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其の二 |
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ところがところが、おっとどっこいタイ。ダムの標識ば見たら「下筌ダム」て書いてあるじゃぁなかね。駅長の頭んなかは、途端にこんがらがって真っ白。狐にダマされたか。 考えとっても分からんし、どうせここまで来たとなら下筌ダムば取材していこう。瞬間スイッチが切り替わった。 |
![]() ![]() 13年間もの事件ば一口では説明でけんけど、記録ば読んでかいつまんで云えば、事の起こりは昭和28年(1953)6月26日の西日本大水害やった。筑後川上流域は集中豪雨に襲われ、下流の筑後平野一帯で大洪水が発生した。 下筌ダム(しもうけダム)は大分県日田市と熊本県阿蘇郡小国町にまたがる一級河川で筑後川水系津江川に建設されたダム。 ダム建設の必要性ばっかりば説明して、住民の最大関心事やった補償問題についてはなにひとつ話がなかった。 ダムば見下ろす展望台に望郷志屋校之碑(ぼうきょうしやこうのひ)いうとが立っとって、碑文には・・ その後、いくたの苦難を乗り越え、涙を呑んで、耐え難い墳墓の地への愛着に別れを告げ、昭和40年から45年までの間に、新天地を求め、各地に移住した。 室原さんたち反対派は「暴には暴」て座りこみばして作業ば阻止した。 室原知幸さんの墓と碑は下筌ダムば睨んどんなった 下筌ダムのすぐ下、右岸に正式なもんじゃなかけど、小さな記念公園のごたる場所があって、ここに室原さんが眠っとんなる墓と碑がある。 地図ば見てもらえば分かるごと、杖立大橋ば渡ったとこは、杖立川と津江川の合流点で、橋から右折した駅長は杖立川の左岸ば下るっちゃのうして、津江川(梅林湖)の右岸ば遡って行ったワケやった。 ![]() ・・・て、云うてしまえば、たったそれだけのことバッテン、このダムに関しては、日本のダム建設史上で最大の「蜂の巣城紛争」があったことで有名タイ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 上・下筌ダムの本体を下流側の上から覗く。98mはやっぱぁ高か。 道ば迷うてしもうたことから、ついつい下筌ダム闘争の長話になってしもうたバッテン、これは筑後川ば語るとき避けては通れん話やから、道迷うたとは幸やったかもしれん。 上・下筌ダムのほぼ全景 ![]() |
中津江の 鯛生金山 明治27年(1894)この山ん中ば通りかかった干魚売りの行商人がクサ、川の中で光る小石ば見つけて、知り合いの鉱山技師に見せたことから、鯛生(たいお)に金山のあるとが分かったとゲナ。いまからいうたら、110年以上も前のこっタイ。 左上・地底博物館は昔の坑内ば利用して当時ば再現してある。右上・地底博物館の入口。なし ? カメルーンの旗が揚がっとるかて云えば、サッカーの2002FIFAワールドカップに、中津江村がキャンプ地として名乗りば上げたけんタイ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 大正7年からは、鉱業権ば買うたハンス・ハンターていう英国人の手で、当時としては近代的な設備が導入されて採掘が開始された。金の産出量は年ば追うごとに増えていって、大正13年には年間産出量1トンば超えるていうぐらい、飛躍的な伸びば見せた。 山ん中の金山あたりには事務所、病院、小学校、クラブなどが急にでけた。映画館やら、飲食店が建ち並び、東京の高島屋デパートまでが店ば出してクサ、山村はあっという間に従業員約3,000人。家族ば含めると1万人。ゴールドラッシュの町になっしもうたていう。 バッテン、大東亜戦争になったもんやケン、金の産出量はガタンと落ちて、実質的な閉山状態で終戦ば迎えた。 出勤してきた職員が博物館坑口の鍵が壊されとったケン、盗難に気付いたときはもう後の祭りタイ。 左・鯛生金山の跡 上・坑口の石額には「一度始めたら血の形がつくまで打ち込め」ていう王陽明の言葉が彫ってある。 |
前津江の 重要文化財 大野老松天満社 ![]() ![]() ![]() ![]() ほうら、やっぱあ赤の入ったらHPの面が賑やかになったろうが。 ようまあこげなもんが、500年以上もこげな田舎に残っとったもんタイ。て、たまがり返る。 上・下 鞘堂に守られとる本殿。 室町時代じゃのうて「豊西記」には藤原時代の延久3年(1071)日田の群司・大蔵永季が朝廷から賞ば賜ったとは「神助バイ」て喜んで、老松社ば創建したて書いてあるゲナ。また「豊後国史」には長亨2年(1488)に津江山城守・長谷部信保が再建したいうことが、チャンと載っとるていう。もちろん天満社やケン、祭神は菅原道真さんタイ。 ![]() 左・老松天満社の境内。左が重要文化財の旧本殿。右が現在の本殿。 |
道草食うとったとがやっと本流に戻ってきた。杖立川と津江川(梅林湖)の合流点から下流ば大山川ていう。(地図と先頭の写真ば参照しちゃんしゃい) 上・梅林湖と国道387号線にかかる「梅林橋」 ![]() ![]() ![]() このときに地元住民への説明不足から端を発した反対運動が「蜂の巣城紛争」として13年間に亘り続いたていうことは先に書いた。 ![]() ![]() ![]() ![]() 竹の首の「沈み橋」/ 松原の「沈み橋」 松原ダムから国道212号線ば1キロちょい下ってくる。このあたり国道は川土手のかなり高いとこば通っとるケン、大山川ば見下ろしながら走ることになる。もっともカーブが連続しとる危険個所やケン、脇見運転は一瞬たりともでけん。 ここ「竹の首の沈み橋」は沈み橋のなかでは大きか方で、ダンプカーが通ってもビクともせんぐらいに頑丈か。それもそのはず、すぐ上流にある松原ダム、下筌ダムの建設のため 採石場さいトラックば通さないかんやったケン架設されたていう。 「竹ノ首の沈み橋」の少し上流にも「松原の沈み橋」いうとが架かっとって。こっちは水面からの高さが約1.5mと低っか。 地元のバァチャンに聞いたら大雨が降ったら「ダムが水ば捨てるケン、そんときは水に浸かる」て云いよんなった。「竹の首」よりも古く。昭和20年頃にはでけとったとやろう。 左・普通車までならシャンシャン通る。 上・ダンプカーがシャンシャン通る。 ![]() ![]() 大山町(おおやままち) 左・大雨の日の大山川、白か建てもんが「木の花ガルテン」 右・濁流の大山川。ダムがあるケン大丈夫 |
さあて、田の原川、杖立川、大山川て、これで約40km下ってきた流れは、大山町で金堀橋・丸岩橋と国道212号線の橋ばくぐり、道の駅「水辺の郷おおやま」の下ば抜けると、左岸からの赤石川ば加える。 千丈橋ばくぐつて東大山で「木の花ガルテン」の下ば通り、恵良橋ば過ぎたら1kmで東から来た玖珠川と、分かりやすういうたら、サッポロビール日田工場の北で合流する。ここからは名前も三隈川て変わり、流れも西向きに変わる。 まあだ源流から河口までの三分の一も来とらん。先は長か。 |
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