もともと大刀洗平和記念館は昭和62年(1987)4月から、甘木鉄道太刀洗駅の旧駅舎ば利用して、個人で運営されとったとバッテン、新設の平和記念館がその展示品の大部分ば引き継いだり、独自に収集したりして、平成21年(2009)10月3日開館した。入館料500円。
零式艦上戦闘機(ぜろしきかんじょうせんとうき)は大日本帝国海軍の主力戦闘機で、「ゼロ戦」の略称で知られとる。支那事変の半ばから大東亜戦争の終戦まで最前線で活躍した。
日中戦争から太平洋戦争の緒戦においては、航続距離の長さ、重武装、優れた格闘性能で、連合国の戦闘機に対して無敵ともいえる強さやったケン、相手国のパイロットから「ゼロファイター」いうて恐れられとった。
バッテン、大戦中期以降、連合国側が新鋭機ば大量投入してきたこと、ベテラン搭乗員の損失やらで、その戦闘能力は弱り、大戦末期では特攻機としてその多くが散っていった。
開発は三菱重工業。初飛行は昭和14年(1939年) 総生産数はなんと10,430機にもなるとゲナ。アメリカ陸軍のムスタングP-51、ドイツ空軍のメッサーシュミットBf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として有名かと。
ここに展示されとる機体は、第252海軍航空隊長柳村義種大佐の乗機で、マーシャル群島のタロア島で1944年1月30日に米艦船群の艦砲射撃で破壊され、そのまま放置されとったとば、1978年にアメリカの輸送船の船長が発見し回収された。そんとき、周辺には零戦の残骸が約15機もあったらしか。
このうちの程度の良かった、Y2-128号が福岡県の航空宇宙団体にひきとられ、昭和58年(1983)にサイパン島から帰ってきた。1984年6月から1985年1月にかけて修復され、名古屋空港内の新しく建設された名古屋空港航空宇宙館に展示されとった。
こんど筑前町立大刀洗平和記念館がでけたケン、所有者の福岡航空宇宙協会がここに寄贈しなった。現存する零戦の中でも、三二型はこれ1機だけゲナ。
零式艦上戦闘機三二型は、大刀洗平和記念館の展示物のなかで一番の目玉やケン、戦争ば知っとるもんも知らんもんも、物珍しそうにのぞき込んどるバッテン、これで死んでいった若者のことば考えたら、ついつい手ば合わせとうなってしまう。
理由はなんであれ、戦争ば絶対したらいかん。人間が殺しあいばしたらいかん。いまも世界のどこかで殺しあいが止まらんとは、なんとしても哀しか。
平成8年(1996)に博多湾の海中から引き揚げられた機体が、復元されて太刀洗平和記念館に展示されとる。これが九七式戦闘機では現存する唯一の機体ゲナ。
九七式戦闘機(きゅうななしきせんとうき)は、大日本帝国陸軍の戦闘機で、連合軍によるコードネームはNate(ネイト)やった。開発は中島飛行機で、初飛行は昭和11年(1936)10月。製造は中島のほかに立川飛行機と満州飛行機でも行われたていう。全部で3,386機も作られとる。
陸軍最初の低翼単葉(翼が胴体の下にある)戦闘機として、昭和15年(1940)前後の主力戦闘機やった。旋回能力が優秀ですばしっこかったケン、空中戦では九七式戦闘機の右に出る機体はなかっていわれとった。
九七式戦闘機
戦争だけはすんな ! !
ゼロ戦
大刀洗の地名は、南北朝時代の合戦で南朝側の菊池武敏が、血の付いた刀ばここの川で洗うたことに由来する。
太刀はむかしは大刀ても書きよったバッテン、平安時代以降は太刀て書く。そやケン、町名も太刀洗じゃなからないかんとい、大刀洗町になっとるとは、明治時代の役人が点ば落として「大」で登記簿に書いてしもうたけんゲナ。
甘木鉄道の駅名は、ちゃーんと太刀洗駅。
「大」と「太」の表記は、「大宰府」と「太宰府」についてもややこしか。いにしえの役所名は「大宰府政庁」バッテン、いまの市名、天満宮の名は「太宰府」て使い分けられとると知っとった ?
漢字は点ひとつでもややこしか。「話」ていう字に点ば加えたら「てんで話にならん」ていうとはシャレ。
シャレはともかく、むかしから戦の多かったこの地に、平和記念館がオープンした意義は大きか。
駅長のごと小学生で太平洋戦争に巻き込まれて、空襲に怯えた日々ば送ったもんにとっては、その恐怖感が成人してもついて回っとる。ましてやもうすこし年代が上で、戦地に狩り出され死んでいった人たちのことば思うと、展示品見ても心が疼く。興味本位での見物はして貰いとうなか。戦争ヒロイズムて勘違いしたらいかん。
若っか世代に「戦争は絶対すんな」ていうとば伝えていかないかん。いかん。いかん。
旧記念館のとき取材した記事も、ちゃんと残したまましとるケン、参照にしちゃんしゃい。
「頑張る甘鉄」
http://www.geocities.jp/tttban2000/SL4336/index.html
「鉄道遺跡の太刀洗駅」
http://www.geocities.jp/tttban2000/Room/sight/railway/tachiarai/tachi.html
太刀洗行場(たちあらいひこうじょう)いうたら、現在の福岡県三井郡大刀洗町と朝倉郡筑前町にまたがってあった旧日本陸軍の飛行場タイ。
大正8年(1919)10月に完成し、11月から日本陸軍飛行第4連隊が常駐した。
当初は中国大陸に向かう航空隊の中継基地の役割を担ったとバッテン、昭和に入ると陸軍航空兵の教育訓練の中心地となった。
昭和14年(1939) 第5航空教育隊がでけて、ここで訓練ば受けた青年達が第一線に狩り出されていった。特攻隊員となった卒業生も多かていう。
そやケン「太刀洗は地獄の一丁目。いっぺん 入ったら帰られん」て怖れられとった。
太平洋戦争終盤には本土防衛の一翼を担うたバッテン、昭和20年(1945)3月 アアメリカ軍の空襲で壊滅的な被害ば受けた。終戦後、広大な飛行場の用地は農地、工場用地に転用された。春の菜の花、秋のコスモスで親しまれとる キリンビール福岡工場の「ビアパーク」も飛行場の一部やった。
記念館の床が飛行場付近の航空写真になっとって分かりやすか。