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8. 坊っちゃん
今回は坊っちゃん関連の場所をご紹介したい。
< 夏目漱石 略歴 >
国民的作家、夏目漱石。彼こそ文豪と呼ばれるにふさわしい。作家としての彼の人生は意外なほど短く、わずか10年ほどだ。また、彼は常に病気で苦しんでいた。彼の笑顔が写真として残っていないのは、常に胃が痛かったからだとも言われている。
年 事件 主要作品 1867
慶応32月9日 江戸牛込馬場下横町にて誕生
本名 夏目金之助− 1886
明治19肋膜炎を患う。 − 1890
明治23帝国大学文化大学英文科に入学。 − 1893
明治26帝国大学文化大学英文科卒業 − 1894
明治27肺結核。 − 1895
明治28松山中学教諭に就任。
日清戦争に従軍していた正岡子規が喀血して帰国。
漱石の下宿に二ヶ月住む。− 1896
明治29熊本第五高等学校講師に就任
結婚− 1900
明治33英国留学 − 1901
明治34神経衰弱 − 1902
明治35強度の神経衰弱 − 1903
明治36帰国
第一高等学校講師に就任
神経衰弱再発− 1905
明治38「吾輩は猫である」を発表。 「吾輩は猫である」
「倫敦塔」1906
明治39胃カタル 「坊っちゃん」
「草枕」1907
明治40一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。 「虞美人草」 1908
明治41− 「三四郎」 1909
明治42− 「それから」 1910
明治436月 胃潰瘍で入院
8月 大量の吐血「門」 1911
明治448月 胃潰瘍で入院
9月 痔− 1912
明治45
大正元痔の再手術 「彼岸過迄」
「行人」1913
大正21月 強度の神経衰弱
3月 胃潰瘍− 1914
大正3胃潰瘍 「こころ」 1915
大正4胃潰瘍 − 1916
大正5リューマチ・糖尿病のため温泉療法
11月 胃潰瘍で病臥
12月9日 死去「明暗」
夏目漱石記念館
鹿児島本線熊本駅から市電
熊本県熊本市
< 坊っちゃん >
「坊っちゃん」は勧善懲悪の物語である。これほど一気に読める痛快な物語はない。夏目漱石が松山に赴任していたのは1895年から1896年にかけての1年間である。「坊っちゃん」を書いたのは1906年。10年前を思い出しながら、一気に書き上げたことになる。
1.坊っちゃん列車
停車場はすぐに知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような記者だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。
坊っちゃん列車の客車
子規堂(正岡子規の住居)の敷地に保存されている。
伊予鉄道 松山市駅
愛媛県松山市
坊っちゃん列車の内部
2.道後温泉
おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことに極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元に及ばないが温泉だけは立派なものだ。折角来たものだから毎日這入ってやろうと云う気で、晩飯前に運動旁出掛る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶらさげて行く。この手拭が湯に染った上へ、赤い縞が流れ出したので一寸見ると紅色に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗っても歩いても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へ這入った。すると四十円の月給で毎日上等へ這入るのは贅沢だと云い出した。余計なお世話だ。まだある。湯壷は花崗石を畳み上げて、十五畳敷位の広さに仕切ってある。大抵は十三四人漬かってるがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動の為めに、湯の中を泳ぐのは中々愉快だ。おれは人の居ないのを見済ましては十五畳の湯壷を泳ぎ巡って喜んでいた。
道後温泉
伊予鉄道 道後温泉駅
愛媛県松山市
伊予鉄道 道後温泉駅
愛媛県松山市
天下の名湯、道後温泉はわが国最古の温泉であり、およそ3,000年の歴史を持つと言われている。「古事記」や「万葉集」にも出てくるという古さである。本館の建築は明治27年ということなので、漱石がいたときは新築の建物だったということだ。一階は大衆浴場の「神の湯」、二階は温泉客用の大広間、三階は温泉客用の「霊の湯」、その奥に漱石ゆかりの「坊っちゃんの間」がある。また、本館の東には又新殿という皇族専用の湯殿がある。
僕は別に浴衣で休憩する必要性を感じなかったので、「神の湯」に入ってみた。二階で休憩すると別料金が必要なのだ。入口で金を払うと、手拭を一本貸してくれる。もちろんバスタオルなど貸してくれないので、この手拭一本ですべて拭き取らねばならない。冬に道後温泉に行く方はタオルを持参すべきだ。
「神の湯」は、思ったほど大きくなかったが、それでも20人程度は浴室内にいた。湯船は中途半端な深さであり、足を投げ出して座ることができない。確か湯船に肘をかけ、腰を浮かして風呂に漬かった気がする。もちろん泳げるほど深くはなかった。三階の「霊の湯」は深いのだろうか?
硫黄のにおいもせず、お湯が白く濁ってもいないにもかかわらず、風呂から出てもずいぶん長い間、からだはポカポカとして暖かかった。確かに効能はありそうだ。僕の持っているガイドブックによれば、神経痛・神経衰弱・婦人病・ヒステリーなどに効能があるらしい。神経衰弱に悩まされた漱石にぴったりの温泉である。
3.ターナー島
向側を見ると青嶋が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。成程石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だ云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持には相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘の様に開いてターナーの画にありそうだね。」と赤シャツが野だに云うと、野だは全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ。」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。
(中略)
すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名付けようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれも這入っているなら迷惑だ。おれには青嶋で沢山だ。
夕暮れのターナー島
伊予鉄道 高浜駅
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