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其の四

 鳴子川と玖珠川の合流点、左にフィッシングリゾート。川上へたどれば九重夢大吊橋。右は九酔渓ば流れ下ってきた玖珠川。

 くじゅう「坊がつる」に生まれ、長者原からの白水川・飯田高原の音無川ば併せて震動の滝ば落ち、九重夢大吊橋の下ばくぐってきた鳴子川と、一目山と合頭山の間から出て、筋湯・湯坪と温泉場ば素通り、地蔵原ダムの水ば加えて九酔渓は曲がりくねってきた玖珠川が合流するとがここ。九重町後野上のフィッシングリゾートの下。

   今回訪ねていく玖珠川上流の略図。右下の九酔渓から、左上の小淵橋(その一・二に紹介した大山川と合流)まで下る。

 橋ば渡ったら釣りキチにはたまらん釣り場が控えとる。「九重フィッシングリゾート」ていう。
「フィッシングリゾートちゃなんな」
「要するに自然の釣り堀タイ。池が三つあって、ごめん。池じゃなかったポンドで英語で云わないかんとやった。管理された池の魚ばクサ、ルアーフィッシングするとタイ」「そらまたなんな」
「ルアーフィッシングいうとは、生のエサじゃのうてニセモンのエサばつけて魚ば釣るとタイ。だまし釣り」
「でタダな」「タダもんかい一日で4,200円払わないかん」
 魚釣りには全く興味のなか「ふる里駅」の駅長はそげなもんは無視して、合流した玖珠川ば右手に県道40号線ば下っていく。(合流したとこで鳴子川ていう名は無うなる)

 距離にして500mもくだると左側に空き地があって、「猪牟田(ししむた)ダム建設予定地の碑」いうとが建っとる。
 石に刻まれた碑文にはこう書いちゃる。博多弁に翻訳したら・・・

 左・上流から見た町田第二発電所。左上からパイプで水ば落として発電。 右・九州水力電気(株)の社章やったとやろう。

 くじゅう登山の時はたいがい九重ICで大分自動車道ば下りて、取り付け道路から国道210号線に出たら「野上」の信号から県道40号線ば九酔渓にむこうて登っていく。

 信号から2km、約5分も走ったら左手の金網の中に、発電所が見えてくる。山のことばっかり考えて走りよったら気ずかずに、わずか 1・2秒で横ば通り過ぎてしまう。九酔渓から下ってくれば猪牟田ダムの碑から約800mほど下流の右側になる。

 これが九重町の「町田第二発電所」 大正11年(1922)に、これも九州水力電気株式会社によってつくられた。
 白色の石造ブロック積みで、半円アーチの大きな窓が並ぶ大正モダンの洋風建築タイ。

 鳴子川と玖珠川から取水し、出力は6,200Kw。昭和48年(1973)に自動制御装置の導入で無人化され、天瀬町の日田発電所から遠隔制御されとるケン、機械は回りよるごたるバッテン、人気はなか。

 漢字の「水」ば図案化した社章と思われるマークが大きゅう壁面に残っとる。九州電力の前身やった会社のモニュメントか・・・。調べてみたら日本土木学会の「日本の近代土木遺産〜現存する重要な土木構造物2000選 」にも選定されとった。

 たまがるとはそげなことじゃなか。
 九酔渓から下ってきた玖珠川の中に建物はあるっちゃが、川から取水しとる様子はうかがわれん。
 キョロキョロと見回しよったら県道ば挟んで反対の崖から大きなパイプが2本、県道の下ばくぐって建てもんのなかに入っていっとる。

 町田第二発電所の下流、わずか200mのところで玖珠川ば渡る橋が「界橋(さかいばし)」 
 その眼の下にある堰が
野上ダム(これでもダムか)で右岸に取水施設がある。モチロン無人で貯水池のほとりに咲いた桜の木が逆光で美しかった。

 ここで取り込まれた水はクサ、距離2.7kmをほら、例の「山中トンネル水路」で高低差43mの
野上発電所へ送られとる。野上発電所は「野上の信号」のすぐ近くにあって、大正9年(1920)にでけとるケン、町田第二より2年先輩になる。ここで使用後の水は国道387号線の下ば筒で抜けて、野上川に落ちる。これば筒抜けていうとやろう ?

 玖珠川について語るとに、水力発電ばのけては話にならん。

 日本で初めて水力発電所がでけたとは、明治24年(1891)の京都市
蹴上発電所やった。この蹴上(けあげ)発電所は琵琶湖疏水ば利用して、80kWの直流発電機と1,300灯分の交流発電機で始まったとやった。

 ついでに云うとくバッテン、日本で初めての原子力発電ば開始したとは、東海村に作られた
東海発電所で、昭和41年(1966)年7月25日のことやった。

 
いま日本の電力はだいたいでいうと、原子力が46%、火力が44%、水力が8%で地熱と風力が2%。
 もひとつついでにいうと、火力の内訳はLPG(液化天然ガス)が44%、石炭が40%、石油が10%ていう。
 いったんドマグレたら(上品語はヘソ曲げたら)、イヤな奴バッテン、原子力だよりていうことがよう分かる。

 脱線しょった。玖珠川の水力発電についてやった。

 いまをさること100年の明治40年(1907)に日田水電株式会社いうとが、日田の三隈川(みくまがわ)に出力1,000Kwの石井発電所いうとば運転させたとが九州では竹田についで二番目やった。
 この石井発電所、大正10年には火災ば起こし焼けてしもうたとバッテン、沈堕(ちんだ)発電所から発電機ば移設して蘇り、昭和28年の大洪水では浸水したとバッテン、このさいいうて機械ば改造、無人化もして、いまも九電のなかのミニ発電所として、まあだ元気で働きよる。(次号で取材予定)

 なんちゅうても玖珠川は、源流がくじゅう・阿蘇やケン、標高が高っか。ちなみに上流にある地蔵原ダムで850mもある。日田の駅前が標高80mやケン、その落差は770m。これは水力発電にはもってこいの環境で、利用せんいう手はなかタイ。

 そやケン、九電の日田電力所管内で玖珠川だけで8カ所もの水力発電所がある。
 さらに前回、筑後川の其の二で紹介した大山川にも4カ所、日田市内の3カ所ばかて(加え)たら、計15もの水力発電所が集中しとることになる。

 「猪牟田ダムいうとは、昭和28年に筑後川大洪水があったもんやケン、筑後川の治水・利水ば目的として建設が計画された。
 国の事業として昭和41年から調査ば進めたっちゃが、例によって官がすること、テレーテレして調査に長か年月ばかけよるうちに、社会情勢も変わってしもうて、「もうダムはいらんバイ、ていうごとなった」

 平成12年「公共事業の見直し」で「もうやめときんしゃい」て中止勧告され、建設中止ば決定したと。

 地元関係者ば30数年もダム問題に、苦しませた挙げ句の中止。周辺地域の整備も進まんまま終わってしもうた。

 このことば忘れんごとと、こげなことがあったていう証拠に建てました」 ようするに「迷惑掛けてすんまっせん」ていう珍しかお詫びの碑やった。でけたとは平成14年3月。建てたとは九重町と国交省の筑後川河川事務所。
 たしかな記憶じゃなかバッテン、それ以前ここにはダム反対の碑が立っとったような気がする。まさかプレートだけばつけ変えたとじゃなかろうねぇ。

 予定通りにでけとればこの猪牟田ダムは、堤の高さが約120m、堤の長さが約500m、総貯水量3850万立方米やった。

 さらに200mも下ったダムサイト予定地点に、調査横坑の跡が残してあった。この横坑はダム建設予定地の地質ば調査するため、昭和46年に初めて掘られた横穴で、その長さ約40mあったゲナ。

 そう。水ば高いとこから落として、その力でタービンば回して発電しよるとタイ。
 そんくらいのこたぁ分かっとるバッテン、そんなら、この水はどっから来とるとか。パイプは崖に潜り込んどって下からでは見えん。

 これも調べてみたら、なんとなんと、このもっと上、四季彩ロードの町田バーネット牧場の近くに町田第一発電所いうとがあって、そこは標高が700m、近くの地蔵原ダム(850m)から水路ば引いて発電しよる。
 そして発電した後の水ばクサ、パイプで2.6kmも引っぱってきて町田第二に落としよるとタイ。山ん中の地中ば通しとるケン、普通じゃ水路は分からん。

 町田第二の標高が480mぐらいやケン、第一との標高差は220mもある。それば利用しとる訳。

 ここだけじゃなか、ようと調べてみたら町田第一もそうやった。鳴子川上流の筌ノ口温泉にある筌ノ口ダムからも5.2kmもパイプで水路ば引いてきて、地蔵原からの水といっしよにして発電しよるとやった。
 これば「山中(さんちゅう)トンネル水路」ていうとゲナ。

 たまぐりかえって、さらにさらに調べたら、玖珠川の水力発電所は下流に至るまで、とことんこうしたトンネル水路で結ばれとって「上の発電所で使うた水ば、さらに標高差ば利用して下の発電所で再利用する」ていうしくみがでけあがっとった。

 明治・大正の時代から延々百年、こうしたしくみが働いとったかて思うから、まさに頭の下がる思いやった。

 久大本線豊後中村駅のすぐ裏ば流れとる野上川は、さらに東の崩平山(山好きは"くえんひら"ていう)から、久大本線野矢駅さい流れ下り、向きば西に変えて久大本線・国道210号線に沿うごとして豊後中村の慈恩寺橋ばくぐる。
 ・・・違った。野上川は大昔からここば流れとるとやケン、野上川が久大本線に沿うとるとじゃのうして、久大本線と国道が野上川に沿うて建設されとうとやった。

 
慈恩寺橋ば通過した野上川は、やがて九重町役場の下で、釘野橋ばくぐり抜けてJR引治駅の西側で町田から流れ下ってきた玖珠川に吸収されてしまい玖珠川になる。(引治駅については今号のステンショば参照してね)

右・モダンな作りの建屋バッテン、戸はしまり、金網には鍵がかかっとって無人
下左・町田第二発電所水圧鉄管。有効落差214.7m。直径1300mm。製作1965年、佐世保重工て読めた。
下右・崖のトンネルから下りてきた「山中トンネル水路」使用流量は3.6立方メートル/秒当たり。

 引治から1kmちょい下流の栗野(くりの)。ここから左折すると宝泉寺経由小国への国道387号線になる。

 昭和29年(1954)に開通して僅か30年、昭和59年(1984)には全線廃止となった宮原線(みやのはる)が走りよった。
 宮原線の基点は表向き恵良駅やったバッテン、実質は豊後森駅から発着しよった。駅ば出た宮原線は恵良まで久大本線ばひと駅走って、恵良駅の1kmぐらい先から西に別れ、築堤ば走って玖珠川ば鉄橋で越しよった。

 廃線になった後、鉄橋は取り壊されたバッテン、築堤はまぁだそのまま残っとる。

 宮原線の鉄橋のあったあたりから少し西へ登った金山集落に、小さな祠があってお地蔵さんが祀ってある。名前ば「惚れ地蔵」ていう。

 名前が面白かし、こらぁなんかあるバイて思い、しばらくウロウロしよったら、地元のばぁちゃんが通りかかんなった。ようは知らんけど親から聞いた話では・・・・あいまいなところは駅長がかってにフィクションした。

 
時は、330年もむかし、三代将軍家綱の頃タイ。幕府は財政が行き詰まって、貨幣ば改鋳(かいちゅう)せないかんごとなったもんやケン、諸国に対して金銀の採掘にハッパばかけた。ここ粟野村にも、金鉱があるらしかいうことで、全国から山師が集まってきたとゲナ。

 掘ってみたら金が出た。そやケン、地名も金山タイ。西部劇でいうたらゴールドラッシュ。鉱山景気に田舎の村は沸き返った。そげな場所には、決まってヤマ男ば相手の女郎屋がでける。当然ここにも男ば慰める店が何軒かでけた。鑿一本と金槌一丁持って暗闇に潜り命がけで鉱石ば探す男たちの楽しみは、女郎屋の女と遊ぶくらいやった。

 そのひとりに石見の国から出稼ぎに来た巳乃吉ていうとがおった。モグラの仕事から出てくると、おりんいう女が働く筑前屋に行くとが楽しみやった。しかし、おりんには仕事柄の病気があって、なじみの己之吉ば避けとった。そして毎日ここ玖珠川のほとりのお地蔵さんに「ビョーキが治りますごと云うて」お参りしとった。

 このお地蔵さんは南北朝時代に玖珠川の河原で見つかったもんで、上流から流されてきたものらしかった。見つかったお地蔵さんばほったらかす訳にもいかず、村では祠ば建てて大切にお祀りしとった。

 おりんが一心に参りよってふと気がつくと、後に巳乃吉が心配気に立っとって「地蔵さんに何ば頼みよったとな」て声ば掛けた。

 おりんは巳乃吉ばほんなことは、好いとるとバッテン、わざと素っ気なか態度ばとって知らんふりし、帰えろうてするおりん。

 追いかけようとした巳乃吉が、足ばとられて転んだ弾みでお地蔵さんが倒れ、石の粉が飛び散っておりんの下駄に飛んだ。そしたらどうかい。黒塗りの女郎下駄があっという間に真っ白うなった。
 おりんはびっくりこいて、これは己之吉と一緒になれていうお地蔵さんのお告げバイて感じ、病気のことは告げずに身請けしてくれたら一緒になるて約束した。

 それから1年。巳乃吉は食うもんも食わずに貯めた金ば持って、おりんば身請けするため筑前屋の暖簾ばくぐった。やり手婆が仏頂面で出てきていうた。
「残念やったね。おりんは10日前にあの世に行ってしもうたバイ」
「・・・」
 がっかりした巳乃吉は、思い出のお地蔵さんに走っていった。お地蔵さんにお別れ言うて濁流渦巻く玖珠川に飛び込もうと思うて走った。

 お地蔵さんに手ば合わせて長いこと拝んだ己之吉が、目ば開けたらお地蔵さんの横に、なんとおりんが立っとるやなかね。下駄じゃのうして頭ん中が真っ白になった己之吉、訳は分からんバッテン、とにかくおりんが生きとったケン、手に手ばとって去って行ったていう。
 映画でいうたらどんでん返しのハッピーエンド。アメリカ映画そっくりタイ。

「井手のお地蔵さんにお参りしたら、治らん病気も治るゲナ」
「お地蔵さんの体ば削って好きな女の下駄に振りかけたら惚れられるゲナ」

上の2枚・豊後中村の入り口に架かっとる慈恩寺橋。左が下流側で右が上流。親柱は野上祇園祭りとつつじの鏝(こて)絵でかざられとった。
左・九重町役場の下の「釘野橋」
下・JR久大本線は引治駅のすぐ西で玖珠川ば渡る。玖珠川と野上川の合流点には「介護老人施設ケアポート渓和」があって、天気の日は汽車ば眺めて日なたぼっこがでける。
 下り「ゆふいんの森3号」が引治鉄橋にさしかかった。

たったの30年走って消えた宮原線(みやのはる)の跡
中国から来なった大覚禅師が名付け親「竜門の滝」

 久大本線恵良駅の北約200mの三叉路ば右折して、3kmほど走っていくと「竜門の滝(りゅうもんのたき)」いうとがある。

 竜門の滝は、上流に松木ダムば持っとって、自衛隊の訓練場になっとる日出生台あたりが源流のごたる。そやケン、川の名は松木川ていう。

 滝は中間に滝壷がある二段落としの滝で、全体の幅は40m、落差20m。1段目の滝に深か滝壷があって、この滝壺から流れ出す2段目の滝は滑らかでよう滑るケン、夏には滝滑りの子どもで大賑わいする。まさにカッパの天国で地元の夏の風物詩タイ。

 鎌倉時代の寛元年中に、宋から渡来して来なった高僧の蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)禅師いうとがクサ、中国の黄河上流にある「龍門」に似とるいうことから、この滝ば「竜門の滝」て命名しなったとゲナ。
そしてこの地に竜門寺ば建立しなったていわれとる。

 なし蘭溪道隆禅師がこげなとこまで来なったとかは誰も分からんとバッテン、この坊さんはのちに執権北条時頼の帰依ば受けて、京都で大覚派の祖として本格的に臨済宗ば広めなった。
 建長5年(1253) 北条時頼が建長寺ば創建したときには招かれて開山になっとんなる。

 一時期「中国の密偵バイ」て疑いばかけられて伊豆に逃げて行っとんなったバッテン、のち建仁寺に戻りここで死んどんなる。諡号は大覚禅師

左・春はアベック、夏は家族連れ、秋は年寄りで年中賑あう竜門の滝。
下・滝の下流のキャンプ場ば流れる松木川。
下の下・やがて松木川は恵良で玖珠川に合流する。左奥は切株山。

 三日月の滝とは、そこに伝わる悲恋の伝説とは ?
すんまっせんバッテン、この号のステンショ「北山田駅」に書いとりますケン、そっちば見てつかぁさい。

桜の北山田駅で玖珠川は「三日月の滝」に落ちる
町田第二 (水力)発電所
 
惚れ地蔵

 今も水が流れ出とる。これは約37m先の岩盤の割れ目からの湧水で、掘った時から枯れんで流れとるもんやケン、記念に残しちゃーと。

 当時、このあたりには、こげな地質調査のための横坑が26本も掘られとって、その延長は約2,000mにも達しとつたゲナ。ダムの建設中止で全部コンクリートで埋め戻したていう。無駄なことばしたもんタイ。そしてだぁーれも責任ば取ったもんなぁおらん。

 くじゅうの山登りに何十回ここば通ったか分からんバッテン、こげな碑やら横穴のあるとは全然知らんやった。 
右・道路脇に残されとる試掘坑。

筑後川と水力発電

野上ダムと
野上発電所
野上川

上・「惚れ地蔵」の金山集落から見た手前玖珠川。奥に大岩扇山と恵良駅。黄色の線が以前宮原線が走りよった築堤。
下左・築堤は国道210号線のとこでプッツン。        右下・築堤の向こう久大本線が走る。

 村の若っかもんは、先ば争うて赤っかアテシャン(博多弁、共通語では胸当て)ば地蔵さんに供え、お地蔵さんの体ば削って、好きな女の履いとる下駄に振りかけたていう。

 粟野村井手のお地蔵さんが
「惚れ地蔵」て呼ばれるごとなったお粗末の一席。


上左・集落の角に祀られとる「惚れ地蔵」
上右・祠には「俗名おりん」て書いた名札が下がっとるバッテン、今では地蔵さんば削って女にかける男はおらん。
左・国道210号線から見た宮原線の鉄橋があったあたり。少し登ったところに金山・井出の集落がある。


慈恩の滝

 滝シリーズのごと「滝」ばっかり続くバッテン、玖珠川の旅もやっと杉河内まで下ってきた。お茶は自動販売機で買うてクサ、慈恩の滝で一休みしちゃんしゃい。

 万年山・亀石山・吉武山の水ば五馬高原から集めてきた山浦川は、上が10m、下が20m、合計落差30mの二段滝で、台地から玖珠川に落ち込む。びしょ濡れ覚悟なら、滝の裏側に回り込んで見ることもでける。

 天ヶ瀬ば流れ下った玖珠川は、急になんば思うたか向きば変えて北上し始める。豊後中川駅の国道の北ば流れていく。

 別にこっから近か高塚のお地蔵さんにお参りする風でもなか。もっとも川の地蔵参りなんて聞いたことがなか。

 豊後中川駅は久留米側出入り口の
「花のトンネル」が有名で、その時期になったら写真好きが集まってくる。

 ところがタイ。近くの駐在所に意地の悪かお巡りがおって、発車間際になってパトカーば乗り付けてきてクサ、線路脇からカメラマン達ば排除にかかる。

玖珠川は
天ヶ瀬温泉の
真ん中ば流れ下る

桜の
豊後中川駅
無粋なお巡り

 「無人駅で汽車撮すぐらい、なんが悪かな」て抗議したっちゃ分からんちんタイ。「乗客以外入ってはいけません。ルールは守ってください」の一点張りで話にならん。世の中ゆうずうの利かん人間は多かもんバッテン、ここのお巡りは変人たれ。みーんな気分悪うしてタマガッとる。
 そげなわけで発車のシーンは、前回取材の「43番線・ステンショ」の「豊後中川駅」ば見て我慢しちゃりぃ。
 http://www.geocities.jp/tttban2000/SL5043/index.html

上の上・龍のモニュメントがでけた。
上・すぐそばば走っとる久大本線の特急は、ここでスピードばおとしてガイドさんの説明ば聞かせてくれる。
右・水量の多かとき二段滝は迫力がある。
下・上りの特急「ゆふDX」が玖珠川ば渡る。右は国道210号線。

 慈恩の滝には数千年前の「龍の伝説」がある。
 好きな人は
「待合室の観光案内所」の「大分の夏」から「慈恩の滝」に行ってクサ、読んで来ちゃんしゃい。
   http://www.geocities.jp/tttban2000/Room/sight/sum/jion.html
 駅長はその間手抜きばして遊んどります。

 天ヶ瀬温泉(あまがせおんせん)は、いつでけたとか分からんぐらい古か温泉ゲナ。

 由布院温泉、別府温泉とともに豊後大分の三大温泉のうちのひとつていわれてきとる。

 ぬるつきが無うてさらっとしとるやさしか湯と、久大本線の天ヶ瀬駅ば降りたらすぐていうとがよかっちゃろう。

 むかしは河川敷のどこば掘っても温泉が湧いたていう。玖珠川沿いに約10軒の旅館ホテルがひしめくごと建っとる。

 
奈良時代に書かれた「豊後国風土記」には天武天皇の頃、大地震で温泉が湧き出したて書いてあるゲナ。その頃のことはだぁーれも知らんケン、それ以前かも知れん。

 筑豊の炭鉱が景気の良かったときは、炭鉱マンの保養地として賑うとつたていう。今は田舎の老人会が主流。

 取材に行った駅長が写真撮りながら「あーあーあ天ヶ瀬の夜るぅに泣いている」てハミングしよったら、共同風呂のオバチャンに「そらあ 柳ヶ瀬やなかとぉ」てからかわれた。

上の上・天ヶ瀬温泉のホテルのひとつ「シャレー水光園」スイス風な作りがシャレーとる。まじめにいうたら、シャレーいうとはアルプス地方の山荘のことタイ。
上・以前は町の中ば通りよったけど、高架のバイパス(左)がでけて通り抜けるもんにとってはありがたか。

左・キレイな豊後中川駅の「花の門」下り列車が入って来た。
下・上りの列車ばここから撮るとが最高のポジション。
下の下右・なんで線路の石やら撮っとるとぉ。
下の下左・駅のアイドル犬でなまえが「ドル」

 川はそっちのけにして、ちょつ遊びすぎた。先さい行こう。


 豊後中川駅ば過ぎると川はまた西へ向き直って、今度は激しゅう蛇行しだす。場所の字名が瀬野尾ていう。川のヘアピンカーブ、国道もそれに沿うとるケン、スピードが出せん。

 クズクズしよったら川と一緒に撮りたかった「ゆふいんの森号」が来た。
玖珠川と橋と汽車ていう目的はなんとか達したバッテン、慌てて撮ったもんやケン、タイミングが0.3秒早かった。


変な名前の
女子畑発電所

 まあ何とか目標にしとった「玖珠川と橋と汽車」ば撮ったケン、ルンルン気分で国道210号線ば日田さい走りよったら、玖珠川の左岸に発電所の建物が見えた、後続車のなかことば確認して急ブレーキ。あわや通り過ぎよった橋に乗り入れる。橋の上から写真ば撮ってよう見てみると「女子畑発電所」て書いちゃった。

 さぁて、変わった名前、こればなんて読むとやろうか。「じょしばたけ ?  おんなはたけ ?  おなごばた ?  家に帰り着くまで悩んどった。正解は「おなごはた」

 その女子畑発電所は大正2年(1913)に作られとって、前に触れた石井発電所の明治40年に次いで古かもんらしか。後からでけただけあって、チャチな石井とは比べもんにならんくらい能力が高っか。
 まず水の落差が石井14mに対して女子畑は73mもある。使いよる水の量は石井が毎秒10トンに対して女子畑は50トン。そして発電能力は石井は1,100Kwバッテン、女子畑は29,500Kでなんと29倍。

 発電始めた翌年の大正3年には、なんと北九州の官営八幡製鐵所まで電力ば送りよったとゲナ。当時としては破格の発電所やったらしか。

 女子畑発電所の下流にある「小ヶ瀬(おがせ)の沈み橋」。江戸時代から何度も洪水にやられた智恵が作った 。女子畑から三芳への水路は川向こうの山の中ば通してあるケン、洪水があっても心配なか。

 しかもまぁだたまがったことには、水ばどっから引いてきよったかていうと、いま通ってきた天ヶ瀬温泉の直ぐ下にある玖珠川ダムから取水して、約7kmば山ん中いパイプ突き通した「山中トンネル水路」タイ。
 しかも昭和元年(1926)からは、大山川の大山ダムから10kmもの「山中トンネル水路」ば山ん中い這わせて持ってきとるて云うじゃなかね。

 しかもしかも、まぁだ聞いちゃつてん。ここで使うた後の水はクサ、玖珠川には戻さんですぐにまた「山中トンネル水路」で2.6km下流にある三芳発電所で使いよるとてバイ。

 玖珠川も大山川もそれぞれ上流の発電所が使うた後の水。女子畑から三芳に送りよるとも使用済み水。
 急流の玖珠川・大山川の自然があってのことやが、まさに米作りの段々畑といっしょ。人間は偉か。

 たまがるとはそんくらいにして、「おなごばた」ていう名前に戻る。

 駅長の単細胞による想像やったら「男がおらんケン、女ばっかしで畑ばつくっとったケンやろうタイ」てなる。

 正解は、むかし玖珠川の左岸に、台(だい)、金迫(かんざこ)、漆原(うるしわら)、川原(こうはる)ていう集落があって「尾長畑(おながはた)」て呼ばれとった。

 近くに「女子幡(おなごはたのかみ)」ていう神様が祭られとんなったことから、どっちが主か分からんバッテン、女子畑(おなごはた)て呼ばれるごとなったらしか。

「豊後国志」には「女子畠」 「天保郷帳(1647年)」いうとには「女畑」て書かれとるとゲナ。

 おおむかし、一夫多妻制やった頃、土地の親分がハーレムのごと、いっぱい女ば抱えとって、その女達ばこき使うて畑ばつくらせよった」ていうほうが面白かったといねぇ。

 奥が玖珠川左岸の女子畑発電所で導水管が見えとる。手前は日田電力所の建物。

 振り返ってみたら、今回の玖珠川だけで発電所の数が計8カ所、その総発電量は68,500Kwになる。玄海原発1号機の559,000Kwとは桁違いバッテン、原発止めても自販機とコンビニの深夜営業ばやめて、水力・風力・太陽発電ばもっともっと増やせば、日本の電力は自然の力だけでなんとかなるタイ。

 上流から水路で見事にネットワークされた玖珠川の水力発電にたまがってばっかりで草臥れた。もうちょっとで大山川との合流点に着くとバッテン、もう足が先さい行かん。   これから先は次回の楽しみにとっとこう。
                   取材期間 2007.10.1〜2011.4.10

          前回へ戻ります。        次回の玖珠川の3回「女子畑水力発電」です。

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