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其の三

 坊がつるは大きな盆地。左から中岳・天狗ケ城。真ん中が久住山。右に三俣山。右の遠景は湧蓋山。(平治岳山頂から撮影)

 筑後川のもう一つの支流「玖珠川」は、くじゅうの山に降った水ば集めてくる。

 
筑後川の源流いうたら玖珠川のほうが長かケン、以前はこっちが源流ていわれよったっちゃが。近年になってよう調べてみたら前回取りあげた田の原川〜大山川のほうが流域面積の広かことが分かって本家ば取られてしもうた。

 坊がつるいうたら、九州の山に登る人で知らんもんはおらんやろう。くじゅう連山のど真ん中、標高1,200mにある大きな盆地タイ。西に三俣山、南に白口岳・中岳。東に大船山ていうくじゅうのスター達に囲まれとる大きな凹みやケン、慌てもんが巨大火口の跡なんていいよるけど、くじゅう連山がでけたとき、回りにあんまり大きな火山ばっかりがでけたもんやケン、それに囲まれて凹んだごと見えるだけタイ。

 ここで周りの山の水ば集めて北へ流れとるとが鳴子川。坊がつるば縦断して「暮雨の滝」に落ち、飯田高原へと下っていく。坊がつるの山小屋・法華院温泉あたりが源流やろう。

 おっと、坊がつるていう変な( ? )地名について説明しとかないかんやった。
 坊がつるの「つる」いうとは「水流・鶴・釣・津留」とも書いて水の傍の平坦地のこと。「坊」はなんかていうたら、くじゅうに初めて寺がでけたとが文明二年(1470)で、養順法師いう坊さんが作んなったとが法華院。一時は天台宗の霊場として五つもの支院があったゲナ。そのひとつがここにあって弘蔵坊(ひろくらぼう)ていいよった。「坊」があった流れの傍の湿原やケン「坊がつる」ていうたっタイ。九州の尾瀬てもいわれとる。

 四季ば問わずいつ行っても賑あうとる登山基地・法華院温泉山荘には、観音堂やら十一面観音像などがいまも残っとって、温泉ば経営しとんしゃる弘蔵岳久さんは26代目の院主さんタイ。

 坊がつるば流れる鳴子川。左に大船山・中央は立中山(たっちゅうやま) 鉾立(ほこたて)峠。右に白口岳・中岳。


 くじゅうの山ば愛する山男達によって歌い継がれとった「坊がつる讃歌」いうとが、昭和53年にNHKの「みんなの歌」で取りあげられ、芹洋子が歌うたところがクサ、一時は全国的に歌われヒットしたことがある。

 元歌の歌詞はこうタイ。
   1 人みな花に 酔うときも 残雪恋し 山に入り
     涙を流す 山男 雪解(ゆきげ)の水に 春を知る
   2 ミヤマキリシマ 咲き誇り 山くれないに 大船(たいせん)の
     峰を仰ぎて 山男 花の情を 知る者ぞ
   3 四面山なる 坊がつる 夏はキャンプの 火を囲み
     夜空を仰ぐ 山男 無我を悟るは この時ぞ
   4 出湯の窓に 夜霧来て せせらぎに寝る 山宿に
     一夜を憩う 山男 星を仰ぎて 明日を待つ
   5 石楠花谷(しゃくなげだに)の 三俣(みまた)山 花を散らしつ 篠分けて
     湯沢に下る 山男 メランコリーを知るや君
   9番まであるっちゃが、このへんで止めとこう。

 これ聞くと昔の山男にはロマンがあったねぇ。いまは単なるピークハンターやら、派手な格好の山女(やまじょ)まであらわれて、ロマンもクソもあったもんじゃなか。

                 長者が築山に見立てて喜んどった泉水山

 藤彦から数えて17代、長治(ちょうじ)の時には、後千町、前千町ていわれるほどの美田ば持つまでになり、百姓千人、牛馬千頭ば抱えとったゲナ。

 田野の館ば黒木御所て名付け、屋敷には川の水ば引き入れて大きな池ば造った。さらに西の方にある山群ば築山に見立て泉水山いうては喜んどったらしか。
いま、長者原の西、黒岩山と峰つづきの上泉水山と泉水山がそうやったちゃろう。

 館のあたり一帯は、従業員が千人も住むようになったもんやケン、家が立ち並んでそれはもう城下町のごたあ賑わいやったらしか。各地からの商人もやってきて市まで立つようになったていう。

 そのころ、大野郡三重郷に真名野(まなの)ていう長者がおって、その娘の般若姫に惚れた橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ・後の用明天皇)が、都からこっそりと抜けだし、姿ば変えて住み込んどった。

 当時の都ば関西て考えると距離的に無理がある。筑後川流域、いまの朝倉あたりの豪族が大和朝廷の前身で、そのあたりに都があったと考えれば、景行天皇やらその息子の日本武尊、さらに神功皇后の九州における頻繁な足跡も納得でける。「ふる里駅」の駅長はそう思い込んで疑わん。

 都では皇子が神隠しにあうたいうて大騒ぎタイ。
 そればたまたま所用で訪れてとった長治が知り「真名野長者のところにおる若者がそうじやなかか」て教えた。

 調べてみたらピシャリほんなことやったもんやケン、欽明天皇が喜んでクサ、長治ば呼び出してお礼に
「朝日長者」の称号ば与えたていう。・・もっとも、このての伝説は全国に掃いて捨てるほどある。

 それまでの長治は、住んどる土地の名から
田野長者て呼ばれてとったっちゃが、それからは朝日長者て名乗り、さらに偉そうに振る舞うごとなったていう。

 いんにゃ、そげなことがあるもんかい。「朝日長者」は長治(ちょうじ)が単に訛っただけタイ」ていう説もある。

 いずれにせよ長者の権勢はたいしたもんで、屋敷の近くば流れとる川が「うるさか」いうて長者が一喝すれば、川さえも長者ば恐れて瀬音ば低め急におとなしゅうなったていう。

 そやケン
音無川(おとなしがわ)ていうとゲナ。朝日長者の七不思議のひとつになっとる。

 バッテン、いったん鳴りばひそめた川も、長者屋敷ば過ぎた辺りからは、また思いっきり瀬音ば鳴らしたていうことから
鳴子川(なるこがわ)になった。

 
今は護岸工事もされておとなしか音無川。

 ある年、二千町ていう広か田圃ば朝早うから千人もの男女が出て田植ば始めた。ところが、夕暮れが迫ってもまだ植え終わらん。そこで長者はどげんしたかていうと、「日が沈むとば止めればよかタイ」て考えた。
 長者は近くの「扇山」に駆け登って、手にした扇ば開き「返せ、返せ」て太陽ばさし招いたていう。
 そしたらなんと、まさに沈もうとしよった夕日が、そこでビタッと動きば止めた。

 田植が無事に終了するとば待ったごと、太陽は西の山に沈んだ。千町無田の東には、夕日ば招き返した
扇山ていう丘がある。

 あ、いかんいかん山の話じゃなかった。筑後川の源流の話ばせないかんとやつた。

 鳴子川が吉部に落ちていく途中に「暮雨の滝」がある。巾はせいぜい15m、落差はほんの5mしかなか滝バッテン、登山道からちょっと下ったとこにあって、秋は紅葉が美しか。

 知らんもんな「くれあめ」とか「くれさめ」とか勝手にいいよるけど「くらそめ」が正しか。暮雨いうたら字の通り、夕方に降る雨のこっタイ。

 山はだいたい午後には天気が悪うなる。

 落差は小さいけど回りが美しか暮雨の滝

 朝日長者が住んだ千町無田。左から崩平山(くえんひらやま)、朝日長者伝説にでて来る扇山、合鴫山(ごうしぎやま) 

 地図ば見てもらうとわかるごと、玖珠川の水源は四本の川でくじゅうの山の水ばで集めてくる。

 一本は今まで紹介してきた鳴子川。これが飯田高原で東の合鴫山(ごうしぎやま)からきた音無川といっしょになる。二つの川がいっしょになる国道11号線(旧やまなみハイウエイ)の朝日台から千町無田に下ったところに長者屋敷跡いうとが残っとって、むかしここに朝日長者いうとが住んどったていう。
 ここからは弥生後期の土器やら鉄器が出土しとって、今も長者の子孫ていう十数戸が生活しよんなるとゲナ。

 長者原とか飯田高原について話すとき、この朝日長者と七不思議について、触れん訳にはいかん。
 
 いま、くじゅうの登山基地になっとる長者原(ちょうじやばる・九州で「原」は「はら」じゃのうて「はる」または「ばる」ていう場合が多か)は、別府ば温泉地として開発した油屋熊八いう人が、ここにテント村ば作り「長者ケ原」て名付けたとが始まりらしか。

 「朝日長者がおったケン、長者原」ていうたほうが、簡単で説得力があるケン、そげん説明しとるガイドブックやら観光ガイドさんもおらっしゃる。

 おおむかし、やっと大和朝廷がクサ、日本ば統一した頃の、西暦でいうと300年あたりの話。近江国(滋賀県)浅井郡に浅井藤彦(あさいとうげん)ていう豪族がおったゲナ。神功皇后の新羅出兵に参加して、彼が操る干珠・満珠によって日本軍は勝つことができた。

 ここで干珠・満珠ば説明するために、古事記まで話ば戻さないかん。

 猟師やった山幸彦(ヒコホホデミノミコト)は、兄で漁師の海幸彦(ヒテリノミコト)と道具ば交換し、借りた釣り針で魚ば釣りよったらクサ、釣り針ば海に落としてしもうた。

 兄から責められ、釣り針ば探しに海に入った山幸彦は、海神ワダツミの宮殿に迷い込み、ここでワダツミの娘豊玉姫(とよたまひめ)に一目惚れされて結婚する。

 3年の後、山幸彦が「やっぱあ大和に帰る」ていい出したとき、海神が山幸彦に持たせてやったとが干珠・満珠ていうふたつの珠やった。

 干珠は「しおひきのたま」いうて潮ば引かせる力があり、満珠のほうは「しおみちのたま」いうて潮ば満ちさせる力ば持っとった。結局、山幸彦はこのふたつの珠ば使うことで、兄と仲直りするていう一節がある。

 この秘宝ば守っとったとが浅井藤彦やったていう訳タイ。
 帰国した後、藤彦はその功績によって玖珠郡(いまの飯田高原)ば賜り、藤彦はここ田野の地に近江から一族ば連れて移り住んだ。以来、千町無田ていわれとった原野ば、代々にわたって開拓し続け、次第に栄えていったていう。

 久住には馬が喰うたら中毒ば起こすていう馬酔木(あせび)が多か。地元のひとは「よしぶ」ていう。吉部ていう部落も昔は与志部て書いたとげなが、馬酔木が多かケン「よしぶ」になったとかも知れん。

 吉部はくじゅうの北の登山口。こっから坊がつるまで大船林道が入っとるとバッテン、自然ば守るために一般車は「とうせんばっちょ(博多弁で通行止)」

 手前に個人経営の有料駐車場があってここば利用するしかなかバッテン、駐車料金が1,000円とは、ぼったくりもよかところ。国立公園やケン、国が駐車場ぐらい作らんかい。国交省やら環境省はなんばしよるとか。
 
 筑後川支流の玖珠川の、そのまた支流の鳴子川はやっと飯田高原まで下りてきた。

 広か自然林の中に「年の神」ていう茅と竹で作られた祠があって大きめの丸石と小石が祀られとる。これが長者屋敷の屋敷神ゲナ。そして、この雑木林はいまだかって木ば切ったことがなかていう。

 切ったり持ち出したりすると朝日長者のタタリば受けるて怖れられとるけんタイ。

 その近くには鶴の墓の石碑が立っとる。長者が飼うとった夫婦の鶴で、子ば産むと親はどこかへ去るとバッテン、つねにとぎれることなくつがいの鶴が住んどったていう。

 そやケン
不断鶴(たたづる)ていうて大切にしとった。
ところが、文政6年(1823)、菅原村の猟師・権左衛門が鉄砲でこの鶴ば撃ち殺してしもうた。代官所の検死まであって「松の木で箱ば作り鶴の死骸ば埋めた上に石塚ば置くべし、追って沙汰があるであろう」ていうとこまでいったとバッテン、その後、それこそ「なんの音沙汰」もなかった。

 台座だけの鶴の墓ばあわれみ、昭和22年になって、かってここに住んだことのある大分市長の三好一さんが揮毫して、墓石がやっと台座の上に乗せられた。

 物好きな駅長が、地図ば頼りに訪ねてみたバッテン、ひっそりと淋しか限りやった。

 これも、くじゅう朝日長者の七不思議に数えられとる。鶴ば撃った猟師・権左衛門がその後どうなったとかは誰も知らん。

 その時タイ。観音像が黄金の輝きば発すると、なんと大蛇の口に飛び込んだていうじゃなかね。
 たけり狂うとった大蛇は急におとなしゅうなり、姫に語りかけたていう。
 「私はいま観音さんの慈悲とあんたの孝心に打たれましたタイ。あんたはこっから
白水川に沿うて下りんしゃい。そうすりゃ幸せが待っとるバイ」

 千鳥姫は大蛇の言葉通り男池から下りて、玖珠町の久多見(くたみ・朽網)長者のもとに下女として住み込んだ。
 この長者は九重地方の富豪で、朽網兵衛泰親(くたみひようえやすちか)ていう地頭職やった。
 よく働くし、しかも美女やったケン、千鳥姫は長者の三男に見そめられて結婚ばする。

 後に朝日長者の娘と分かり、父や姉との再会もでけて万事めでたしめでたし。アメリカ映画のごたあハッピーエンドになった。

上・年の神。下・不断鶴の碑。

 権勢ばほしいままにしとった長者も、ある年の干害だけはどげんしようもなかった。
 来る日もくる日も雨は降らず、草も木も枯れんばかり。後千町、前千町の美田では稲も枯れよった。

 困り果てた長者は、雨乞いに行くことにした。
男池(おいけ)は黒岳の北の麓、千町無田の東のはずれにある。何千年ば経た今も伏流水がこんこんと湧きだしとる。ここには竜神が住むと言い伝えられとった。

 原生林に囲まれた池のほとりで、長者は雨ば祈った。「もし雨ば降らして貰えば、娘の一人ば差し上げましょう」
そしたら長者が家に帰った途端、快晴の空がにわかに曇り、大粒の雨が降り始めた。それが大雨となり、川には水があふれ、田も畑も山々もすっかり緑の生気ば取り戻した。

 その年の秋、田野の田はいつもにまして豊作の喜びにわきかえった。
しかし、長者は竜神との約束が気になってしょうがなか。三人の娘のなかで、父の苦しみば知る長女の豊野姫は、入水の覚悟ば決めて父に申し出た。それば知った次女の秋野姫は「いいや私が代わりに池に行く」いうて姉ば気遣う。

 ところが、ふっと気がついたら三女の千鳥姫がおらん。千鳥姫は姉二人の話ば聞いて、即座に自分が犠牲になる覚悟ば決め、日頃から信仰しとる観音像ば握りしめて、暗闇のなかば男池さい急いだ。
 男池のほとりに座った千鳥姫は、守り本尊の観音像ば安置して一心にお経ば唱えた。

 やがて、水面が波立ったかと見ると、一匹の大蛇がクサ、水面に現れ、真っ赤な口ば開いて姫に迫った。
 千鳥姫危うし。テレビの連続物なら、ここでCMとなって、後は来週のお楽しみてなる。

男池は黒岳、平治岳(ひいじだけ)への登山口にある。最近は駐車場もでけて便利にはなったバッテン、入り口に管理小屋がでけて、男池に行くにも山に登るにも入場料ば取る。
男池から出た水は玖珠川じゃのうて、東へ阿蘇野川を経て大分川に落ちとるケン、この辺りが九州の分水嶺やろう。

 こげんことはあっても長者は日が経つにつれ、自然の恵みなどは忘れ去り、再び奢りたかぶるごとなっとった。この状態ば博多弁では「のぼせあがっとる」ていう。
 そうした時、長女の豊野姫が筑後の豪族星野内蔵ば婿に迎えることとなった。当然、婿もてなしの祝宴が張られる。栄華ば極める長者の、しかも跡取りの婿ば迎える宴会やケン、飲めや歌えの無礼講が十日十夜続いた。

 一族郎党から里人まで、集まる者は数知れず。舞いや踊り、さまざまな余興が果てしなく続けられた。しかし、日もたつと、さしもの余興も種が尽きてしもうた。そん時、長者の目に神前の鏡餅が映った。
 「あれば的にして弓ば試そう」

 これには参会者もびっくり。「餅は農業にとって神聖な物。それば的にするなどとは・・・」て諌めたバッテン、一度云いだしたら耳ば貸すような長者じゃなか。
 鏡餅ば神前から引き下ろし、餅ば的にして長者が矢ば放つ。矢は餅の真ん中にぷすりと突き刺さった。

 そしたらどうかい、餅は一羽の白か鳥になって、大空高う飛んで行ったじゃなかね・・・さあ大変タイ。
 「今の白い鳥は白鳥神杜の使い鳥ではなかったとか ?」 
 「氏神さんがわれわれば見捨てたとじゃなかか」て、一同は酔いも醒めてしもうて、おののいた。

 これにはすっかり参った長者、すぐに身ば清め神杜に向うた。そして七日七夜ば神杜にこもり「すんまっせんでした」いうて一心不乱に祈り続けた。
 そしたら最後の日、神杜の境内に一枚の白い羽根がひらひらと舞い落ちた。これは神が許しちゃんしゃった証拠バイいうて、みんな一安心、長者もひとまず胸ばなで下ろした。

 バッテン、このことがあってから、前後二千町の田には稲が実らず、毎年不作が続くようになった。
 ついに田野の地は野っパラになってしもうて、農民達も逃げ出してしもうた。
 今でも
田野ていうとはそのためタイ。

 田野の鎮守として北方(きたかた)に祀られとる白鳥神杜は、もとは長者屋敷の南に祀ってあったらしか、寛文11年に現在の北方の地に落ち着いたて伝えられとる。

 祭神は日本武尊(やまとたける)タイ。なぜ白鳥と日本武尊なのか。それにはまた古事記に戻らないかんケン、もう止めとこう。

 白鳥神社の境内の一角にほんの小さか社がある。朝日長者・浅井長治ばまつる
朝日長者杜やった。最近は九重夢大吊橋がでけて、対岸の白鳥神社にもお参りの観光客が多なった。
 バッテン、貸し切りバスで来た観光客は、白鳥神社にこげな話があるいうことは知らんで、ただ見ただけで帰りよる。

上・鬱蒼とした杉林の中にある白鳥神社。九重夢大吊橋がでけるまでは、お参りするひともなかったバッテン、いまはけっこう観光客も来る。
上右・白鳥神社拝殿の天井絵は、古かだけに貫禄がある。
右・白鳥神社の境内に間借りしたごと朝日長者ば祀った朝日長者社がある。

  地獄が腹かいて引っ越した

 長者の家運は急速に傾いていった。美田ば誇った後千町、前千町の田には実りもなく、長者も没落ば覚悟する。
 しかし、倉には代々にわたって貯めてきた金銀財宝がまだ山のごと積まれとる。これば人手には渡しとうなか。そこで長者はこの財宝ば埋蔵しようて考えた。

 埋める場所として選んだとは、屋敷の東北、千町無田ば見下ろす
合鴫山(ごうしぎやま1205m)
 まず肥後から石工30人ば連れてきて、山の頂に穴ば掘らせた。石工たちは「こげな山ん中に大きな穴ば掘ってなんするとかいな」て不審に思うたバッテン、長者は言葉たくみに言いくるめ、ついに大きな穴が完成した。

 長者はさっそく祝いばして、石工たちに自ら酒ばふるまう。ところが、杯ば口にした石工たちはたちまち血ば吐いて倒れた。口封じのための毒殺やった訳タイ。死体は別に掘らせとった穴に埋めた。

 しばらくたったある夜のこと、長者の館から牛馬の列が人目ば避けるごとして山に向かうた。財宝ば運ぶ人足はみんな高い報酬ば目当てに集まった他国者ばかり。夜が明ける頃やっと財宝ば穴に入れる作業は終わった。同時に穴の入口は閉ざされ、土がかけられた。目印として赤い花が咲くウツギの枝が逆さまに植えられたていう。

 仕事が終わって大河原まで降りてきたとき、長者はここでも石工にしたのと同じごと毒ば仕込んだふるまい酒ば出し、倒れた人たちば引きずって地獄の熱湯に投げ入た。牛馬までが地獄に落とされたていう。

 
大河原地獄は多くの人と牛馬ば投げ込まれて腹かいた。やがて異変が起こり、一夜のうちに熱湯は湯坪の大岳地獄に引っ越してしもうた。これが今、九州電力大岳地熱発電所ていう訳タイ。いまも腹の虫の治まらんとやろう、ゴウゴウいうて地熱ば噴き出しよる。

 大河原地獄は後千町前千町の広か田畑に、温い水ば灌漑する源やった。地獄が去り、温泉が出らんごとなると、高冷地の水田そのものタイ。稲は実らず、さしもの美田も荒れ果てて雑草の生い茂る場所になってしまい、まさに
千町無田となってしもうた。

 ブツブツいうとる念仏水

 長者原から庄内町へ抜ける県道621号線、田野から200mほど入った農家の庭に湧水がある。「念仏水」て呼ばれとる。
 駅長が探して行ったときも、ちゃんと池の底から水が湧きだしとった。

 金銀財宝ば隠すとに使った人足ば、長者が皆殺しにして埋めたとがこのあたりていわれとる。
 池のそばで南無阿弥陀仏て唱え、足踏みばするとブツブツて泡が音ば出すケン「念仏水」ゲナ。

 バッテン、この湧きだしてくる清らかな水ば見つめとったら、そげな血なまぐさか話とは、とうてい結びつかん。ただ、写真ば撮っとる間じゅう、美しか湧水はブツブツ言い続けとった。

 ブツブツいうて水が湧きだしとる念仏水。

 そのうちに長者が死んだ。残された者たちは何とかしようてしたとバッテン、その元手になるはずの資金は埋められ、隠し場所は死んだ長者しか知らん。疫病が流行り長者夫人も死んだ。奉公人も去り、豪壮な館も崩れ落ちんばかり。そこに残されたとは長女の豊野姫と、次女の秋野姫だけになってしもうた。

 「もうこの地には住めんバイ」 
 二人は心優しか妹、千鳥が嫁いでいった玖珠の久多見長者ば頼ることにした。
 後ろ髪ば引かれる思いで、田野ばあとにして二人は高原ば西に向かう。
奥郷川ば渡り、夕暮れの草原ば涙にくれてさまよう。二人は悲しさのあまり泣きだした。ふたりが泣きながら歩いたケン、この草原ばナキナガ原ていう。

 日暮れ近く、高原の西の端、宝泉寺温泉ば見下ろす峠にやっとたどりついたとき、二人は疲れ果てとってほとんど動けん状態になってしもうとった。たまたま付近の柴ば刈り取ってでけた小屋があったケン、ここで一夜ば過ごすことにしたとやが、翌朝二人が小屋から立つことはもうなかった。

 くじゅう飯田高原ば舞台にした、朝日長者の伝説はついにここで悲劇的な幕ば降ろすことになる。地蔵原から宝泉寺温泉へ抜ける県道380号線の、ここば
柴館峠(しばやかたとうげ)て呼ぶ。

  泣き泣き歩いた「なきなが原」
豊野姫と秋野姫が泣きながら歩いたていうナキナガ原と湧蓋山。手前は天ヶ谷貯水池と地蔵原ダム。
「やかましか !」て云うたら川がおとなしゅうなった
 のぼせあがった朝日長者
白水川

 朝日長者に思わぬページば割いてしもうた。気合ば入れ直してあと3本の川ばたどりまっしょう。疲れたらその辺で適当に休んでつかぁさい。

 玖珠川源流が町の真ん中ば流れとる筋湯温泉は「日本一のうたせ湯」で有名タイ。駅長も大のファンでクサ、いつも山に登った後はここのうたせで疲ればとって帰途につく。

 開湯は958年ていう。温泉地として開かれたのは万治元年(1658)ていうケン、かれこれ350年の歴史がある。明治30年、昭和24年と2回の火事で温泉街の殆どが焼けてしもうてクサ、いまの姿は2回目の大火の後復興したとが続いとるとゲナ。いまは源泉近くの八丁原地熱発電所が発電用に汲み上げた温泉ば、パイプで引いてきて利用しよるていう。
狭か谷間に30軒もの旅館がひしめき合うとる。

 
九重連山の北西、涌蓋山(わいたさん・1700m)の東麓にあるとが湯坪温泉。筋湯と共に九重九湯ていわれとる。ちなみにあとの七つは、宝泉寺温泉、壁湯温泉、川底温泉、竜門温泉、筌の口温泉(うけのくち)、長者原温泉、寒の地獄温泉タイ。
 間違うてたいがいの人が「くじゅうくゆ」ていうバッテン、正しくは「ここのえきゅうとう」

 湯坪温泉は湯坪川沿いにある。近くに大岳地獄があって、古うから自然の温泉が湧いとった。昭和50年代に地元の農家が民宿ば始めたとがきっかけになって、いまでは約20軒の民宿が集まる温泉地になっとる。
 民宿が多かケン「湯坪民宿村」て呼ばれることもある。安かとと新しか野菜やら山菜が人気のもとになっとる。

 玖珠川源流のもう一本は白水川。
 星生山の北面と三俣山の西面の水が流れ込んで
寒の地獄のあたりば源流にしとる。やまなみに沿うごと北上しタデ原のほぼ真ん中ば流れ、やまなみとクロスしたら田野から来た県道621号線ば横切って、東からの鳴子川+音無川と合体する。

 なし
白水川(しろみずがわ)ていうとか。硫黄分で白濁しとるけんタイ。魚も住まんゲナ。

 同じ白水でも男池の東にある白水鉱泉は「しらみず」ていうし、竹田市の白水溜池堰堤は(はくすい)ていう。日本語はややこしか。

 白水川が流れとるタデ原湿原は、火山地形の扇状地にできた湿原で、国内最大級の面積ば持っとることで、国際的にも認められ、2005年11月に坊ガツル湿原とともに「くじゅう坊ガツル・タデ原湿原」として、ラムサール条約に登録されとる。

 湿原の中に作られとる木道が、目の前の三俣山やら硫黄山の噴煙など、回りの景色とともにくじゅうの雰囲気ば演出しとってヨカ。

右上・白濁しとる白水川
右下・登山基地の長者原から白水川の橋ば渡って山に入る。
下・長者原ビジターセンターの傍にも白水川に架かる吊り橋があって、ここからもタデ原に入っていける。

 白水川とやまなみば挟んでもう一本、西側ば流れるとが奥郷川(おくごうがわ)。

 牧の戸峠の北、黒岩山の東斜面から発して、朝日長者が築山に見立てた「泉水山」の下、やまなみの西側ばくだり、長者原の信号から県道621号線に沿うて青少年の家の北で玖珠川と合併する。県道680号線の橋から見た紅葉が美しか。

 
三俣山ばバックに紅葉の奥郷川。源流やケン、水量は少なかけど流れは激しか。

 一目山(ひとめやま・1288m)・合頭山(ごうとうざん・1383m)の麓から九重森林公園スキー場・八丁原地熱発電所あたりば基点に、筋湯温泉・湯坪温泉の真ん中ば流れ下ってくるとが地元では湯坪川。地図ではこれが玖珠川てなっとるともある。

 九酔渓の深か谷間ば抉り、東から九重夢大吊橋の下ばくぐってきた鳴子川といっしょになる。

  八丁原地熱発電所は、国内最大の出力ば誇っとって、年間の発電量は約8億7千万キロワット時ゲナ。ほぼ20万キロリットルの石油が節約でる計算になる。 一般の家庭でいうと約3万戸分の電力ばまかのうとるていう。地熱発電やケン、石油などの化石燃料は全く使わず、地下から取り出した蒸気ば利用しとるクリーンな発電タイ。

 運転の監視やらは約2km離れた大岳発電所からやっとんなるとゲナ。

 これが朝日長者伝説で腹かいて田野から飛んできた大河原地獄ていう訳。いまじぁ九電さんのおかげで立派に社会の役に立っとる。

奥郷川
湯坪川

    秋のタデ原。正面に重なっとるとが指山(さしやまともゆびやまともいう)と三俣山。右に硫黄山と星生山

 タデ原湿原は長者原の標高1000〜1100メートルに広がり、面積は38ヘクタールもある。ヤフードームのグランドが13,500平方メートルやケン、球場が30個も入る計算になる。ここの木道に立ったら、自然の大きさ、人間のこまさ(博多弁で小ささ)ばイヤでも思い知らされる。

 タデ原はくじゅう雨ケ池コースの登山口でもあり、不動産屋のチラシじゃないけど駐車場からたったの2分で行けるケン、いつも多くの観光客が訪れる。
 

 真ん中ば流れとる白水川沿いはススキやヨシなどで覆われ、四季それぞれに野の花が咲く。
 絶滅危惧種に指定されとる花も見られるケン、いつ行っても木道から野草ファンが写真ば撮りよんなる。

 くじゅう好きの駅長は「山には登らんでちゃ、ここに来たらスカーッとする」

 秋のタデ原の主役達。右・ヒゴタイ
下・左からアケボノソウ・マツムシソウ・アキノキリンソウ

 くじゅうにしては低かバッテン、一目山は独立峰で草原の山やケン、展望が素晴らしか。
 一目で遙か彼方まで見れることからついた山名が一目山。

 むかしはご丁寧に「一目八目山」ていいよった。
 眼の下に地熱発電所が白か蒸気ば吹き上げとる。

見えとるけど山頂まで30分

筋湯と湯坪

 九酔渓(きゅうすいけい)は、飯田高原から豊後中村へ通じとる県道40号線沿いにある渓谷で、秋の紅葉と十三曲がりていわれる急カーブが有名。
 
ここで 筋湯・湯坪温泉からきた玖珠川(湯坪川ともいう)と九重夢大吊橋の下ば通ってきた鳴子川がドッキングする。滝の名所でもあり、小さな滝が10ヶ所ばかりある。

 九酔渓ていう名前は誰がつけたとか知らんバッテン、あんまりきれいかケン、紅葉に何回も酔うたとか、曲がりくねっとるケン、車酔いしたとやろうか、て勝手に解釈しとこう。九酔峡(きゅうすいきょう)ていう場合もある。

 途中の
「桂茶屋」に展望台ば兼ねた駐車場があって渓谷ば眼下に一望でける。ただ、紅葉のシーズンになるとお兄さんがおって整理券ば配んなる。この整理券「桂茶屋」で1000円以上の買い物ばして印鑑ば押してもらえばタダになるていうもんで、なんか買わんと駐車料ば払わないかん。
 桂茶屋はよう考えとるていうか、博多弁で云うと
こすか(抜け目がない・ケチ)商売ばしとる。

上・2011年 田野にでけた筑後川源流の碑。
下・すすきのタデ原はロマンチックムード。


震動の滝
雌滝      雄滝

 さっきは朝日長者でそっちのけになっとった鳴子川、坊がつるから発して飯田高原まで下ってきたとこまでは書いた。脱線して間に玖珠川が割り込んだけど、またもとに戻る。

 やまなみの朝日台付近で音無川ば受け入れて西へ向きば変え、エル・ランチョ・グランデ牧場のとこで白水川ば加えて筌ノ口温泉へ北上する。

 筌ノ口温泉いうたら、川端康成が小説 「波千鳥」の構想ば練るために投宿した小野屋旅館が有名やったバッテン、後継者がおらず2004年4月に閉館してしまいなった。ここの公衆浴場は入浴料200円で24時間入浴が可能。
 いままでは寂れとったけど夢大吊橋で、息ば吹き返すかも知れん。
 鳴子川は温泉の真ん中ば北へと突き進む。

 阿蘇火山と九重火山は兄弟やった。くじゅうと兄貴分の阿蘇は直線距離で25kmしか離れとらん。おおむかし両方の火山から噴き出したマグマの堆積物が大袈裟にいうと九州ば作った。飯田高原も阿蘇と九重火山の火砕流ででけたていえる。
 その台地が切れ落ちるところで鳴子川も落下し、ここば震動の滝ていう。

 なし震動の滝かていうと、落差100m近か大きな滝やケン、滝の音が周辺の山野ば震動させるほどやけんタイ。
 もちろん「日本の滝百選」に選ばれとって、大雨の後なんかは迫力ある水しぶきばあげよるけど、普段はおとなしか滝で震動するほどはなか。

 垂直に落ちよる雄(男)滝が落差83m。滑るごと落ちよる雌(女)滝が落差98m。ほかに子滝、孫滝もあるらしか。 ここで落下した鳴子川は、気の遠くなるような時間ばかけて台地ば浸蝕しながら、美しか鳴子川渓谷ば作り上げていった。

 2006年9月30日にでけた九重夢大吊橋は、その鳴子川渓谷に架かっとる。吊橋がでけたお陰で橋からやったら震動の滝も雄・雌が一目で見られるごとなったし、鳴子川も空中から眺められるごとなった。

 震動の滝にはむかしから地元に伝わる伝説がある。それは・・・

 おおむかし、この震動の滝には年老いた龍神が住んどった。

 年とともに神通力が衰えてきたもんやケン、龍神は不老長寿の薬として若っか女ば食いとうなった。

 釣にこと寄せて、北方(きたかた)部落の、ある里人ば招き寄せ
「お前の娘ば差し出せ。出さんやったらお前ば食うぞ」て脅迫した。
 里人は恐ろしさのあまり、娘ば捧げる約束ばして逃げ帰った。
   九重夢大吊橋の傍には龍神がお祀りしてある。

 バッテン、親としてそげな約束ば果たされるもんかい。約束ば守らんもんやケン、怒った龍神は残っとる神通力で部落の底ば抜いて水ば干上がらせてしもうた。田畑の作物は枯れ、井戸水も涸れ、部落は大旱魃(かんばつ)に見舞われた。さらに、龍神は最後の力ば振り絞って断崖ばよじ登り、部落に火ば吹き始めた。

 そこで窮地に追い込まれた娘の恋人が一計ば案じ、部落のみんなに相談した
「龍神は栄養失調で身体がおかしゅうなっとるとですバイ。旨かモンば食わせれば機嫌な直るクサ」
「なんでも試しにやってみろう」
「それも白鳥神社から賜った餅いうことにすれば、龍神も怖ればなすやろう」
「よっしゃ」いうことになって、部落総出で白鳥神社に集まり、餅ば搗いて祈願ば受けてから竜神のとこさい持って行った。

 竜神も白鳥神社には逆らえんで一言もなく引きさがり、部落は難儀から逃れることがでけたていう。
 この時から、天災や大火の度に、部落では餅ば滝壺に捧げて龍神の機嫌ば伺うとが習しとなったゲナ。

 その後、部落の難儀ば見かねた日田代官の塩谷大四朗の采配で、天保3年、千町無田から水路が引かれ、昔のごと稲ば作られるようになったていう。北方部落の白鳥神社の境内には、その水路完成記念碑がある。

 龍神が断崖の岩や木ば掻きむしって這い登った跡が、白鳥神社のそばに残っとって「龍神崩(く)え」とか「白崩(く)え」とか呼ばれて里人は寄りつかんていう。

 さあ、龍神といっしょに断崖も飛び下りたし、鳴子川は九重夢大吊橋の下ば通って渓谷ば下る。
今回のラストば飾る九重夢大吊橋は・・・・

 昭和31年(1956)7月地元の商店会の会合で、まぁだ若っかもんやった時松又夫ていうぺーぺーの会員がクサ、「谷に橋ばかけりゃ滝も紅葉もきれいに見えるタイ」て言い出した。ところが長老たちから「寝ぼくんな、誰が金ば出すとか、夢んごたることばいうな」て一蹴された。

 ところが平成5年(1995)になって、この「夢」のごたる話が九重町の観光振興計画に盛り込まれ、反対やら反発もあったバッテン、町が根性で作り上げたとが九重"夢"大吊橋タイ。そやけん真ん中に"夢"がついとると。

 何が根性かいうと、もともと九重町は国・県の合併促進にも耳貸さず、独自性ば貫いてきた。橋の計画には20億の金が要る。国・県に補助ば頼んでも「合併にも協力せんでなんばコキよるとか」て断られた。
それでもメゲンでクサ、自力で完成させたとは九重町の根性やった。

上・橋ば渡りきった北方エリアから振り返っての九重夢大吊橋。こっちからやったらくじゅう連山と右端には湧蓋山までが見える。
左・正面の筌ノ口側(中村エリア)から見た九重夢大吊橋。対岸北方の向こうには崩平山(くえんひら)


九重夢大吊橋

 橋は平成18年(2006)10月30日に開通。

 水面からの高さ173m、長さ390mで、歩行者専用橋としては日本一の高さと長さば誇っとる。着工が平成16年5月やケン約2年半で作ったことになる。

 
入場者は開通からわずか24日後に年間目標の30万人ば越してしもうた。翌2007年4月10日には100万人ば突破。同年9月16日には200万人、2008年4月4日には300万人ば達成した。

 とんとん拍子に弾んでいって、2008年11月17日、開通から約2年で入場者数が400万人ば突破。
 2010年11月8日には入場者数が600万人ば突破した。

 
総事業費約20億円のうち、7億3000万円の地域再生事業債ていう借金は、予定より8年も早う2008年には完済してしもうた。

 過疎対策事業債のほうも2018年度までに年間約1億円ずつ返還することになっとったバッテン、すでに10億円ば基金として貯めとるケン、実質でいうと建設費の返済はもう済んどるようなもんタイ。
 
 若造の「鳴子谷に橋ばかけりゃ滝も紅葉もよう見えるタイ」いていう「夢」は見事に叶うた。

 橋の構造はメインワイヤーが2本。直径53mmのワイヤーば7本束ねて吊っとる。橋の巾は1.5mで、大人がいっぺんに1,800人乗っても耐えるごと設計されとるとゲナ。

 風に対しては風速65mくらいまで耐えられ、地震は震度5まで耐えられるとゲナ。中央部分の床は、すのこ状で下が透けて見えるケン、下ば見たら背筋のズーンてくる。秋の橋からは、紅葉の美しか九酔渓(鳴子川渓谷)の雄大な景色やら、日本の滝百選に入っとる震動の滝ば見ることがでける。

 土日は観光客が多かケン無理バッテン、人の少なか時間に散歩するぐらいの早さで渡れば、対岸まで約15分で渡られる。対岸の北方部落には、さっきから何回も出てきよる白鳥神社がある。

上の上・橋の真ん中からやったら飯田高原の切れ落ちとる崖と滝がふたつとも見ることがでける。左が雌滝でみぎが雄滝。雄滝の方は橋の入り口から下りていくと近くまでいける。
上・休日の人出。いままでの1日平均は5,300人、最高は18,022人。

九重夢大吊橋が紅葉の鳴子渓谷に長い影ば落とす。鳴子川は正面の奥のほうに流れ下る。

 吊橋見上げてたまがって、鳴子渓谷ば振り返り下った鳴子川と、合頭山・一目山から出て筋湯・湯坪て温泉に入りながら九酔渓に下ってきた玖珠川は、九酔渓の橋の北約400mにある九重フィッシングリソートのあたりでやっと出会うてから一本の玖珠川になる。
 坊がつるから発してここまでで、まあだ約10kmしか来とらん。玖珠川の旅はこれからまだ続く。
                    取材期間 1998.3〜2010.11.16

          前回へ戻ります。        次回の支流玖珠川の2回目「惚れ地蔵」です。

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