このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


. アルコール分解不全症候群(その2)
  この日記を書くのは非常に苦痛を伴う作業である。ほとんど自爆ネタと化してしまっている。今回は酒の弱い人間が接待をするのがどれだけ大変かという話しである。

 入社3年目、僕は貿易部隊に配属となっていた。当時はまだ海外出張に行くようなこともなかったが、海外からお客様が来ることは有った。ある日、台湾からお客様がやってきた。このお客様は、当社を通じてある商品を購入し続けてくれているが、今度新商品も購入することを考えており、日本に商品を見にくるという。非常にありがたい話しであり、当社台北支店からも1名同行ということになった。
  僕は既存商品を担当していたため、新商品の商談には同席しなかったものの、なかなかの好結果だったということであった。このようなときは商談の成功を祝して乾杯の連続となる。ちなみに商談が不首尾に終わったときにはヤケ酒で乾杯の連続となる。僕も既存商品担当ということで夜の宴会に呼ばれた。まあ要するに注文をしたり、酒をボトルで取るので水割りを作ったりするというのが僕に与えられた任務である。
  台湾のお客様と同席するのはそのときが初めてであった。見れば見るほど酒が強そうだ。同じペースで飲んでは自爆するのが目に見えている。僕は遠慮しようと決意した。接待でこちらが潰れてしまっては話にならない。一次会は寿司食べ放題だったが、皆が料理に集中したのであまり飲まなかった。(この方法は非常に有効だとわかったのでその後も多用している。)
  二次会はクラブに行った。そこは台湾人のお姉さんがいた。お姉さんがお客様や台北支店社員と話してくれているので、僕はこのときもあまり会話に参加せず(というよりも、言葉の壁があった)、時が過ぎるのを待っていた。僕がトイレに立ったときに上司が後を追ってきて、このようなことを言われた。
「虎羽、お前が酒を飲めないのは重々承知している。ただ、お前は接待をしているというのを忘れている。お客様に楽しんでいただくという気持ちがお前には無いのか。これから簡単なゲームをやるからお前も黙ってないで参加しろ。」
  ゲームは良く覚えていないが、中国語で展開した。僕は大学のときに中国語を第二外国語で選択していたため、数字くらいなら理解でき、その程度の理解力があれば参加できるゲームであった。とはいえ、僕はそのゲームはビギナーであり、かつ言葉の壁があったために順調に負けつづけた。もちろん負けたら水割り一気飲みである。最初は小さいグラスからだんだん大型化していくのは世の常というものであろう。
  二次会も無事に終了した。我々は銀座で飲んでおり、お客様を東銀座のホテルまで、酔い冷ましのために歩いて送っていくことになった。この時点では十分に酔っ払っていたが、歩くことは出来た。普通に歩いていたところ、台北社員がある看板を発見した。
「あ、牛丼屋だ。」
彼は日本に留学したことがあり、その際に牛丼の虜となってしまっていた。毎回日本出張の際には牛丼屋に行くという、キン肉マンもびっくりの牛丼ファンである。このときはまだ行っていなかったらしく、彼は強硬に主張した。お客様と僕の上司も同意した。僕は信じられない気持ちだった。あなた達も一緒に寿司の食べ放題に行ったではないか。心の中で僕は叫んでいた。
  牛丼屋の中には一緒に入ったものの、とても食べられる状況ではなかった。匂いを嗅いだだけで気持ちが悪くなり、トイレに駆け込んだ。トイレから出たら緊張の糸が切れてしまったのか、足元も覚束なくなってしまっていた。なんとか東銀座のホテルに辿りつき、お客様と台北社員をエレベーターで見送った。そこで上司と別れた。
「まあ、今日は後半は良く頑張った。タクシーで帰ってもいいぞ。」
「ありがとうございます。ちょっとトイレに寄ってから帰ります。」
「おう、お疲れ様。」
僕は個室トイレに入り、便器を抱えるようにして座り込んだ後、意識を失った。時計の針は1時を回っていた。

不自然な姿勢で寝ていたためか、体に痛みを感じて僕は目が醒めた。2〜30分は寝てしまったのだろうか。とりあえず時計の針を見る。
「?」
最初は理性が受け付けなかった。冷静になってよく見てみる。何度見直しても、時計の針は4時30分を指している。なんとタクシーどころではなく、もう始発の時間ではないか。これが土曜日の朝であることを神に感謝した。とりあえずトイレを出て、ロビーに向かって歩いたところ、広いロビーには人っ子一人いないことに気づいた。ここはかなり高級なホテルなためにロビーも広く、夜は混雑しているようなところである。それなのに、午前4時30分という時間のためか、見渡すかぎりロビーには誰もいない。「いかん、このままでは気付かれてしまう。」と思った次の瞬間、もっと大変なことに気づいた。フロントに呼びとめられた場合、僕はなんと釈明すれば良いのか。
「すいません。そこのトイレで寝てました。」
と言ったところで、誰が信じてくれるというのか。とはいえ、部屋を使ってはいないのだから金を請求されることはあるまい。でも、事実をありのままに説明すると、そのホテルマンの失笑を買い、僕のささやかなプライドは傷ついてしまう。いろいろな思いが脳裏をかすめる。僕はとりあえず柱の影に身を潜めた。フロントに気づかれてはいないようだ。誰かチェックアウトする客が来たら、その客の相手をしている間にすっと出れば良いのではないか。我ながら名案と思ったが、客が一向に降りてこない。待ちくたびれ、僕は意を決して歩き出した。フロントには目を合わせないようにして、一直線に回転ドアに向かって歩く。回転ドアまでが異様に長く感じられる。背後からフロントの刺すような視線を感じた気がしたが、無視して歩いた。回転ドアにはドアボーイが立っていた。「ありがとうございます。」と声を掛けられた僕は、お辞儀をして外に出た。外はまだ星が光っており、寒さが身にしみた。入社3年目の2月の話しである。



  

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