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其の二


 岩戸公園の桜ば見て、下ってくると川の様相がダムの気配ば帯びてきたことに気がつく。

 かなり川幅が広うなった所に杖立大橋がある。いつも山登りの帰りに利用するときは、このまま国道212号線ば下り、松原ダムの堰堤ば渡っていくとバッテン、この日はなしかしらんれど杖立大橋ば渡ってみとうなった。
 橋を渡ると突き当たりになっとる。右岸ば走ってきて左岸へわたったっちゃケン、ここば右折したら左岸ば走ることになる。そのまま下れば松原ダムに出るはずタイ。
 そげん考えた駅長は躊躇せずに右折して走り出した・・・ところがタイ。行っても行っても山ん中。下るどころか登って行きよる。山道ば15分も走ったろうか、ダムの堰堤に着いた。やったぁ。計算通りやったバイ。


 ところがところが、おっとどっこいタイ。ダムの標識ば見たら「下筌ダム」て書いてあるじゃぁなかね。駅長の頭んなかは、途端にこんがらがって真っ白。狐にダマされたか。
 考えとっても分からんし、どうせここまで来たとなら下筌ダムば取材していこう。瞬間スイッチが切り替わった。

 13年間もの事件ば一口では説明でけんけど、記録ば読んでかいつまんで云えば、事の起こりは昭和28年(1953)6月26日の西日本大水害やった。筑後川上流域は集中豪雨に襲われ、下流の筑後平野一帯で大洪水が発生した。

 26日〜29日にかけて阿蘇山・英彦山ば中心に降った総降水量が1,000ミリを超える豪雨で、筑後川を始め白川など九州北部を流れる河川がほぼ全て氾濫、流域に戦後最悪ていう水害ばひき起こした。
 死者・行方不明者1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人ていう大災害になった。

 日田も玖珠川が氾濫して水浸し、筑後川も久留米市で直角に曲がっとるもんやケンひちゃがちゃタイ。
この水害で「筑後川の治水対策ば根本的になんとかせないかんバイ」ていうことになって、大水害の翌年、九州地方建設局は筑後川の上流部に治水ダムば計画し、その予備調査ば始めた。

 55年までは大水害の痕跡調査で、なあもトラブルは起きんやったバッテン、翌年の三角測量のとき、邪魔になるいうて木ば伐採したもんやケン、地元の中心人物やった室原知幸(むろはらともゆき)さんらと補償問題が起きた。
 57年「計画説明ばしてはいよ」ていう地元民の声に地建は、はじめて説明会ば開いたとやが・・・

 下筌ダム(しもうけダム)は大分県日田市と熊本県阿蘇郡小国町にまたがる一級河川で筑後川水系津江川に建設されたダム。
 高さ98.0メートルのアーチ式コンクリートダムで、昭和48年(1973)に松原ダムと一緒に完成したとゲナ。

 上・下筌ダムの表札と天端(てんば・ダムの一番上のこと)

 ダム建設の必要性ばっかりば説明して、住民の最大関心事やった補償問題についてはなにひとつ話がなかった。
 これに室原知幸さんば中心とした住民は腹かいて「建設絶対反対」の決議ばすることになった。
 どの家もこれ以後「建設省及びその関係者面会お断り」の木札ば貼り出したていう。

 地建(九州地方建設局・いまの国交省)は地元の小国町長、熊本県に対して「反対派住民ば説得しちゃらんかいな」て頼んだバッテン引き受けてもらえず、59年になってとうとう土地収用法の適用ば考え始めた。
 話し合いによる任意買収の用地取得と違うて、土地収容法によると強制取得となるとケンカになるとは当たり前タイ。 

 抵抗運動はエスカレートして、反対派の住民は、下筌ダム建設予定地の右岸に昭和34年(1959)砦ば建設し、みんなが交代ごうたいで常駐し、建設省の立ち入りば見張った。これが有名な
「蜂の巣城」タイ。

 室原さんは「法には法で」ていう考え方で法廷闘争ば進めよんなったとバッテン、当時は安保闘争やら三池争議やらで全国的に労働運動が盛んな時期やったもんやケン、国に対する反発からダム建設には全く関係のなか労働組合員やオルグなどが「支援」いうて頼みもせんとに大挙して押し掛け応援ば始めた。

 事態は次第に室原さん達の思惑ば外れて「反政府運動」のごとなってしもうた。この中で6月、九地建の代執行に対して津江川で乱闘事件が発生、とうとうに流血沙汰となってしまうた。
 室原さんは公務執行妨害で7月に逮捕。事態は膠着化したまま13年の月日がたっていった。
 そのうち室原さんの敗訴やら反対派の分裂やらがあって、ついに昭和38年(1963)、蜂の巣城が落城。

 昭和45年(1970)6月29日に室原さんが死になったこともあって、激動の幕は閉じられ、11月になってやっと建設省と室原家は和解した。そして13年の時を経た下筌・松原両ダムは1973年に完成した。

 て、いう訳でクサ、いま駅長の目の前にそのダムがそそり立ち、ダムででけた
「蜂の巣湖」は水が満々やった。

 ダムば見下ろす展望台に望郷志屋校之碑(ぼうきょうしやこうのひ)いうとが立っとって、碑文には・・

「遠くはるかな石器時代より、歴史を秘めどこよりも、住みよい所として、先祖伝来、受け継がれてきた、小竹、志屋、浅瀬、芋生野、四部落の中心として、この碑の下流の台地に明治7年に開校された、志屋小学校があり、昭和44年、ダムにより学舎を閉じるまで,489名の卒業生を数え、優秀な人材を世に送り出している。

 地域の人々は昭和32年、8月、ダム建設の国家的事業が、建設省で企画されるや、
ただちにダム反対の拠点、蜂の巣城をこの地に築き、反対闘争を繰り広げ、特に昭和35年、6月の闘争は、壮絶をきわめた。

 その後、いくたの苦難を乗り越え、涙を呑んで、耐え難い墳墓の地への愛着に別れを告げ、昭和40年から45年までの間に、新天地を求め、各地に移住した。

 部落や、家の行く末を案じながら、故人となった人々の冥福を祈り新天地に移住した人たちが、永久に繁栄して欲しいとの願いを込め、志屋小学校跡と、我らの生まれ育った墳墓の地が一望される、この処、蜂の巣城跡に当時居住者の氏名を記し故郷を偲び、この碑を建立する。
          湖底の故郷よ 静かに眠れ。

 室原さんたち反対派は「暴には暴」て座りこみばして作業ば阻止した。
 さらに56年3月には下筌ダムサイト右岸(熊本県側)に長さ50メートルと300メートルの二重砦、いわゆる「蜂の巣城」ば築き、急斜面には有刺鉄線ばはりめぐらせてたてこもった。

 それがいま展望台になって碑が立っとるこの場所。
 碑には左に書き写してきた碑文とともに、先祖伝来の土地ば明け渡した四つの部落の全ての人の名前が刻み込まれとった。

 たまたま立ち寄った若いもんは「蜂の巣城」闘争やら知っとる筈のなかケン、無視して立ち去った。

  
 室原知幸さんの墓と碑は下筌ダムば睨んどんなった

 下筌ダムのすぐ下、右岸に正式なもんじゃなかけど、小さな記念公園のごたる場所があって、ここに室原さんが眠っとんなる墓と碑がある。

 室原さんは明治32年9月10日の生まれ。この一帯の山林地主やった。下筌(しもうけ)ダム計画に反対し、水没地域の指導者として「蜂の巣城」ば築いて実力で工事ば阻止し、約50件の訴訟ばおこして公権力に抵抗したことで有名やった。バッテン、惜しいことに闘争の途中、心筋梗塞のため70歳で死になった。

。早大卒やったケン頭が良かったし、「ダム反対」は、これば逆さに読んだら「タイハン(大半)はムダ(無駄)ですよ」ていうシャレっ気もあった。

 たんに盲目的な「ダム建設反対」論者やった訳じゃのうて、地元ばいかに守り活性化させて行くかば最優先に考えとる人やった。激しか反対闘争のなかでもダム完成ば見こして、完成後の地域の構想もいろいろとめぐらせて、建設省に対して要求ば突きつけ、それを実現していった現実主義者でもあった。

 「肥後モッコス」の典型ていわれ肥後気質の代表的人物として「蜂の巣城」の名とともに長く記憶されるやろうバッテン、公共事業ば進める上で銘記されないかん理念として云いなった次の言葉が輝いとる。
 「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」
 これは碑文としてちゃんと刻まれ、ここから下筌ダムば睨み付けとった。

 地図ば見てもらえば分かるごと、杖立大橋ば渡ったとこは、杖立川と津江川の合流点で、橋から右折した駅長は杖立川の左岸ば下るっちゃのうして、津江川(梅林湖)の右岸ば遡って行ったワケやった。

 そうすりゃ下筌ダムに着くとが当たり前の話タイ。帰って来て地図見て「なんやこらぁ」いうても後の祭りやった。

 
バッテン、転んでもタダでは起きん駅長。おかげで下筌ダムの取材がでけた。

 ・・・て、云うてしまえば、たったそれだけのことバッテン、このダムに関しては、日本のダム建設史上で最大の「蜂の巣城紛争」があったことで有名タイ。
 その闘争は昭和33年(1958)から昭和46年(1971)まで、なんと13年間も続いたていう。

 上・下筌ダムの本体を下流側の上から覗く。98mはやっぱぁ高か。
 右・下流川の下から見上げる下筌ダム。
左に管理棟がみえる。
 撮影場所の左側に室原さんが眠っとんなる墓がある。

 道ば迷うてしもうたことから、ついつい下筌ダム闘争の長話になってしもうたバッテン、これは筑後川ば語るとき避けては通れん話やから、道迷うたとは幸やったかもしれん。

 下筌ダムの蜂の巣湖に溜まっとる水は、上流の中津江・上津江に広がる津江山系からの水。川で云うと左岸から祝川・藤蔵川・黒谷川。右岸から川原川・小平川などから流れ込んできとる。蜂の巣湖の真ん中ば大分と熊本の県境が通っとるケン、両県の水ば集めたていうことになる。

 ここまでは緑と青ばっかしやったケン、ちょっと派手な色が欲しゅうなった。ここで中津江の鯛生金山と前津江の大野老松神社まで遡ってみろう。

上・下筌ダムのほぼ全景
中・管理棟と下流側。カメラの場所が元「蜂の巣城」があったとこで今は展望台になっとる。昭和39年6月の代執行のとき、作業員600人、機動隊員700人ば動員して、60棟もあった蜂の巣城ばやっと取り壊したていう
下・ダム本体
下の2枚・ダムの上流側と下流側


中津江の
鯛生金山

 明治27年(1894)この山ん中ば通りかかった干魚売りの行商人がクサ、川の中で光る小石ば見つけて、知り合いの鉱山技師に見せたことから、鯛生(たいお)に金山のあるとが分かったとゲナ。いまからいうたら、110年以上も前のこっタイ。
 これが鯛生金山の歴史のスタートで、明治31年から小規模ながら本格的な採掘が始まったていう。

 左上・地底博物館は昔の坑内ば利用して当時ば再現してある。右上・地底博物館の入口。なし ? カメルーンの旗が揚がっとるかて云えば、サッカーの2002FIFAワールドカップに、中津江村がキャンプ地として名乗りば上げたけんタイ。
 しかもここでキャンプ張るはずのカメルーン選手団が、なかなか到着せんでマスコミのよか材料にされた。これでいっきょに中津江村と鯛生金山が全国区の観光地になってしもうた。当時の村長・坂元休さんなあ、マスコミに引っ張りだこで有名人になって、それ以来、村全体がカメルーンとは仲良しになっとんなると。

 大正7年からは、鉱業権ば買うたハンス・ハンターていう英国人の手で、当時としては近代的な設備が導入されて採掘が開始された。金の産出量は年ば追うごとに増えていって、大正13年には年間産出量1トンば超えるていうぐらい、飛躍的な伸びば見せた。

 山ん中の金山あたりには事務所、病院、小学校、クラブなどが急にでけた。映画館やら、飲食店が建ち並び、東京の高島屋デパートまでが店ば出してクサ、山村はあっという間に従業員約3,000人。家族ば含めると1万人。ゴールドラッシュの町になっしもうたていう。

 バッテン、大東亜戦争になったもんやケン、金の産出量はガタンと落ちて、実質的な閉山状態で終戦ば迎えた。
 戦後、昭和31年からやっと再開はされたもんの、もう有望な鉱脈ば発見することが出来んやった。
 昭和45年に鯛生金山は休業、47年にはついに閉山されてしもうた。
 昭和58年4月から、地底博物館としてオープンしとった鯛生金山やが、平成18年(2006)2月、地底博物館の坑道に飾られとったオス・メス純金の鯛の置物のうち、長さ70cm、重さ50kgのオスのほうが盗まれる、ていう事件があった。

  出勤してきた職員が博物館坑口の鍵が壊されとったケン、盗難に気付いたときはもう後の祭りタイ。
 6600万円相当の値打ちもんやった金の鯛はけむりのごと消えて今日現在まあだ出てきとらん。
 目玉の展示物が金メッキのオスメスになってしもうた。(上の写真)

左・鯛生金山の跡
上・坑口の石額には「一度始めたら血の形がつくまで打ち込め」ていう王陽明の言葉が彫ってある

前津江の
重要文化財
大野老松天満社

 ほうら、やっぱあ赤の入ったらHPの面が賑やかになったろうが。

 上津江の山ん中にとんでもないもんがある、て、いう話は前から聞いて知っとった。それがこの大野老松天満社の旧本殿やった。

 室町時代後期のもんで、板葺きの三間社流造り。鞘堂に入っとるが近づくと凄か。

 ようまあこげなもんが、500年以上もこげな田舎に残っとったもんタイ。て、たまがり返る。

 ちょっと知ったか振りして解説しとこう。
 三間社流造りいうとは、桁行(正面)の柱の間隔が1間であれば一間社流造、3間であれば三間社流造ていう。柱の数でいうと4本タイ。

 なぁーんや簡単タイ。て思うたら覚えときぃ。流造いうたら屋根に反りばつけて前後に伸ばして葺く。前後同じじゃのうてもヨカし、材料は茅葺に限らず柿葺、檜皮葺、銅板葺などなんでもヨカ。日本の神社建築様式のひとつやった。

 鞘堂(さや)いうとは、本殿ば風雨から守るため、本殿ば覆うごと外側に建てられた建築物のこと。覆堂てもいう。上屋のごたる仮設物ではのうて本建築。平泉の金色堂が代表的なもん。

 上・下 鞘堂に守られとる本殿。
 中の2枚 本殿軒先の木組みと漆喰の欄間彫刻。覆堂のお陰で全然痛んどらん。九州の保存蒸気機関車にも、全部鞘堂ば作ってくれたら、駅長は安心バッテンねぇ。

  室町時代じゃのうて「豊西記」には藤原時代の延久3年(1071)日田の群司・大蔵永季が朝廷から賞ば賜ったとは「神助バイ」て喜んで、老松社ば創建したて書いてあるゲナ。また「豊後国史」には長亨2年(1488)に津江山城守・長谷部信保が再建したいうことが、チャンと載っとるていう。もちろん天満社やケン、祭神は菅原道真さんタイ。

 いまの本殿バッテン、正確な記録は残っとらんけど、建築様式からして長亨2年に再建された時のものらしか。とすれば520年以上経っとってこの輝き、よう保っとるもんバイ。鞘堂は昔の資料には見えんケン、重文の指定受けてから最近作ったとのごたる。
ついでバッテン、津江には老松神社が七つもあるていう。

 大野老松天満社には、春祭りが昔から伝わっとる。一年の豊作と無病息災ば祈願して神輿が繰り出され、ご神体はお仮家で一泊して、翌日神社に帰っていかっしゃる。

 5年ごとに県無形民俗文化の「大野楽」が奉楽されるていう。「大野楽」いうとは、皇室舞楽の流ればくむ雅楽の一種で、昔は毎年行われとったとげなバッテン、衣装やら道具やらが凝っとって金がかかるもんやケン、経済的な問題から現在では5年に一度の奉納になとるとゲナ。

 前津江村は、縄文の時代から人が住んどって、平安末期から鎌倉にかけては津江殿ていわれた長谷部氏の統治が安定しとって固有の伝統文化ば育ててきとる。

左・老松天満社の境内。左が重要文化財の旧本殿。右が現在の本殿。

 道草食うとったとがやっと本流に戻ってきた。杖立川と津江川(梅林湖)の合流点から下流ば大山川ていう。(地図と先頭の写真ば参照しちゃんしゃい)

 合流してすぐのところにでぇーんと聳えとるとが、下筌ダムと一緒にでけた
「松原ダム」

 昭和28年の西日本水害ば機に建設省は、筑後川水系に多目的ダムば建設して洪水調節ば図ろうと「筑後川水系治水基本計画」に着手した。この中で旧大山町久世畑地先に「久世畑ダム」ば計画したっちゃが、町ぐるみで反対されてあきらめ、いまの松原ダムと下筌ダムに計画ば変更した。て、いう経緯がある。

上・梅林湖と国道387号線にかかる「梅林橋」
左・松原ダムの上流側。小国からの国道212号線は写真の右手からダムの天端(てんば)ば渡って左岸に突き当たり、右折すれば大山町から日田へ、左折すれば国道387号線で中津江・上津江から菊池市に抜ける。

 松原ダムのダム湖は、大山町の特産品のウメに因んで「梅林湖」て呼ばれとる。
 梅林湖には遊覧船も運航されとるいうことやが、なんども通っとる駅長でも見かけたことはなか。

 このときに地元住民への説明不足から端を発した反対運動が「蜂の巣城紛争」として13年間に亘り続いたていうことは先に書いた。
 そしてすったもんだの末、松原ダムは昭和48年(1973)に完成した。

 ダムの型式は重力式コンクリートダム、高さは83m、堰堤の長さ192m。当初は洪水調節・水力発電ば目的にしとった。
 とてつもなか年月と、多くの人の苦悩・犠牲・努力ででけた二つのダム、初めの目的やった治水、発電に加え、昭和52年(1977)には、上水道の確保も加わり渇水時には福岡市もお世話になるごとなった。

 また下流の筑後大堰と連携して有明海のノリ養殖にまで関連しとるていう。そらどうゆうことかていうと、冬の渇水時に放流することで、ノリの色落ちば防止して品質確保に威力ば発揮しとるとゲナ。このほかまあだあるバイ。アユ漁やら筑後川固有のエツ漁のとき、また田植え時期にも流量確保のために放流しよるとタイ

 流域面積2,860キロ平方メートル、いうたっちゃその広さは想像でけんバッテン、筑後川から受けとる恩恵は測りしれんもんがある。て、いうこっタイ。


竹の首の「沈み橋」/ 松原の「沈み橋」

 松原ダムから国道212号線ば1キロちょい下ってくる。このあたり国道は川土手のかなり高いとこば通っとるケン、大山川ば見下ろしながら走ることになる。もっともカーブが連続しとる危険個所やケン、脇見運転は一瞬たりともでけん。

 川に低っか橋の架かっとるとば見つけたら、これが「竹ノ首沈み橋」タイ。なんで竹の首か ?
 特別に意味がある訳じゃなか。ここいらへんば竹の首地区ていうけんタイ

 じゃあ沈み橋ちゃ
なんな。わざと川面スレスレに低う作った橋のこっタイ。こげんしとけば大雨が降って川の水かさが増しても、橋は流れの中に隠れるバッテン、 低かケン流木にも押し流されんで、水が引いたらまた使える。「自然には逆らわずに従え」ていう先人の知恵ていうワケ。

 学術的には「沈下橋」「潜水橋」。一般には「潜り橋」てもいう。ある大学の先生によると、大分県にはこのような沈み橋が200ヵ所以上もあって、石橋の数とともに日本でも一二ば争うとるゲナ。

 ここ「竹の首の沈み橋」は沈み橋のなかでは大きか方で、ダンプカーが通ってもビクともせんぐらいに頑丈か。それもそのはず、すぐ上流にある松原ダム、下筌ダムの建設のため 採石場さいトラックば通さないかんやったケン架設されたていう。
 写真撮りよったら今でも右岸に砕石場がありダンプカーが頻繁に行ったり来たりしよった。
 「竹ノ首の沈み橋」は、コンクリート製で橋の長さが約60
m。巾が約6mやった。
 完成したとは
昭和27年 頃ていう。

 「竹ノ首の沈み橋」の少し上流にも「松原の沈み橋」いうとが架かっとって。こっちは水面からの高さが約1.5mと低っか。 地元のバァチャンに聞いたら大雨が降ったら「ダムが水ば捨てるケン、そんときは水に浸かる」て云いよんなった。「竹の首」よりも古く。昭和20年頃にはでけとったとやろう。
 これもコンクリートで、長さは約70m 。巾は2m半しかなかった。

 ついでに、日本で一番古か沈み橋は、明治45年(1912)にでけた杵築市山香の龍頭橋て云われとる。

左・普通車までならシャンシャン通る。
上・川面からは1メートルちょいの高さしかなか。

上・ダンプカーがシャンシャン通る。
右・橋脚の上流側は鋭角にとんがっとって、流木がひっかかりにくっかごとよう考えてある。

 大山町(おおやままち)

 
松原ダムから下流ば大山川ていう。なしか。旧の大山町ば流れとるけんタイ。

 大山町は今では大分県西部にあった町、て、過去形でしか云えん。2005年3月22日に日田郡前津江村、中津江村、上津江村、天瀬町と一緒に、お手々繋いで日田市に編入合併したけんタイ。行政地域としては消滅したバッテン、合併した後も「日田市大山町」として地名は残された。日田郡が市に変わっただけタイ。

 同じことがほかの合併した村や町にも当てはまり、前津江村は日田市前津江町に、上津江村は日田市上津江町、天瀬町は日田市天瀬町になったっちゃけど、中津江村だけは「折角全国的にカメルーンの村で有名になったっちゃケン「村」のままにしときたか」て、ワガママいうて
日田市中津江村ていう名ば残してもろうた。
 
 筑後川の本流にあたる大山川が流れる大山町では、早うから農業への先進的な取り組みばしとんなって、政府がまだ米の増産ば推進しとった1961年に「政府の云うとの反対ばやろう」いうて、米作には不適な山つきの土地では、作業負担が小さく儲けの大きかウメやクリの栽培ば進めとった。

 「ウメ・クリ植えてハワイに行こう ! 」ていうユニークなキャッチフレーズで町内の農家の参加ば呼びかけ、この運動に参加した農家の収益は大幅に向上したていう。

 実際、儲かった金で海外ツアーに行った農家がうんと増えて、大山町は全国でいちばん町民のパスポート所持率が高っか町になったていう。この運動は、後の大分県一村一品運動の原点としても知られとる。

 大山町ではその後も、2000年に地元産の有機農作物ば使うた生産者直販の店と、バイキング料理のレストラン「木の花ガルテン」ば町内の国道212号線にオープンするやらして、積極的な取り組みで目を見はらせる。
 よっぽどリーダーがしっかりしとって、町民との信頼関係がうまくいっとるとやろう。

 バイキングレストラン「木の花ガルテン」はそのごも伸び続け、福岡市の野間大池店・ももち浜店ば始め、大分市に3店、日田市・別府市に各1店と日の出の勢いタイ。

左・大雨の日の大山川、白か建てもんが「木の花ガルテン」 右・濁流の大山川。ダムがあるケン大丈夫
 さあて、田の原川、杖立川、大山川て、これで約40km下ってきた流れは、大山町で金堀橋・丸岩橋と国道212号線の橋ばくぐり、道の駅「水辺の郷おおやま」の下ば抜けると、左岸からの赤石川ば加える。
 千丈橋ばくぐつて東大山で
「木の花ガルテン」の下ば通り、恵良橋ば過ぎたら1kmで東から来た玖珠川と、分かりやすういうたら、サッポロビール日田工場の北で合流する。ここからは名前も三隈川て変わり、流れも西向きに変わる。

             まあだ源流から河口までの三分の一も来とらん。先は長か。

           前回へ戻ります     次回の支流の玖珠川の源流に行ってみます。

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