る。
1930
昭和5
4月 東京帝国大学仏文科に入学。
11月 銀座の女給田部シメ子と服毒自殺を図る。
    シメ子のみ死亡。その夜知り合ったばかりだった。
1933
昭和8
「思い出」
1935
昭和10
3月 鎌倉で首吊自殺を図るが失敗。
8月 「逆行」が第一回芥川賞候補となるが次席。
1936
昭和11
2月 麻薬中毒を治すため、精神病院に入院させられる。
8月 第三回芥川賞落選。
10月 再入院
1937
昭和12
3月 小山初代と服毒自殺を図るが未遂に終わる。「二十世紀旗手」
1938
昭和13
9月 山梨県御坂峠の天下茶屋で執筆。
1939
昭和14
1月 石原美知子と結婚「富岳百景」
「女生徒」
1940
昭和15
「走れメロス」
「駈込み訴え」
1941
昭和16
6月 長女誕生
1944
昭和19
5月 「津軽」執筆のため津軽地方を旅行。
8月 長男誕生
「津軽」
1947
昭和22
3月 次女誕生
11月 太田静子との間に女児誕生
「トカトントン」
「ヴィヨンの妻」
「斜陽」
1948
昭和23
6月13日 遺書を残して、山崎富栄と玉川上水に入水。
6月19日 遺体発見
「桜桃」
「人間失格」
「グッド・バイ」


< 生家 >
 生家は津軽屈指の大地主で、父は貴族院議員、衆議院議員にもなったほどの名士であった。生家が津軽屈指の大地主であったことは、少年時代の太宰に誇りを与えた。しかし、彼の周囲の貧しい農民や友達の家からの搾取によって自分の家の暮らしが成り立っていることを知り、悩み始める。その上、当時浸透してきたデモクラシー、マルキシズムの思想を学び、罪悪感を抱くにいたる。

斜陽館(太宰治生家)
1907(明治40)年に建造された。
93年は旅館として宿泊可能だった。当時太宰の部屋は半年待ちと言われていたように記憶している。僕が泊まったの確か女中部屋だったはずだ。今は博物館になっているので内部の見学のみ。宿泊はできない。
津軽鉄道 金木駅
青森県北津軽郡金木町

斜陽館内部



< 人間失格 >
 
 「人間失格」は次のような文章で始まる。ちょっと長いが、引用したい。

 私は、その男の写真を三葉見たことがある。
 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきだろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女の人に取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、粗い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く?けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は面白くも何とも無いような顔をして、
「可愛い坊ちゃんですね。」
 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空お世辞に聞こえないくらいの、謂わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜についての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
 と頗る不快そうに呟き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
 まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔ではない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺を寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうしてどこかけがらわしく、へんに人をムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。

 その写真がこれだ。パネルにされた昔の白黒写真を安いカメラで撮影したので非常に見にくく、恐縮です。実物を見たい方はぜひ斜陽館へどうぞ。

斜陽館内部
左から2人目が太宰



< 津軽 >

1. 蟹田
 その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田ってのは、風の町だね」と私は、れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしていたものだが、きょうの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑うかのような、おだやかな上天気である。

津軽線 蟹田駅 プラットフォーム
青森県東津軽郡蟹田町


2.竜飛
ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘記せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に至り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。

太宰治文学碑
竜飛崎
津軽線 三厩駅からバス30分
青森県東津軽郡三厩村


3.芦野公園
世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走ってきて、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然としている。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。

「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」
芦野公園の太宰治文学碑
すぐそばの歴史民族資料館では太宰の遺品が展示されている。
津軽鉄道 芦野公園駅
青森県北津軽郡金木町


4.小泊
「修治だ」私は笑って帽子をとった。
「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりませえ」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正坐してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思うことが無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。

津軽鉄道 津軽中里駅からバス
青森県北津軽郡小泊村


 

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