満願寺川には国指定天然記念物のオキチモズクがおる。
日本だけしかおらん淡水の藻で、川底の岩に付着するとゲナ。ここのほかには九州でもわずか数カ所にしかおらんレッドデータブックの絶滅危惧種。いかに満願寺川がきれいな川かいうことの証拠。
外輪の西端にある「かぶと岩展望台」は、7月の夕方になると「ゆうすげ」が咲くケン有名。バッテン、このあたりまで西になると、外輪の水はチッゴガワより菊池川の方へ集まっていく。
押戸石
なんでも「ここはシュメール人の雨乞いの場所やった」とやろうて、教育委員会までがいうとるじゃなかね。
そげな馬鹿なことがあるもんかい。シュメール人いうたらクサ、4000年も前にメソポタミアで活躍しよった民族やろうが。物好きでは人に負けん駅長は、自分の目で確かめようと、2回も訪ねて行った。
1回目は場所ば見つけきらんやった。なんせ外輪のだだっぴろか草原の中やろうが、人に聞こうにも近所近辺に人はおらんタイ。2回目やっと見つけたら、大岩に文字らしきもんが見えた。バッテン、駅長は博多弁なら解読しきるけど、シュメール語はチンプンカンプン。なんがなんやら全然分からんやった。
「おしどいし」または「おしとのいし」ていう。
外輪の北斜面に大きな石が丘の斜面一杯に転がっとる。
駅長がなし阿蘇のこげなもんに興味ば持ったかていえば、このなかの一番大きな石にペトログラフ(古代文字)で「神・雨・祈り」て刻んである、ていうことば聞いたケンやった。
第一どげんして、シュメール人がこげなとこに来たとかが理解でけんタイ。宇宙船に乗って来たとやろうか、地球の裏側からマグマの中ば通ってクサ、阿蘇の火口から飛び出したっちゃろうか。石ば見ても謎は深まるばかり。
むしろ「おおむかしここで鬼たちが、大石ばお手玉して遊びよった」ていう言い伝えの方がユーモラスで納得でき、転がっとる石ばしばらく眺めとった。
いまはだいぶ行きやすうなっとるバッテン、行きんしゃるなら車の底ば打たんゴト車高の高っか車がヨカ。
上・押戸石の丘。右・斜面に転がっとる鬼のお手玉石
ここが戸籍上の筑後川原点「田の原橋」
小国からくじゅう瀬の本に行く国道442号線、黒川温泉の2km手前に田の原温泉がある。標準語なら「たのはら」バッテン、ここは九州。「原」はみんな「はる・ばる」やケン、ここも「たのはる」ていう。
田の原川沿いに旅館が5軒点在する。周辺は自然がいっぱいの田園地帯タイ。「地獄元湯」て呼ばれる源泉があって、川っぷちに共同浴場が1軒。
そこへ渡っていく橋が田の原橋。ここがチッゴガワの戸籍原点。熊本県阿蘇郡南小国町大字満願寺字中園台8894番地。
左・上流から見た田の原橋
田の原温泉の開湯は鎌倉時代で、田の原川の川底から吹き出しよるとば、土地の百姓さんが発見しなったて云われとる。この辺からは縄文時代の遺跡も発見されとるケン、古うから人が住んどったっちゃろう。
いまは隣の黒川温泉に負けとるバッテン江戸時代には湯治場として栄え、熊本藩の藩士もよう利用しよったていう。
若っか観光客はおらん。地元のジジババと年寄り連れの湯治客だけ。それがまた日本の温泉の雰囲気ば感じさせる。夏場は蛍が有名で、夜には幻想的な風景になるらしか。
橋の側でよこうとんなった(よこうは博多弁、休む)土地のジイちゃんに「この橋が筑後川の原点ですバイ」ていうたら、「へぇ、そげなこつの」てたまがっとんなった。
橋の袂の旅館の支配人さんにも云うてみたら、こっちはチャンと知っとんなった。
もしこれが長崎やったら、看板立ててポスター作って、大げさに宣伝しまくるところやろうバッテン、そこは肥後モッコス、頑として無関心ば装うとる。
阿蘇・くじゅうに降った水。湧いた水ば集めてくる田の原川
その川のそばに温泉があり町が栄える。田の原川・くじゅう瀬の本高原から黒川温泉・田の原温泉ば通って小国へ
小田川・瀬の本から小田温泉通って田の原川へ
満願寺川・瀬の本から満願寺温泉ば通って小国で合流
志賀瀬川・外輪山から南小国ばとおって小国で合流
立岩川・田中川・馬場川・中原川・湯田川も外輪の水ば集めて小国で合流する。
満願寺 鬼の継石
満願寺川に沿うて満願寺温泉がある。旅館1軒、民宿1軒、ペン ション1軒。ところで満願寺ちゃなんな。
鎌倉時代の文永11年(1274)、押し寄せた元寇から国ば守るためでけた祈願寺やった。なしそれが熊本の山ん中にあると。北条時定が鎮西奉行としてこの辺ば治めとったけんタイ。そやケン、ここには北条時定、弟定宗、同嫡子随時(ゆきとき)の墓もある。
そして寺には国重文の北条時宗、時定の画像、県重文の宝塔、 室町時代に作られたていう「満願寺庭園」などがある。
南小国町の歴史・文化の中心やったろうバッテン、いまは寂れ果てて哀れば止めとるだけ。
おおむかしここは、久住の鬼たちがお気に入りの遊び場やったいう。あるとき遊びに来た鬼たちが「石積み遊び」ば始めたっタイ。
ところが3つの石ば重ねて、4つ目の石ば乗せようてしたところで、夜が明けてしもうたもんやケン、4つ目の石は近くの田圃に投げ捨てて山の中さい逃げ帰ってしもうた。
その石が残っとるいうケン、物好き駅長、見過ごすわけにはいかんタイ。見に行ったら、だぁーれも寄りつかんヤブの中に、今でも高さ9メートルの石がそびえ立っとった。
ようするに阿蘇の溶岩が永年のあいだに、洪水やら満願寺川の水で浸食されてでけたもんやろう。話としてもワンパターンで、どこにでもある「鬼と石」の伝説やった。
上・北条三氏の墓。
左・確かに三段積まれとる鬼の継石
右・満願寺の入口にあるバス停は藁屋根で洒落とる
田の原川と小田川の合流点に夫婦滝
田の原温泉の約1.5Km小国よりに夫婦滝がある。国道442号線に看板も出とるし駐車場つきのお土産屋さんもある。駐車場から歩いて5分で二本の滝がいっぺんで見られる。
土産店のまわりには何千ていう紙の絵馬がさげられとって、ここは珍らしゅうラブラブカップルの立ち寄るところ。 左の滝は、黒川温泉やら田の原温泉ば流れてきた田の原川のもの。右の滝は小田温泉ば流れてきた小田川の滝。そうタイ。田の原川と小田川の合流地点ていう訳。田の原川の滝が男滝(高さ15m)で、小田川の滝が女滝(高さ12m)ゲナ。ここで田の原川1本となり、小国・杖立へと下っていく。現地の説明文は、合流地での滝は日本でここだけて威張っとった。
この滝には悲恋物語とハッピーエンドのふたつの伝説が残っとる。
くじゅうの湧蓋山(わいたさん)に悪い大蛇がおってクサ、村の娘お里が山菜ば取りに行ったときにさらわれてしもうたゲナ。それば聞いた田の原村の力持ちの太郎がクサ、田の原川と小田川の夫婦の龍と力ば合わせて、見事大蛇ば退治し娘ば助け出したていう。その後、ふたつの川の交わるここで、お里と太郎は結婚したとゲナ。
もうひとつは侍と村娘の悲恋物語で、娘が身ば投げた小田川の滝が女滝、侍が吸い込まれた田の原川の滝が男滝で合わせて夫婦滝になった。これがいつのまにか縁結びの滝として知られるごとなった、ていう訳タイ。熊本にしては誰が仕組んだか知らんバッテン、長崎バリの上手か仕掛けやった。



ちょっとややこしかバッテン、満願寺川と合流した志賀瀬川は、立岩川といっしょになって、南小国の古民家ガーデンレストラン「参拾六番」のとこで田中川と合流、さらに南小国町役場の前で馬場川に流れ込む。こうして阿蘇外輪の水が小国へと集まることになる。
地図見たら小国には道路も川も集約されとることが分かるバッテン、水の恩恵は豊な森林ば育てて、全国的に有名な小国杉は生み出した。
小国の名のおこりはクサ、 阿蘇神社の神となった健磐竜命(たけいわたつのみこと)が阿蘇山上から四方ば拜みなって、三方に矢ば放ちなったとき、北に放たれた矢の落ちたところが御矢の原(これが現在の宮原・みやのはる)
命の言いつけで巡視に来た火の神と水の神に、大河片澄ていう御矢の原の豪族は「臣を御手の中におかせ給わば、臣が国小なりとも青山四方を巡りて住吉の国なり。臣従はば皆服し奉るべく、誰一人背くものはありません」て服従ば誓うたていう。博多弁でいうたら「私ば味方につけときんしゃったら、誰も絶対にひっちゃこっち向いたりはしまっせん」タイ。
この言葉の中に出てくる「国小なりとも」から小国の名がきたて云われとる。いまも3,100戸、8,300人の小さか町バッテン、森はしっかり育っとる。

戦後の昭和29年(1954)久大線の豊後森から小国まで鉄道が通じた。名前は終点の肥後小国駅が小国町の宮原にでけたケン宮原線(みやのはるせん)
国の構想は大きく、佐賀から福岡県の瀬高、熊本県の隈府(いまの菊池)ば経て大分県の玖珠(豊後森)に至るていう壮大な計画やったとバッテン、人口の少なか県境の高原地帯ばっかり走る路線やったもんやケン、利用は振わず赤字ばっかりタイ。流石の国鉄も昭和56年(1981)には投げ出してしもうた。
たったの30年足らずでシマエた路線やったバッテン、線路の跡はいまだに残っとって、物好きな駅長は分岐駅の久大本線・恵良駅から終点の肥後小国までの26kmば歩いて探索した。
上左・宮原線の終点肥後小国駅の跡はバスターミナル「ユーステーション」として甦った。
上右・小国のひとつ手前にあった北里駅跡。駅のホームも残っとって、ばぁちゃんだけでやっとる産直販売「森のキオスク」がある。
右上・多賀神社の前の田の原川に架かる「沈み橋」
右下・宮原線は小国から菊池、さらには熊本まで通すつもりやったとバッテン、馬場川ば越えてトンネル掘ったとこまでで中止。未成線のまま捨て去られてしもうた。
田の原大橋。県道田ノ原白川線。長さ22.5m。
昭和58年(1983)にでけとるケン、使い始めてもう30年近うなる。
縦木川(もみのき)ば跨いどる
幸野川橋梁
コンクリート造り6連アーチ橋で、宮原線ば工事しよった昭和14年(1939)頃にでけたものらしかバッテン、当時は戦争の前で極端な鉄不足やったケン、鉄筋の代わりに竹ば入れて作ったて伝えられとる。
おかげでいま「竹筋橋」て云われ全国的にも珍らしがられとる。
橋脚にスパンドレルていう飾り穴が洒落とるけど、ただ単なるデザインか、構造上のもんか当時の資料が残っとらんもんやケン、議論が分かれとる。