錦江湾は、約2万5千年前に姶良カルデラで発生した姶良大噴火の影響でクサ、平均水深が117mと深か。そのために海岸付近の傾斜角が大きうて、お椀形の海底地形となっとるっタイ。
そやケン、湾岸の国道10号線も、日豊本線も狭ぁかお椀の縁ば走っとるようなもんやった。
竜ケ水駅もシラス台地が錦江湾に落ち込んどる崖っぷちにあったケン、国道からは階段ば上らないかんやったし、駅構内の上はすぐ崖やった。
駅長は写真撮りに行く度に「景色は抜群やけど、脆かシラス台地が崩れたら危なかねえ」て思いよった。
まもなく、ごぉーっていう音とともに、土石流が避難しとったスタンドば直撃してきた。
「逃げろ」、皆、国道ば越えて海岸の狭か歩道に走った。
国道に立ち往生しとった車の人たちも加えて650人が、海岸で豪雨の中に立ちすくんどった。
そん時、崩れた崖のすぐ横で助けば求めて手ば振っとる人がおった。
巡査部長は思わず走り出した。ショートして火花ば出しよる高圧線の下ばかいくぐって、崖ば必死で登った。そこには足の不自由かばぁちゃんがひとり取り残されとった。
「わたしの背中につかまらんね」X巡査部長はばぁちゃんばしっかり背負うて国道に下りてきた。心配して見よった650人のなかから大きな拍手がわき起こった。
駅の海側ホームにある水害復興記念碑
いまは相対式ホーム2面で。コンクリート造の駅本屋が山側にあるバッテン、待合室やら券売機はなか。
ホームの間には跨線橋がある無人駅。そして海側ホームには水害復旧の記念碑が建っとる。
前から駅長が心配しよったことが現実になったとは、平成5年(1993)8月6日、忘れもせん駅長の誕生日やった。
鹿児島地方ば襲うた集中豪雨で発生した土石流のため、駅が流されてしもうたっタイ。
丁度、停まっとった列車がおったもんやケン、列車もろとも流されて、逃げ遅れた3名の乗客が犠牲になってしもうた。
X巡査長は救助の舟ば呼ぶために無線ば入れたバッテン、豪雨のため感度が悪うてよう繋がらんやった。雨の中全員が、ずぶぬれやった。さいわい夏やったケン、寒さは感じられんやった。7時頃になって、雨の中ばフェリーが近づいてくるとが見えた。歓声が上がった。
その時。3回目の土石流が発生した。今度は列車が直撃され、駅前のパトカーとともに流された。逃げ遅れた人ば助けに走ったX巡査部長も10数人といっしょに海中に押し流された。
7時30分、近づいたフェリーは養殖いかだに阻まれて、接岸できず立ち往生しとった。それば見て650人は絶望の中に立ちすくんだ。
海に流されたX巡査部長は、泥海の中からやっと海面に出た。そして、重傷ば負うた女性ばいかだに押し上げ、いかだば引っぱって岸へ泳いだ。
顔から血ば流しながら、X巡査部長が海からはいあがってきたとき、「私にも手伝わせて」いうて、若者たちが動き出した。雨はいよいよ激しかバッテン、皆の気持ちが落ち着いてきて、整然と行動ができるごとなった。
「こんなもんしかなかバッテン」いうて、スーパーの買い物袋ば、子供のカッパ代りに差し出す人もあった。
夏とはいえ、もう暗うなってきたケン、車の非常灯ば持ち出してきて振り回し、皆の居場所ば海に知らせる人も出た。8時30分、どこからともなく多くの漁船が現れて、養殖いかだの間ば岸に近づいてきた。漁師は海で事故があったら、誰やったっちゃ助けに行く。それが漁師仲間の掟タイ。
現場に接岸した漁船の人たちは、泥だらけの650人が女子供ば先頭に、ケガした人ば助けながら、ちゃんと整列して待っとったとにたまがった。
ケガばしたX巡査部長は「早よ乗んなさい」て勧められたバッテン、「私は警官ですタイ。最後まで残ります」いうて、午前1時過ぎ、最後の舟でJRの職員たちといっしょに舟に乗った。
650人の脱出劇は終った。
X巡査部長は「すんだ」と思うた途端に、身体の力が抜けてしもうて、涙が止まらんやったていう。いまから15年前の事件やった。

2001年、NHKの「プロゼクトX」では、この時のドキュメントば「絶体絶命650人 決死の脱出劇ー土石流と闘った8時間」として取りあげた。
この事故ば「プロゼクトX」風に博多弁で語ると、こうなる。
平成5年8月6日、鹿児島は時間雨量90ミリば超す集中豪雨の中にさらされとった。こげなヒドか雨は100年に一ぺんのことやった。崖が迫る海岸に、JR日豊線と国道10号線が並んで走る鹿児島市吉野町竜ヶ水地区、もともとがシラス台地で、豪雨に弱か「土石流の巣」のごたあ場所やった。
くも膜下出血で療養後、職場に復帰はしたとバッテン、無理がでけんいうことで、交番勤務となったX巡査部長はクサ、その日、市内で発生した強盗事件の緊急指令ば受け、竜ヶ水駅前で豪雨の中、検問ばしよんなった。
午後4時53分、鹿児島行普通列車が竜ヶ水駅に到着したバッテン、あんまり雨がひどかもんやケン、運転見合せの指令が出て、竜ケ水駅に停車したまま様子ば見ることになった。乗客300人は列車の中で雨が小降りになるとば待っとった。
停車して30分も経った頃、駅前方の崖が崩れた。列車はもう鹿児島の方へは動かれん。車掌は「このままやったら、ここも危なか」て判断して乗客ば下し、海岸へ退避させるごと誘導しだした。
下の国道で検問ばしとったX巡査部長は、大勢の乗客が降りてくるとば見て「こらあ、おおごとバイ。えらい現場にきたもんや」て思うた。
この地区に詳しかX巡査長は、このへんには土石流にたいして安全な場所はなかていうことが分かっとった。X巡査部長は「歩いて避難しよったっちゃ、危なか」て、乗客ばガソリンスタンドの屋根の下に避難させた。

「プロゼクトX」ではX巡査部長ばクローズアップして取りあげとるバッテン、停車中の車両ば堤防代わりにして、乗客ば避難させた J R乗務員の話もある。
竜ヶ水駅に停車中に前方の線路が土砂崩れで通行不能になっとき、乗務員は国分方面へ引き返そうとしたとやが、いつまでたっても指令室の許可が下りんやった。
そうこうしよるうちい、国分方面の線路もふさがれて立ち往生。にっちもさっちもいかんごとなってしもうた。
このとき土石流の危険ば感じた乗務員は、とっさの判断で崩れそうな箇所にあえて列車ば止め、乗客の乗っとらん空の車両ば堤防代わりにして乗客ば避難させた。
この好判断で多くの乗客は、土石流発生直前に避難することができたとやけど、乗務員の指示に従わんで車両に乗ったままやった乗客3名が、土石流に車両ごと巻き込まれて犠牲になった。結局、この事故では、4人の人が土石流に呑まれて帰らぬ人になってしもうた。
それにまた悲しかことには、この乗務員も、そのあとショックと過労で亡くなんなったていう。
列車は1日も止められんケン、j Rの復旧工事は迅速で、1ケ月後の9月15日 には、竜ケ水駅の営業は再開された。
流されたほとんどの家屋は、被災後の土石流災害対策で、ほかの場所に移転したバッテン、地形に対する根本的な補強工事は行われとらんケン、いまでも大雨警報が出たら、逃げて下さいていう標識だけが駅の構内に立っとるだけ。写真・左
30年ぶりに駅長が訪ねていった竜ケ水駅は、当時と全然違う駅になって記念碑とともに静まりかえっとった。
下の写真で見れば、線路の下が国道ですぐに海ていう竜ケ水の立地条件が分かる。(1972.2.10撮影)