このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

信仰はマリア像と「ド・ロ壁」に守られた       「長崎県」の目次へ
県指定有形文化財

 山が海に落ち込み、平地もなか外海の大野地区は、出津(しつ)の北4km、角力灘(すもうなだ)ば望む山間にある。

 明治12年(1879)に黒崎・出津地区の主任祭司として赴任しなった
ド・ロ神父は、老弱なため出津まで出てこれん大野地区の、たった26戸しかない信者のために、この巡回教会堂ば設計・指導して建てなった。

 建設費用は当時の金で約千円。
 ド・ロ神父の自費と信者の奉仕によって明治26年(1893)にでけあがった。

 玄武石ば外壁にした瓦葺きのちいさな建物タイ。

 赤土ば水に溶かして砂と石灰ば混ぜ、自然石ば積み上げる
「ド・ロ壁」の技術ば使うてあるいうことで、貴重な建築物タイ。

 正面にある風よけの「ド・ロ壁」が強風に耐え、いまでも山中にひっそりと立つ。

 入口のマリア像も敬虔な信徒と、ちいさな教会ばこれまで見守ってきた。

 観光のためにわざわざ見に行く物好きは少なかバッテン、外海の風土そのものの。素朴な雰囲気があたりに漂う。

 昭和47年(1972)に県の有形文化財に指定され、2008年には世界遺産暫定リストに登録された「長崎の教会群」の候補のひとつにあげられとる。

 大野教会堂の建物は長方形で、普通の家とあんまり変わらん。初めは一部屋の会堂部のみやった。北側の正面にあるド・ロ壁から祭壇のある位置まで約4間。ほとんど建ったときのままで残っとる。

 天井も一般の民家と同じ作りの棹縁天井で、床も初めは床板張りもせんで土間仕上げやったらしか。屋根はトラスの寄棟屋根。トラスいうたら、三角形ば利用した山形の構造で強かと。

 南側に司祭部屋部分ば増築したとは、ド・ロ神父がしばしば祭壇脇に寝泊まりしとんなって、狭かったケン、ていわれとるバッテン、一時期は「女部屋」として利用されとったらしか。

 会堂部の土間ば床板張りにしたとは、第4代の神父として佐賀県の馬渡島(まだらしま)から赴任してきたヨゼフ・ブルトン神父のときで大正15年(1926)のことやったらしか。

 会堂部は北側ば正面にして中央に引き違い板戸があり、その上部に半円アーチ形のはめ殺しガラス窓がある。東西の両側にはそれぞれ3個の窓があって、窓の上部はこれも半円アーチ形のはめ殺しガラス窓、下は外付け雨戸のついた片引きガラス窓で、窓枠は風に耐えるごと「ド・ロ壁」の表面にしっかりと外付けされとる。

 円形アーチの部分は石積みでは作りにくかったけんやろう煉瓦積みにしてある。正面出入口から約1.3m前方には厚さ約0.5m、長さ約6.5m、高さ約3.3mのいわゆる「ド・ロ壁」が衝立のごと独立して立ち、この教会堂の大きな特徴になっとる。

「ド・ロ壁」ていうとは、むかしからこの地方で温石石(おんじゃくいし)て呼ばれる水平に割れ易か石ば使い、砂と石灰にのりとすさば混ぜた接着剤で積み上げていく独特な工法があり、これで石段から塀、かまど等ば築いとった。ド・ロ神父はこの工法に目ばつけて、赤土ば水にとかした濁液で石灰と砂をこね合わせ、これで玄武岩ば固めて壁ば作ることを考えだしなった。石の模様がなんとも美しか。

 大野教会の全面の壁は、壁の厚さが40〜50cmもあって頑丈そのもの。地元の材料ば活かした工夫は「なんでも詳しかド・ロ神父」の面目躍如やった。

左・教会の玄関部分。右の黒かとこが「ド・ロ壁」で引き戸の入口までに約1mのアプローチがある。

左・一見して普通の家となんら変わらん部屋やけど、これが会堂やった。
 いまも現役やケン、整理整頓が行き届いとる。

右・教会堂の建つ石垣の下は畑。なんとも素朴でこぢんまりとしとる。
 マリア像のそばには、皇帝ダリヤが咲いとった。

右・屋根の止め瓦(隅瓦)には十字架があしらわれとってただの家ではなかことば表現しとる。

 場所・長崎市下大野町。出津教会から国道202号線ば約3km北上。(出津教会までは 「出津教会」 ば参照) 右に大野神社の石段ば見たら50mで右折。すぐに左折して松尾酒店の前で右ルーブ。さらに大きく左ループして250mで、今度はカックンと右折。100mちよっとで左への細い道ば上がると大野教会の駐車場に着く。  取材日 2007.12.20

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