日本海海戦のサワリばドキュメンタリー風に追うていくとこげんなる。
3月16日、大西洋から回ってきたバルチック艦隊は、やっとフランス領マダガスカル島に着いた。
この時点でもう旅順要塞は陥落しとったケン、旅順港には行けず、ウラジオストクば目指すしかなかった。インド洋方面にはロシアの友好国がなく寄港がでけんもんやケン、将兵達は疲かれきって、水、食料、石炭は不足したまんまやった。
5月14日、バルチック艦隊はインドシナのカムラン湾ば出港した。偵察船からの情報で日本の連合艦隊は、対馬海峡でバルチック艦隊の到着ば待っとった。
5月27日午前2時45分、九州西方海域で巡洋艦「信濃丸」が、バルチック艦隊の病院船「アリヨール」の灯火ば夜の海上に発見した。
接近してみたら無灯火で航行しよるほかの艦も多数確認でけたもんやケン、4時45分、第一報「敵艦見ユ」ば「タタタタ」て無線で発信した。
「タタタタ」ていうとは、無線機のキーば叩きよる音タイ。
左・国道382号線に架かる万関橋。
日本海海戦(にほんかい かいせん)いうたら、明治38年(1905)5月27日から5月28日にかけて、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍のバルチック艦隊とが、対馬東沖で戦うた海戦のこと。
日本艦隊(司令長官は東郷平八郎)が採った「丁字戦法」で、ロシア艦隊は壊滅してしもうたとい、日本側の損失はほんのちょこっとやった。海戦史上まれにみる一方的勝利となったもんやケン、当時後進国て見られとった日本に、世界がびっくりこいてクサ、ポーツマス講和会議への道が開けたていう。
ロシア海軍は日露戦争が始まった時に、日本海軍の3倍近かか戦力ば持っとったとバッテン、艦隊ば分散させとったもんやケン、日本との戦いに投入でけたのは、旅順とウラジオストクば母港にしとった太平洋艦隊だけやった。
ロシア指導部は、太平洋艦隊だけでは日本艦隊に対抗でけんて判断して、バルト海の艦隊から主力ば抜き出して、日本海に回すことば決定した。
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督ば司令長官とした、新鋭戦艦8隻のバルチック艦隊と、ニコライ・ネボガトフ提督が司令長官の第3太平洋艦隊とが合併編成された。
この戦力とクサ、既存の艦隊とば合わせたら、日本艦隊の2倍もの戦力となるケン、これで極東海域の制海権ば確保できるて考えた訳タイ。
バッテン当時、石炭ば補給しながら航行する蒸気船の大艦隊ばクサ、ヨーロッパの海域から、東アジアまで回航してくるいうとは、無理もよかとこ前代未聞の作戦やった。
信濃丸から見張りば交代した巡洋艦「和泉」は、敵に発見されんごと7時間にわたり追跡ば続け、敵の位置やら方向ば無線で通報したていう。そやケン、バルチック艦隊の動きは手に取るごと東郷司令官には分かっとった。
5時05分、連合艦隊全艦艇に出撃命令が出された(戦争好きの駅長は、こげなところではワクワクする)。
連合艦隊の旗艦「三笠」は大本営に向けて「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」て打電した。
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」これが日本海海戦の有名な電文タイ。「海が荒れとるケン、水雷作戦が使えまっせん。砲戦ば主体にした戦闘ば仕掛けます」ていう意味やった。
10時。日本の第3戦隊「厳島」「松島」「橋立」と装甲巡洋艦「鎮遠」がバルチック艦隊の前方ばわざと横切った。第4駆逐隊の駆逐艦4艦「朝霧」「村雨」「白雲」「朝潮」もバルチック艦隊の前方ば横切った。
これは単なる偵察行動やったとバッテン、ロシア艦隊は回避運動に入った。なしかいうたら、自分たちが進む方に機雷ば撒かれたて勘ぐったけんタイ。これでバルチック艦隊がバラバラになり巡洋艦部隊は後方に遅れてしもうた。
13時55分、東郷司令官は連合艦隊旗艦「三笠」に「Z旗ば上げなっせ」て指示した。Z旗の意味は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」ていう文言が割り当てられとったゲナ。これも有名な文句タイ。
14時03分、両艦隊の距離は8,500mまで接近した。「どちら側で戦いまっしょうか…」砲術長が射撃準備ば右舷でするとか、左舷でするとかば司令官に聞いた。
東郷司令官は右手ば挙げて左へ半円ば描くように示し、先頭ば行く旗艦「三笠」は、大きく左へターン始めた。大胆にも敵前で船腹ば見せて回り込む。後で有名になった「丁字戦法」「トーゴー・ターン」タイ。
この頃の軍艦は、砲の多くが舷側に並んどったケン、横方向に砲撃でければ多くの砲が使用できた。縦にまっすぐ進む敵艦隊に対して、その進路ば横にふさぐ形、丁の字の体勢ができれば、味方の全艦艇の側方から先頭艦へ攻撃ば浴びせることが出来る。
この戦法は海戦の定石やったとバッテン、実際に丁字を描くとは一か八かのカケやケン、不可能て言われとった。
「三笠」の回り込みば見たバルチック艦隊の兵隊達は「東郷は狂うたバイ」て思い、こんときもう「勝ったあ」いうて喜んだとゲナ。
事実、先頭艦の「三笠」に続き、後続艦も回頭完了までに16発の命中弾ば受けた。
14時10分、距離6,400m。日本の連合艦隊は回り込みば完了し、右舷側にバルチック艦隊の30隻以上が見渡せるごとなった。回頭ば完了した艦からバルチック艦隊先頭の第1艦隊旗艦「スヴォーロフ」と、第2艦隊旗艦「オスラビア」に対して一斉砲撃ば始めた。
「三笠」の3射目が「スヴォーロフ」の前部煙突ば吹き飛ばし、続く4射目の砲弾が司令塔の覗き窓に飛び込んで半数即死、半数ば負傷させた。
14時17分、連合艦隊の砲弾がバルチック艦隊にどんどん命中して、「オスラビア」と「スヴォーロフ」で火災が発生する。
14時35分、連合艦隊は東南東に転針、バルチック艦隊の進路ば完全にふさぎ、丁字が完成した。この間にも連合艦隊の砲弾は着実にバルチック艦隊各艦ばとらえ、「スヴォーロフ」と「オスラビア」は甲板やら艦内各所で火災ば起こしながら戦列から離脱したバッテン、「スヴォーロフ」には、再び司令塔内に砲弾が飛び込み、もう戦闘は不可能になった。「オスラビア」はもっと酷うて、大火災ば起こしながら沈没した。
14時40分、たった30分間の砲戦で、海戦の大勢は決定的なもんになったていう。
バルチック艦隊の損害は、撃沈された艦艇16隻、自沈5隻、捕った艦6隻。ほかに6隻が逃亡。ウラジオストクへ到達したとはたったの3隻だけやったゲナ。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名。捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれとった。
日本側の損失はていうと、水雷艇3隻が沈没しただけ。戦死117名、戦傷583名。大艦隊同士の決戦としては史上まれにみる一方的勝利やったていう。「まれにみる」は博多弁なら「めったくそになか」ていう。
この結果、奉天の戦でロシア軍主力の撃滅に失敗しとった日本にとって、海戦での決定的な勝利は和平交渉の糸口になって、ポーツマス講和会議への道が有利に開れていった。
日本連合艦隊が出撃した万関瀬戸
前置きばっかりが長うなったバッテン、本題の万関橋はいうたら、日露戦争の前夜の明治32年(1902)、想定されたバルチック艦隊の侵攻にそなえて海軍がクサ、竹敷軍港から艦艇が朝鮮海峡へも対馬海峡へも出撃でけるように、万関地峡ば掘り切って東に抜ける水路ば作ったとが万関瀬戸やった。日本でも数少なか人工の瀬戸ていう訳タイ。
こうして生まれた万関瀬戸のために、対馬は上島と下島に切り離されたもんやケン、それば結んだとがこの万関橋ていう訳タイ。ああ、ここまでたどり着くとの長かった。
万関瀬戸は始め幅25メートル、水深3メートルやったとバッテン、のちに幅40メートル、水深4.5メートルに拡張された。
橋もこれに合わせて架け変えられ、現在の橋は三代目。平成8年9月に完成したもので、近代的なアーチ型の鉄橋。
現在この水道および橋は海上、陸上の交通の要所ていうとと同時に、背後の絶景(三浦湾・浅茅湾)とマッチして観光の名所にもなっとる。
明治33年(1905)5月27日、この瀬戸ば通って出撃した連合艦隊が、対馬の東方海上でバルチック艦隊ば捕え、コテンパンにやっつけたとが、これまで長々と話してきた日本海海戦タイ。
なお、こんとき沈んだロシアの艦ナヒモフ号にクサ、金塊が積まれとったていうとが、昭和40年代に話題となって、実際に民間のサルベージ会社が探索したとバッテン、大した収穫はなかったらしか。
こんとき引き上げられた
ナヒモフ号の大砲
が今でも、上対馬の茂木浜に置かれとるいうケン、行ってきた。
左・この辺の地名、久須保(くすぼ)の「くす」ていうとは、「越す」がなまっとるとで「万関瀬戸ば浅芽湾さい越していく」ていう意味のあるとゲナ。
三代の万関橋
明治33年(1900)の初代万関橋は、橋長80メートル、高さ3メートルのトラス式の鉄橋やった。
二代目は、第二次世界大戦後の昭和28年に総事業費3,300万円ばかけて、昭和33年に完成。橋長81.6メートル、幅5.2メートル、設計荷重(自動車荷重)9トンの上路式アーチ橋やった。
三代目万関橋は、旧万関橋から西側へ10.40メートル移動して、道路ば1車線から2車線へ、設計荷重ば9トンから25トンにするとともに、万関瀬戸拡幅工事(運輸省が幅65メートル、水深5.5メートルに拡張の予定)に対応させて架けられた。
橋長210メートル、幅10メートル。鋼中路ローゼ桁橋。平成3年に総事業費15億円で着工、8年9月に開通した。
上の地図で見ると、万関瀬戸ばほがせは浅芽湾にある港から、軍艦であれ漁船であれ、どっちへも出て行けて便利いうとがよう分かる。
左・その万関瀬戸に美しいアーチを描いて架かる万関橋。