このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


18
. 空色のトランクス
 今日(2002年5月13日)、JR総武線快速に乗っていた僕は尿意を覚えた。車両の中のトイレに向かう。東京駅を過ぎると乗客は減るので、車中の移動も苦にならない。トイレも空いていた。ドアを開けて便器に正対した途端、足元に何か落ちているのに気づいた。それは、きれいに折りたたまれた空色のトランクスだった。決して脱ぎ散らかされておらず、ひっそりと便器の隣に置かれているところに、持主の律儀さが見て取れた。

 僕は用を足しながら、思わず涙した。この律儀な空色のトランクスの持主はどのような思いでこのトイレに駆け込んだのだろうか。彼は死に物狂いで戦っていたに違いない。それはまさに自分との戦い。一瞬でも気を許せば、命取りになってしまう真剣勝負である。
 律儀な持主は駅に向かうバスの時点ですでに腹が痛かったのかもしれない。しかし、今日はきっと大事な会議が控えていたのだ。今日の会議を成功させることができれば、彼には輝かしい未来が待っている。遅刻することは決して許されない。総武線快速まで我慢しろ。そこにはトイレが待っている。
 電車に乗り込んだところ、トイレは使用中だった。早くしてくれ。彼は心から神に祈ったに違いない。波状攻撃で押し寄せる便意が彼を苦しめる。神よ、なぜあなたは沈黙し給うのか。そんな彼を支えているのは、人間としての尊厳。もしくは男としての矜持
 そのとき、目の前のドアが開いた。待ちに待った瞬間だ。彼は中に入って、ベルトを外し、ズボンとトランクスを下ろそうとした。一瞬、遅かった。

 そんなことを考えながら、僕がトイレのドアを開けると、50代前後のサラリーマンがドアの前で待ち構えていた。慌てて中に飛び込む。このサラリーマン氏も神に祈っていたに違いない。そのとき、僕はふとあることに気づいた。

 このサラリーマンは、空色のトランクスの持主を僕だと勘違いするのではないだろうか?

 トイレから出てきたサラリーマンは僕に向かってこう言うに違いない。
 「おい、そこのサラリーマン、パンツをトイレに捨てるなよ!」
 「僕のじゃありません。」
 「じゃあズボンを脱いでみろ。」
 「えっ?」
 「ほら、慌てているじゃないか。パンツを履いているのならズボンを脱げるはずじゃないか。あの空色のトランクスはお前のものに違いない。」

 何で僕が羞恥プレイを受けねばならないのか。そんなことを考えているうちに、最寄駅に着いた。サラリーマン氏はまだ出て来ない。僕は余裕を持って電車を下りた。空色のトランクスの持主はもうパンツを買っただろうか。パンツを履かずにスーツを着ているのだろうか。涙をこらえて家に着替えに帰ったのだろうか。
 人生というものをしみじみと考えさせられた月曜日の朝であった。


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください