面白かとは、駅舎とホームの間に駐車場があって、これが南薩鉄道の発着ホームやった。線路のあった跡ば舗装して南薩線沿線の人たちに駐車場として開放しとる。車で駅まで来て、博多、東京などへJRば利用する場合、駐車料金は何日でも無料ゲナ。
「南薩線がのうなって、最長で約50キロも離れた伊集院駅が“最寄の駅”になってしもうたお客さんのため」JRがイキな計らいばしとるとタイ。就職試験やら、観光旅行などで利用されているていう。鹿児島の人情と田舎やケン、できるサービスやけど、これが都会やったら不法駐車ばっかりバイ。
駅前には、騎馬で采(さい)配ば振る島津義弘(よしひろ)の銅像が立っとる。なんでここに島津義弘の銅像があるとかていえば、近くにある徳重神社の祭神が島津の第17代大守島津義弘で、鹿児島三大祭り・妙円寺詣(まい)りの妙円寺が義弘菩提寺やけんタイ。
島津義弘はクサ、第16代島津義久の弟で、あんちゃんの補佐ばして島津の領地ば広げた武将タイ。関ケ原の戦いでは西軍についとったもんやケン負けた。バッテン、負けが決まるやいなや、あえて徳川家康陣の中央ば突き破って、鈴鹿山脈ば超え、堺の港から無事薩摩に帰るていう離れ業ばやっとんなる。これが歴史でも有名な「島津の退き口」ていう故事タイ。駅前の銅像は、そん時の姿ゲナ。
その後、義弘は大隅の加治木に隠居して、若者たちの教育に力ば注ぎ、元和5年(1619年)7月21日に死去。享年85。このとき、義弘の後ば追って13名もの家臣が殉死しとるとゲナ。
辞世の句が残っとる。「天地(あめつち)の 開けぬ先の 我なれば 生くるにもなし 死するにもなし」
左・南薩鉄道の始発ホームやった跡ば舗装してJR利用者の駐車場になっとる。
下左・フェンスの右の草むらが南薩鉄道の線路の跡。
下右・くるっと360度回転して西を撮ったとこ。
南薩鉄道はこの先で左にカーブして、上日置駅へ南下して行った。
伊集院駅前の島津義弘銅像、作者は鹿児島市の彫刻家で鹿児島大名誉教授の中村晋也(82才)さん。
2008年の文化勲章ば貰いなった。
「妙円寺詣り」いう行事は、関ヶ原の時の艱難辛苦ば偲んで、鹿児島城下の武士たちがいつからともなく始めたとらしか。なんばするとかていえば、関ヶ原合戦の前夜にあたる旧暦9月14日にクサ、甲冑に身ば固めて鹿児島ば出て、伊集院にある義弘の菩提寺の妙円寺(現在は徳重神社=同神社は、明治二年の廃仏毀釈で妙円寺が廃寺され、その跡に建てられた神社)に参拝するとタイ。
往復40キロば、夜を徹して歩くことで、平和な時も油断なく、非常時に備え耐え抜く精神ば養成するとが目的の行事ゲナ。明治・大正・昭和・平成と受け継がれ、鎧冑に身ば固めた武者行列のほか多くの人たちが、町内はもとより県内各地からも訪れ、多くの参拝客でにぎわうていう。
司馬遼太郎が「故郷忘(ぼう)じがたく候」ていう小説に書いた朝鮮人陶工(薩摩焼窯元)の里、日置市東市来町美山(みやま)も近くにある。いまは十五代沈壽官(ちんじゅかん)さんの登り窯がある。窯はもう400年以上も続いとる。
それはけっこうなことバッテン、朝鮮から来た窯元には複雑な感情が走る。沈壽官さんの先祖にしても、有田の李参平にしても、慶長3年(1598)秀吉の朝鮮侵攻のとき、日本軍が拉致してきた陶工やったけんタイ。
北朝鮮の拉致問題が、いっちょもラチがあかんどるバッテン、日本も過去には人道に違反することば、中国・朝鮮でしてきとるとタイ。「戦争やケン、人道もクソもあるもんかい」ていえばそれまでバッテンが。