長者が築山に見立てて喜んどった泉水山
藤彦から数えて17代、長治(ちょうじ)の時には、後千町、前千町ていわれるほどの美田ば持つまでになり、百姓千人、牛馬千頭ば抱えとったゲナ。
田野の館ば黒木御所て名付け、屋敷には川の水ば引き入れて大きな池ば造った。さらに西の方にある山群ば築山に見立て泉水山いうては喜んどったらしか。
いま、長者原の西、黒岩山と峰つづきの上泉水山と泉水山がそうやったちゃろう。
館のあたり一帯は、従業員が千人も住むようになったもんやケン、家が立ち並んでそれはもう城下町のごたあ賑わいやったらしか。各地からの商人もやってきて市まで立つようになったていう。
そのころ、大野郡三重郷に真名野(まなの)ていう長者がおって、その娘の般若姫に惚れた橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ・後の用明天皇)が、都からこっそりと抜けだし、姿ば変えて住み込んどった。
当時の都ば関西て考えると距離的に無理がある。筑後川流域、いまの朝倉あたりの豪族が大和朝廷の前身で、そのあたりに都があったと考えれば、景行天皇やらその息子の日本武尊、さらに神功皇后の九州における頻繁な足跡も納得でける。「ふる里駅」の駅長はそう思い込んで疑わん。
都では皇子が神隠しにあうたいうて大騒ぎタイ。
そればたまたま所用で訪れてとった長治が知り「真名野長者のところにおる若者がそうじやなかか」て教えた。
調べてみたらピシャリほんなことやったもんやケン、欽明天皇が喜んでクサ、長治ば呼び出してお礼に「朝日長者」の称号ば与えたていう。・・もっとも、このての伝説は全国に掃いて捨てるほどある。
それまでの長治は、住んどる土地の名から田野長者て呼ばれてとったっちゃが、それからは朝日長者て名乗り、さらに偉そうに振る舞うごとなったていう。
いんにゃ、そげなことがあるもんかい。「朝日長者」は長治(ちょうじ)が単に訛っただけタイ」ていう説もある。
いずれにせよ長者の権勢はたいしたもんで、屋敷の近くば流れとる川が「うるさか」いうて長者が一喝すれば、川さえも長者ば恐れて瀬音ば低め急におとなしゅうなったていう。
そやケン音無川(おとなしがわ)ていうとゲナ。朝日長者の七不思議のひとつになっとる。
バッテン、いったん鳴りばひそめた川も、長者屋敷ば過ぎた辺りからは、また思いっきり瀬音ば鳴らしたていうことから鳴子川(なるこがわ)になった。
今は護岸工事もされておとなしか音無川。
ある年、二千町ていう広か田圃ば朝早うから千人もの男女が出て田植ば始めた。ところが、夕暮れが迫ってもまだ植え終わらん。そこで長者はどげんしたかていうと、「日が沈むとば止めればよかタイ」て考えた。
長者は近くの「扇山」に駆け登って、手にした扇ば開き「返せ、返せ」て太陽ばさし招いたていう。
そしたらなんと、まさに沈もうとしよった夕日が、そこでビタッと動きば止めた。
田植が無事に終了するとば待ったごと、太陽は西の山に沈んだ。千町無田の東には、夕日ば招き返した扇山ていう丘がある。
あ、いかんいかん山の話じゃなかった。筑後川の源流の話ばせないかんとやつた。
鳴子川が吉部に落ちていく途中に「暮雨の滝」がある。巾はせいぜい15m、落差はほんの5mしかなか滝バッテン、登山道からちょっと下ったとこにあって、秋は紅葉が美しか。
知らんもんな「くれあめ」とか「くれさめ」とか勝手にいいよるけど「くらそめ」が正しか。暮雨いうたら字の通り、夕方に降る雨のこっタイ。
山はだいたい午後には天気が悪うなる。
落差は小さいけど回りが美しか暮雨の滝

朝日長者が住んだ千町無田。左から崩平山(くえんひらやま)、朝日長者伝説にでて来る扇山、合鴫山(ごうしぎやま)
地図ば見てもらうとわかるごと、玖珠川の水源は四本の川でくじゅうの山の水ばで集めてくる。
一本は今まで紹介してきた鳴子川。これが飯田高原で東の合鴫山(ごうしぎやま)からきた音無川といっしょになる。二つの川がいっしょになる国道11号線(旧やまなみハイウエイ)の朝日台から千町無田に下ったところに長者屋敷跡いうとが残っとって、むかしここに朝日長者いうとが住んどったていう。
ここからは弥生後期の土器やら鉄器が出土しとって、今も長者の子孫ていう十数戸が生活しよんなるとゲナ。
長者原とか飯田高原について話すとき、この朝日長者と七不思議について、触れん訳にはいかん。
いま、くじゅうの登山基地になっとる長者原(ちょうじやばる・九州で「原」は「はら」じゃのうて「はる」または「ばる」ていう場合が多か)は、別府ば温泉地として開発した油屋熊八いう人が、ここにテント村ば作り「長者ケ原」て名付けたとが始まりらしか。
「朝日長者がおったケン、長者原」ていうたほうが、簡単で説得力があるケン、そげん説明しとるガイドブックやら観光ガイドさんもおらっしゃる。
おおむかし、やっと大和朝廷がクサ、日本ば統一した頃の、西暦でいうと300年あたりの話。近江国(滋賀県)浅井郡に浅井藤彦(あさいとうげん)ていう豪族がおったゲナ。神功皇后の新羅出兵に参加して、彼が操る干珠・満珠によって日本軍は勝つことができた。
ここで干珠・満珠ば説明するために、古事記まで話ば戻さないかん。
猟師やった山幸彦(ヒコホホデミノミコト)は、兄で漁師の海幸彦(ヒテリノミコト)と道具ば交換し、借りた釣り針で魚ば釣りよったらクサ、釣り針ば海に落としてしもうた。
兄から責められ、釣り針ば探しに海に入った山幸彦は、海神ワダツミの宮殿に迷い込み、ここでワダツミの娘豊玉姫(とよたまひめ)に一目惚れされて結婚する。
3年の後、山幸彦が「やっぱあ大和に帰る」ていい出したとき、海神が山幸彦に持たせてやったとが干珠・満珠ていうふたつの珠やった。
干珠は「しおひきのたま」いうて潮ば引かせる力があり、満珠のほうは「しおみちのたま」いうて潮ば満ちさせる力ば持っとった。結局、山幸彦はこのふたつの珠ば使うことで、兄と仲直りするていう一節がある。
この秘宝ば守っとったとが浅井藤彦やったていう訳タイ。
帰国した後、藤彦はその功績によって玖珠郡(いまの飯田高原)ば賜り、藤彦はここ田野の地に近江から一族ば連れて移り住んだ。以来、千町無田ていわれとった原野ば、代々にわたって開拓し続け、次第に栄えていったていう。

久住には馬が喰うたら中毒ば起こすていう馬酔木(あせび)が多か。地元のひとは「よしぶ」ていう。吉部ていう部落も昔は与志部て書いたとげなが、馬酔木が多かケン「よしぶ」になったとかも知れん。
吉部はくじゅうの北の登山口。こっから坊がつるまで大船林道が入っとるとバッテン、自然ば守るために一般車は「とうせんばっちょ(博多弁で通行止)」
手前に個人経営の有料駐車場があってここば利用するしかなかバッテン、駐車料金が1,000円とは、ぼったくりもよかところ。国立公園やケン、国が駐車場ぐらい作らんかい。国交省やら環境省はなんばしよるとか。
筑後川支流の玖珠川の、そのまた支流の鳴子川はやっと飯田高原まで下りてきた。
広か自然林の中に「年の神」ていう茅と竹で作られた祠があって大きめの丸石と小石が祀られとる。これが長者屋敷の屋敷神ゲナ。そして、この雑木林はいまだかって木ば切ったことがなかていう。
切ったり持ち出したりすると朝日長者のタタリば受けるて怖れられとるけんタイ。
その近くには鶴の墓の石碑が立っとる。長者が飼うとった夫婦の鶴で、子ば産むと親はどこかへ去るとバッテン、つねにとぎれることなくつがいの鶴が住んどったていう。
そやケン不断鶴(たたづる)ていうて大切にしとった。
ところが、文政6年(1823)、菅原村の猟師・権左衛門が鉄砲でこの鶴ば撃ち殺してしもうた。代官所の検死まであって「松の木で箱ば作り鶴の死骸ば埋めた上に石塚ば置くべし、追って沙汰があるであろう」ていうとこまでいったとバッテン、その後、それこそ「なんの音沙汰」もなかった。
台座だけの鶴の墓ばあわれみ、昭和22年になって、かってここに住んだことのある大分市長の三好一さんが揮毫して、墓石がやっと台座の上に乗せられた。
物好きな駅長が、地図ば頼りに訪ねてみたバッテン、ひっそりと淋しか限りやった。
これも、くじゅう朝日長者の七不思議に数えられとる。鶴ば撃った猟師・権左衛門がその後どうなったとかは誰も知らん。
その時タイ。観音像が黄金の輝きば発すると、なんと大蛇の口に飛び込んだていうじゃなかね。
たけり狂うとった大蛇は急におとなしゅうなり、姫に語りかけたていう。
「私はいま観音さんの慈悲とあんたの孝心に打たれましたタイ。あんたはこっから白水川に沿うて下りんしゃい。そうすりゃ幸せが待っとるバイ」
千鳥姫は大蛇の言葉通り男池から下りて、玖珠町の久多見(くたみ・朽網)長者のもとに下女として住み込んだ。
この長者は九重地方の富豪で、朽網兵衛泰親(くたみひようえやすちか)ていう地頭職やった。
よく働くし、しかも美女やったケン、千鳥姫は長者の三男に見そめられて結婚ばする。
後に朝日長者の娘と分かり、父や姉との再会もでけて万事めでたしめでたし。アメリカ映画のごたあハッピーエンドになった。
上・年の神。下・不断鶴の碑。
権勢ばほしいままにしとった長者も、ある年の干害だけはどげんしようもなかった。
来る日もくる日も雨は降らず、草も木も枯れんばかり。後千町、前千町の美田では稲も枯れよった。
困り果てた長者は、雨乞いに行くことにした。男池(おいけ)は黒岳の北の麓、千町無田の東のはずれにある。何千年ば経た今も伏流水がこんこんと湧きだしとる。ここには竜神が住むと言い伝えられとった。
原生林に囲まれた池のほとりで、長者は雨ば祈った。「もし雨ば降らして貰えば、娘の一人ば差し上げましょう」
そしたら長者が家に帰った途端、快晴の空がにわかに曇り、大粒の雨が降り始めた。それが大雨となり、川には水があふれ、田も畑も山々もすっかり緑の生気ば取り戻した。
その年の秋、田野の田はいつもにまして豊作の喜びにわきかえった。
しかし、長者は竜神との約束が気になってしょうがなか。三人の娘のなかで、父の苦しみば知る長女の豊野姫は、入水の覚悟ば決めて父に申し出た。それば知った次女の秋野姫は「いいや私が代わりに池に行く」いうて姉ば気遣う。
ところが、ふっと気がついたら三女の千鳥姫がおらん。千鳥姫は姉二人の話ば聞いて、即座に自分が犠牲になる覚悟ば決め、日頃から信仰しとる観音像ば握りしめて、暗闇のなかば男池さい急いだ。
男池のほとりに座った千鳥姫は、守り本尊の観音像ば安置して一心にお経ば唱えた。
やがて、水面が波立ったかと見ると、一匹の大蛇がクサ、水面に現れ、真っ赤な口ば開いて姫に迫った。
千鳥姫危うし。テレビの連続物なら、ここでCMとなって、後は来週のお楽しみてなる。
男池は黒岳、平治岳(ひいじだけ)への登山口にある。最近は駐車場もでけて便利にはなったバッテン、入り口に管理小屋がでけて、男池に行くにも山に登るにも入場料ば取る。
男池から出た水は玖珠川じゃのうて、東へ阿蘇野川を経て大分川に落ちとるケン、この辺りが九州の分水嶺やろう。
こげんことはあっても長者は日が経つにつれ、自然の恵みなどは忘れ去り、再び奢りたかぶるごとなっとった。この状態ば博多弁では「のぼせあがっとる」ていう。
そうした時、長女の豊野姫が筑後の豪族星野内蔵ば婿に迎えることとなった。当然、婿もてなしの祝宴が張られる。栄華ば極める長者の、しかも跡取りの婿ば迎える宴会やケン、飲めや歌えの無礼講が十日十夜続いた。
一族郎党から里人まで、集まる者は数知れず。舞いや踊り、さまざまな余興が果てしなく続けられた。しかし、日もたつと、さしもの余興も種が尽きてしもうた。そん時、長者の目に神前の鏡餅が映った。
「あれば的にして弓ば試そう」
これには参会者もびっくり。「餅は農業にとって神聖な物。それば的にするなどとは・・・」て諌めたバッテン、一度云いだしたら耳ば貸すような長者じゃなか。
鏡餅ば神前から引き下ろし、餅ば的にして長者が矢ば放つ。矢は餅の真ん中にぷすりと突き刺さった。
そしたらどうかい、餅は一羽の白か鳥になって、大空高う飛んで行ったじゃなかね・・・さあ大変タイ。
「今の白い鳥は白鳥神杜の使い鳥ではなかったとか ?」
「氏神さんがわれわれば見捨てたとじゃなかか」て、一同は酔いも醒めてしもうて、おののいた。
これにはすっかり参った長者、すぐに身ば清め神杜に向うた。そして七日七夜ば神杜にこもり「すんまっせんでした」いうて一心不乱に祈り続けた。
そしたら最後の日、神杜の境内に一枚の白い羽根がひらひらと舞い落ちた。これは神が許しちゃんしゃった証拠バイいうて、みんな一安心、長者もひとまず胸ばなで下ろした。
バッテン、このことがあってから、前後二千町の田には稲が実らず、毎年不作が続くようになった。
ついに田野の地は野っパラになってしもうて、農民達も逃げ出してしもうた。
今でも田野ていうとはそのためタイ。
田野の鎮守として北方(きたかた)に祀られとる白鳥神杜は、もとは長者屋敷の南に祀ってあったらしか、寛文11年に現在の北方の地に落ち着いたて伝えられとる。
祭神は日本武尊(やまとたける)タイ。なぜ白鳥と日本武尊なのか。それにはまた古事記に戻らないかんケン、もう止めとこう。
白鳥神社の境内の一角にほんの小さか社がある。朝日長者・浅井長治ばまつる朝日長者杜やった。最近は九重夢大吊橋がでけて、対岸の白鳥神社にもお参りの観光客が多なった。
バッテン、貸し切りバスで来た観光客は、白鳥神社にこげな話があるいうことは知らんで、ただ見ただけで帰りよる。
上・鬱蒼とした杉林の中にある白鳥神社。九重夢大吊橋がでけるまでは、お参りするひともなかったバッテン、いまはけっこう観光客も来る。
上右・白鳥神社拝殿の天井絵は、古かだけに貫禄がある。
右・白鳥神社の境内に間借りしたごと朝日長者ば祀った朝日長者社がある。
地獄が腹かいて引っ越した
長者の家運は急速に傾いていった。美田ば誇った後千町、前千町の田には実りもなく、長者も没落ば覚悟する。
しかし、倉には代々にわたって貯めてきた金銀財宝がまだ山のごと積まれとる。これば人手には渡しとうなか。そこで長者はこの財宝ば埋蔵しようて考えた。
埋める場所として選んだとは、屋敷の東北、千町無田ば見下ろす合鴫山(ごうしぎやま1205m)
まず肥後から石工30人ば連れてきて、山の頂に穴ば掘らせた。石工たちは「こげな山ん中に大きな穴ば掘ってなんするとかいな」て不審に思うたバッテン、長者は言葉たくみに言いくるめ、ついに大きな穴が完成した。
長者はさっそく祝いばして、石工たちに自ら酒ばふるまう。ところが、杯ば口にした石工たちはたちまち血ば吐いて倒れた。口封じのための毒殺やった訳タイ。死体は別に掘らせとった穴に埋めた。
しばらくたったある夜のこと、長者の館から牛馬の列が人目ば避けるごとして山に向かうた。財宝ば運ぶ人足はみんな高い報酬ば目当てに集まった他国者ばかり。夜が明ける頃やっと財宝ば穴に入れる作業は終わった。同時に穴の入口は閉ざされ、土がかけられた。目印として赤い花が咲くウツギの枝が逆さまに植えられたていう。
仕事が終わって大河原まで降りてきたとき、長者はここでも石工にしたのと同じごと毒ば仕込んだふるまい酒ば出し、倒れた人たちば引きずって地獄の熱湯に投げ入た。牛馬までが地獄に落とされたていう。
大河原地獄は多くの人と牛馬ば投げ込まれて腹かいた。やがて異変が起こり、一夜のうちに熱湯は湯坪の大岳地獄に引っ越してしもうた。これが今、九州電力大岳地熱発電所ていう訳タイ。いまも腹の虫の治まらんとやろう、ゴウゴウいうて地熱ば噴き出しよる。
大河原地獄は後千町前千町の広か田畑に、温い水ば灌漑する源やった。地獄が去り、温泉が出らんごとなると、高冷地の水田そのものタイ。稲は実らず、さしもの美田も荒れ果てて雑草の生い茂る場所になってしまい、まさに千町無田となってしもうた。
ブツブツいうとる念仏水
長者原から庄内町へ抜ける県道621号線、田野から200mほど入った農家の庭に湧水がある。「念仏水」て呼ばれとる。
駅長が探して行ったときも、ちゃんと池の底から水が湧きだしとった。
金銀財宝ば隠すとに使った人足ば、長者が皆殺しにして埋めたとがこのあたりていわれとる。
池のそばで南無阿弥陀仏て唱え、足踏みばするとブツブツて泡が音ば出すケン「念仏水」ゲナ。
バッテン、この湧きだしてくる清らかな水ば見つめとったら、そげな血なまぐさか話とは、とうてい結びつかん。ただ、写真ば撮っとる間じゅう、美しか湧水はブツブツ言い続けとった。
ブツブツいうて水が湧きだしとる念仏水。
そのうちに長者が死んだ。残された者たちは何とかしようてしたとバッテン、その元手になるはずの資金は埋められ、隠し場所は死んだ長者しか知らん。疫病が流行り長者夫人も死んだ。奉公人も去り、豪壮な館も崩れ落ちんばかり。そこに残されたとは長女の豊野姫と、次女の秋野姫だけになってしもうた。
「もうこの地には住めんバイ」
二人は心優しか妹、千鳥が嫁いでいった玖珠の久多見長者ば頼ることにした。
後ろ髪ば引かれる思いで、田野ばあとにして二人は高原ば西に向かう。奥郷川ば渡り、夕暮れの草原ば涙にくれてさまよう。二人は悲しさのあまり泣きだした。ふたりが泣きながら歩いたケン、この草原ばナキナガ原ていう。
日暮れ近く、高原の西の端、宝泉寺温泉ば見下ろす峠にやっとたどりついたとき、二人は疲れ果てとってほとんど動けん状態になってしもうとった。たまたま付近の柴ば刈り取ってでけた小屋があったケン、ここで一夜ば過ごすことにしたとやが、翌朝二人が小屋から立つことはもうなかった。
くじゅう飯田高原ば舞台にした、朝日長者の伝説はついにここで悲劇的な幕ば降ろすことになる。地蔵原から宝泉寺温泉へ抜ける県道380号線の、ここば柴館峠(しばやかたとうげ)て呼ぶ。
泣き泣き歩いた「なきなが原」
豊野姫と秋野姫が泣きながら歩いたていうナキナガ原と湧蓋山。手前は天ヶ谷貯水池と地蔵原ダム。
「やかましか !」て云うたら川がおとなしゅうなった
のぼせあがった朝日長者