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其の五

  取水口からの標高差約70mと1秒間に50立方メートルの水量ば利用して、最大29,500Kwの電気ば作りよる女子畑発電所。

     
遙かくじゅうの山ん中から玖珠川は、やっと標高100mの日田まで下ってきた。

 名前が面白かったケン、前回で興味ば持った女子畑発電所やったが、発電に使いよる水はどっから持ってきよるかて調べたところ。天ヶ瀬の玖珠川ダムだけじゃのうして、大山川の大山川ダムからも10kmのトンネルば山ん中に掘って持ってきよることが分かってクサ、なんで玖珠川にある発電所が大山川の水ば使いよるとかて、こんどはそっちのほうが面白うなった。

 ていうわけで、筑後川其の二で通り過ぎてきた大山川に、ちょっと後戻りすることにした。玖珠川と大山川の地理関係ば、下の地図で頭ん中に入れてからついて来ちゃ んしゃい。

 折角、大山川に戻ってきたケン、もうひとつのダムに寄り道しよう。それは、さっきちょっと見えた大山川ダム左岸のもうひとつの取水口のことタイ。

 女子畑ダムへのトンネル水路は大山川ダムから約10kmバッテン、この左岸から取り込まれたほうの水は、こっから約14kmも山ん中ば潜って、なんと日田市の西の外れにある柳又発電所(やなぎまた)まで流れていっとる。

 しかも途中に津江山系から流れ下っとる川ばクサ、5本(上野川・赤石川・高瀬川・串川・内河野川)も股越したり、合流したりしての大変な旅路タイ。その中でもスゴカとは、赤石川ば大きな鉄管で跨ぐ豪快な越し方やった。 

 久兵衛は従兄の魚屋(うおのや)長八いうとば工事の専任監督にして進めさせたけど、大変な苦労やったていう。

 源ヶ鼻から現在の田島専念院下までの約2.2kmが工事の中心で、水路ば通すためのトンネル掘るとが大仕事やったらしか。特に源ヶ鼻の岩盤が堅うて一日にたったの2〜3寸(曲尺の1寸は3.03cm)しか進まんほどの難工事やったていう。

 またトンネルの工事やケン、人夫の酸欠やら落盤事故にも苦しめられ、竹筒で空気ば送ったり、隧道の両側に石垣ば造って、その上に平石ば置いて落盤ば防いだり、難儀の連続やったていう記録が残っとる。

 
工事はときに昼夜兼行で進められ、2年後の文政8年(1825)4月20日完成通水。翌21日、塩谷郡代出席のもとに大原八幡宮で盛大な通水祝祭がおこなわれた。いまも大原八幡宮の前には180年を経た井路が通り、神社の境内にはこの偉業ば顕彰して「小ヶ瀬井路の碑」が建てられとる。

 筑後川は昔から何回も洪水ば発生させとる。明治以降でも、明治22年7月、大正10年6月、昭和28年6月とに大暴れしとって、そのたびに筑後川の堤防が決壊。これば筑後川の三大洪水ていう。特に、昭和28年の大洪水では、被災者約540,000人、死亡者147名の大災害となった悲しい記録ば残した。

 大山ダムの目的は、100年に1回発生する規模の洪水ば想定して、計画上の水流量ば秒当たり690立方メートルとして、このダムで570立方メートルば調節し、ダム下流の赤石川と筑後川ば洪水被害から守ろうとしとる。

 駅長が行ったときにはダム本体はでけあがっとって、周辺の道路整備がありよった。
 7月の大山ダム建設所のHPによれば、5月から
試験湛水(たんすい・水ばたたえること)ば初めて、6月17日に平常時の最高貯水位に到達したとゲナ。これから9月30日まで水位ば保持したあと、水位ば上げたり下げたりしながら、 ダムの基礎地盤やら貯水池周辺の安全性ば確認していくていう。

 ダムの形式は重量式コンクリート。ダムの高さは94m。貯められる水の量は満タンすると18,000,000立方メートルになるゲナ。ていうたっちゃ見当もつかん。

 完全に出来あがるとは平成24年度で、じゃあいくらの金が掛かったとかていえば、なんと1400億円。ていうたっちゃ、これも今まで持ったことがなかケン見当がつかん。

 松原ダムの約2.5kmほど下流に柚木ていう小さな集落がある。大山川に架かる古い鉄骨の柚木橋ば渡る。
 橋の袂に車ば止めて橋の上から上流ば見ると、右岸にコンクリートの枠と鉄の大きな水門があって、どうもここの風景と釣り合わん。

 初めはこれが女子畑への取水口かと思い、望遠鏡ば取り出してようと見てみたところ、水は取り込まれるとじゃのうて吐き出されてきとる。後で調べたらこれは上流にある松原ダムからの放流水やった。

 松原ダムは毎秒85立方メートルもの水ば使うて発電しよるケン、使用後の水ば直接川に放出せんで、わざわざ山ん中に2kmものトンネルば掘って、安全な場所まで運んでから川にじわーっと戻すごとなっとるとゲナ。

 日田市大山町の信号から県道9号線ば前津江のほうに約1km入った所に、反対されながらでけたばっかしの大山ダムがある。

 着工したときは赤石川ダムていいよったとバッテン、大山町にでけるダムに前津江村の地名ばつけるとはおかしかろうもんいうことで、すでにある大山川ダムとはまぎらわしかけど大山ダムになっとる。

 その直ぐ下200mばかり下流の赤石川の谷間に、直経5mもある鉄製のパイプが虹のごと架かっとって、この中ば大山川ダムから来た秒当たり約70立方メートルの水が流れとるていう。

 川幅が170mもあるケン、2本のコンクリート橋脚でガッチリ支えられとって、下へ回り込んで見ると迫力がある。

 川の上に橋架けて水ば通す工夫はローマの頃からあって、これは水路橋ていわれとった。
 しかしこれらは石かコンクリやった。

 ここんとは鉄管でてけとるケン、鉄管橋やろうか、いいや、ちゃーんと専門家はよか日本語ばみつけとんなった。「水管橋」ていうとゲナ。

 この水ば貰うて昭和48年(1973)にでけた柳又発電所は約62,000Kwていう発電ばしとるていう訳タイ。これは日田発電所管内に15ある筑後川の発電所では発電量が一番大きか。(写真・下)

上・橋桁も鉄管も頑丈にでけとって、赤石川の谷間ば威圧しとるごと見えた。
中・普通は山ん中にあるこげなもん誰も気づかんやろう。バッテン、見たかによってはチャラチャラした観光風景より美しか。
左・上流にでけたての大山ダムが見えとる。相当手前にある駅長の「車椅子」と比べても水管橋の大きさが想像でける。
 

 水色の線が「小ヶ瀬井路」のメインルートで、右下が取り入れ口の小ヶ瀬。日田の中心部ば通り、庄手川に合流する。
 これからさらに細かく分かれて水田500haを潤した。筑後川「山中トンネル水路」の元祖はこれやろう。


 この小ヶ瀬井路、総延長は2,754m。日田市小ヶ瀬町の玖珠川から取水し、豆田町ば抜けて再び玖珠川の支流・庄手川に流れ込むまでの間、水田約500haば灌漑し、この井路のため13ヶ村の米の収穫が約1300石増加したていう。

 
また、この水路が出来たことから、町の中心部ば流れとった中城川(花月川支流)の水量が増えたケン、かねての懸案やった三隈川通船計画も可能となり、日田から水運によって筑後地方に水上貨物が初めて運送されたゲナ。

 ところがこの井路はいまの取り入れ口付近に堰ば造って、玖珠川の水ばせき止め(ここギャグじゃなか)取り込みよったために、ちょっと大雨が降ったら溢れたり堰が壊れたりして、修復と管理がまた大変やったらしか。

 天保11年(1840)には、隈町の山田作兵衛が500両、廣瀬久兵衛・草野忠右衛門が各250両づつ出し合うた寄付金千両ば基金として、利子と13ヶ村の負担金で、その後の、井堰・井路の修理保全ばするシステムが発足しとる。

 国道210号線の白手橋から約1km登ったとこに白い四角の建物がある。その奥の小高いところに、遠くから見ても大きいことが一目で分かるサージタンクが見えとる。

 サージタンクなんていえば洒落て聞こえるバッテン、水の貯蔵庫タイ。タンクの中に一定量の水ば満たしておくことで、取水施設らの流量が増えたり減ったりしても、発電機などに過負荷が掛からんごとなっとると。

 柳又発電所はぐるりぐるっと金網で囲うてあるケン、行っても敷地の外から遠目に見るだけで、いっちょも面白うはなか。

 知っとんしゃろうバッテン、広瀬淡窓は「日田いうたら咸宜園(かんぎえん)」ていうくらい有名な私塾ば作り、身分ば問わず人材教育ばして、高野長英やら大村益次郎たちば輩出させた儒学者タイ。

 
久兵衛は兄淡窓が子どもの頃から病気がちやったために家業の跡継ぎば断念したケン、兄に代わって久兵衛が家業ば継いだていう経緯がある。

 金儲けも上手やったバッテン、公共土木工事やらほかの藩の経営コンサルタントまでしてクサ、あんちゃんの陰に隠れとるけど、社会貢献と地域振興に功績のあった日田の偉人タイ。

 現在は、九州電力株式会社との協定・協力で、昭和12年から安定した水量が確保され、さんざん修復に苦しんだ井堰も要らんごとなった。そやケン、いくら駅長が探しても、川に取り込み口が見つからんやった訳タイ。

 自然相手のそげんむづかしか問題ば、どげんして解決しなったっちゃろうか。それはこうタイ。

 昭和3年に九州水力電気(株)いうとが、三芳発電所ば建てることになった。場所は女子畑とおんなじ玖珠川の左岸。女子畑で使うた水ば川には戻さんで、川の左岸沿いに掘削した山中トンネル水路で約2.2km下流にある三芳発電所まで引くことにした。

 その中間にあるとが小ヶ瀬井路の取り込み井堰。堰のあった下ば掘って川底にサイフォン管ば通し、女子畑から来た山中トンネル水路の水ば分けて、小ヶ瀬井路の取り込み口に揚水するごとした。

 赤石水管橋の逆で、ここでは玖珠川の下ば水管が潜るいう訳タイ。川底の管の長さは約180m、直径は約1m。これで秒当たり約2立方メートルの水ば小ヶ瀬井路に流し込むことがでけた。

 こうしとけば、井堰は要らんケン、水害の心配もなか。雨が降らんも水路の水は確保でけるケン、田圃が涸れることもなか。

 よかばっかりタイ。筑後川で水ば扱うもんなぁ、なしこげん頭の良かとやろか。

 この水路が日田市内ば血管のごと流れとったケン、日田市が水郷(すいきょう)日田て呼ばれる由縁になっとるとよ。

上から・大原神社の前を横切る小ヶ瀬井路。
定期的に水利組合のおじさんが見回って水量の調整ばしとんなる。
 神社の直ぐ横には弓道場があって桜並木が水路に被さっとる。
 近くの高校生が真剣に弓ばひいとった。

 駅長が首ばひねっとった水神さんの下から湧き出す水は、昭和12年に改良されたこの方式によって取り込まれた水やったっタイ。

 古びた「井路改修碑」には、このことが分かりにくう書いてあった。コンクリの小屋の壁には「小ヶ瀬井手取入口跡」ていう説明看板の架かっとった。

 橋から下流ば見る。大山川ダムらしきモノが見えたけど、山の裾がバリ出しとって川沿いには近づけん。

 仕方無く車に戻ったら、駐車したところの山腹に小さなトンネルば見つけた。大山川ダムのほうに繋がっとるようやけど小さくて暗か。

 ふつうやったら、いくら物好き云うても、ここであきらめて引き返す。駅長の好奇心はそれでも「行け」「Go Forward ! !」ていう。

 トンネルに踏み込むと下はビチャビチャ。低っか天井からは水がしたたってきとる。真っ暗な200mば出口の小さな灯りだけば頼りに駆け抜ける。

上・大原神社の入り口にある小ヶ瀬井路の顕彰碑やが、碑文が長うて、前だけに入りきらず(右)、横にはみ出した上、裏側にまで回り込んどる(左)。珍しか作り方の碑バッテン、型破りで親切で面白か。

左・松原発電所で使用後の水は、おだやかな流れのここで川に戻す。 右・柚木橋の下流に見えた大山川ダム。

  実際にここまで来て見てみると「なぁーや」て思うほどあっけなかし、緑と青以外色気もなか。
 しかし、
大正2年(1913)にはもうでけとったていう、ここの水力利用システムには開いた口がふさがらん。

 トンネルば出たら、そこには目指す大山川ダムの堰堤があった。対岸(左岸)の国道沿いに取水口が見えた。しかしこれは柳又ダムへのもんで、これについては後にする。

 駅長が立っとる足元に取水口があって、女子畑への水はここから
「沈砂池」ばへて「山中トンネル」に吸い込まれていきよった。(写真右下) 
 
沈砂池(ちんしゃち)いうたら、川から上水やら発電などの水ば引き入れるときに、水に混じっとる土砂ば沈殿させるため、取水口の近くに設ける人工池のこっタイ。

赤石川の空ばまたぐ水管橋
 現在、この辺の筑後川に流れる水の約6割が、川の表面ば流れんででクサ、山中トンネルば流れとるて聞いたらたいがいのもんはたまがるばいねぇ。

 水は無愛想に、ただ水路ば流れとるだけバッテン、土手には小さなゲンペイ小菊がいっぱい咲いとった。

先人の知恵。水郷日田ば支えた
小ヶ瀬井路

 女子畑ダムの下流約1kmに「小ヶ瀬の沈み橋」ば見て、さらに200m進むと川岸へ降りとる小道がある。
 国道ばたには案内板も標識もなかケン、よっぽど注意しとらな分からん。ここが、もう歴史に埋もれようとしとる
「小ヶ瀬井路(おがせ いろ)」の取り入れ口やった。

「小ヶ瀬井路ちゃなんな」
「そうやろう、あんたも知らんくちやろう、そやけんクサ、カーナビにも載っとらんとタイ」

 おそるおそる10mばっかり降りていくと、河床に古か石碑と古かコンクリの小さな建てもんがあって、軽自動車の巾くらいの小道ば挟んで、コンクリで囲まれた水路が日田市内のほうへ向いて続いとる。

 水が流れ込んどるいうか湧き出しとるいうか、その角っこには水神さんの祠が朽ち果てんばかりに立っとった。
「この水はどっから湧いてきとると ? 」川のほう向いても、すぐ横ば流れとるくせに、玖珠川は知らん顔しとる。

 大山川から玖珠川に戻る。

 時はいまを去ること188年前の文政6年(1823)ていうケン、徳川11代家斉の時代、 

 度重なる旱魃に困り果てとった博多屋久兵衛ほか弁屋忠右衛門など13ヶ村の庄屋たちが、赴任したばかりの日田
郡代・塩谷大四郎に農業用水路の開削ば願い出た。

 話ば聞いた郡代は「そらぁよかこっタイ。やんなっせ。後押ししますバイ」て、即決した。これがいまの政治家やら行政とちがうとこやねぇ。

 日田は織田・豊臣時代の1593年頃から、豊臣家の直轄地となっとって、徳川の代になっても九州の大名たちば監視するため天領としてずっと郡代がおかれとった。

 一方申し出た庄屋の代表・
広瀬久兵衛いうたら、現在の日田市豆田町あたりで掛屋(かけや・いまでいう銀行)ばしよった 博多屋広瀬三郎右衛門の三男で、広瀬淡窓の弟やった。

大原神社の前ば流れる小ヶ瀬井路に沿うて見事な桜並木が続く。特に夜桜は有名か。
上・水神さんの下から湧いてくるこの水はどこから ?

 200mも走ったろうか、行く手の空に変な橋が見えてきた。玖珠川といま走っとる筑後街道ば軽々と股越しとる。日田にこげな橋のあったかいな ?

 「スカイファームロードひた」に架けられた「天領大橋」ていうとゲナ。橋の長さは190m。主塔が1本の斜張橋で主柱は変形A型。2002年に開通した「スカイファームロードひた」のランドマークとして、わざと目立つごと設計されたていう。 斜張橋いうたら支柱からワイヤーで橋桁ば吊っとる橋。早ういえば吊り橋タイ。

 「スカイファームロードひた」いうとは、熊本の田の原温泉から、小国の西里ば通って亀石峠までの「スカイファームロードわいた」と繋がっとって、女子畑の調整池あたりから日田バイパスに入ってきとる道タイ。

 ファームロードなんてていえば、シャレかぶっとるバッテン、早ういうたら「農道」タイ。
 「Oh !Noどうなっとるとかいな。(シャレ分かる ? )

 「天領大橋」の下あたりで玖珠川が左さい大きゅう曲がっとるとこで見つけた護岸のための横堤(よこてい)

 橋も橋バッテン、その下の玖珠川土手から、川に突き出しとる堤防のようなもんが見えた。
「あらぁなんな」「そうくるやろうて思うとった。あれはね「横堤」いうてクサ、川の流れとほぼ直角に、本堤防から川に向かって設けられた堤防のこっタイ。洪水の流れば受け止めて、流れのスピードば落とし、本堤防ば崩壊から守るために造られとうとタイ」
「はぁはぁ どっかでも見たことがある。そうそう佐賀の嘉瀬川・石井樋(いしいび)公園にもあった。象の鼻とか天狗の鼻とかいいよんなった」駅長の頭ん中でひとりごとの会話がつづく。
「そうやろう。熊本の加藤清正やら佐賀の成富兵庫(なるとみ ひょうご)茂安は、治水の達人ていわれとるとタイ」


天領大橋
 小ヶ瀬井路の取り込み口ば後にして150mも行けば小ヶ瀬橋の信号。
ここば左折すると日田バイパス通って久留米への国道210号線。
 駅長は玖珠川の最後ば見届けるために、直進して386号線(筑後街道)ば大山川との合流点小渕橋へ進む。

     左から小淵橋の下ば流れてきたとが玖珠川で、右手からのが大山川。下流から撮した合流点。

 へっぱくいいながら、また200mも行かんうちに見えた見えた水色の小淵橋(こぶち)。
 ここで西からの大山川と、いま駅長が下ってきた玖珠川が合流して・・・・まぁだ筑後川ちゃいわん。ここて゜
三隈川(みくまがわ)て名前ば変える。

 水郷ていわれるだけあって日田市にはいくつもの川が流れ込んできとる。小淵橋の合流点ば基準に拾うと、左岸がまず大山川から始まって下流さい高瀬川・串川・内河野川やろう。右岸が玖珠川から花月川・二串川・大肥川てなる。しかも合流した川は市の中心部では三つに分かれ、西から三隈川・隈川・庄手川て呼ばれとる。

 もう何回もいうとるケン、分かっとんしゃろうバッテン、川の左岸・右岸は「上流ば背にして」いうごと決まっとるケン、再確認しときまっしょう。


川が三つに分かれとるケン三隈川ていうとバイ。
て知ったカブッていうたもんがおる。

 三隈川の由来には諸説があるバッテン、そのひとつ「日と鷹伝説」によると、むかしむかしの大昔、湖やった日田盆地にある晩、大きな明るか三つの星が落ちた。そして翌朝、大鷹が東から飛んできて舞い降りた。

 鷹が湖に羽ば浸して太陽に向かい、羽ばたきばしたところが、どうしたもんかいね、波が岸辺にヒタヒタ(ここギャグ)て打ち寄せてクサ、湖は底の抜けたごと干上がって大きな干潟になったとゲナ。

 水が引いたケン、日田。干潟になったケン、日田。「日と鷹伝説」やケン、日田。日高郡やったケン、日田。こじつければいくらでも出てくるタイ。

 そして星の落ちたとこに三つの丘が現れた。南の岡ば日ノ隈、北の岡ば月ノ隈、金星が西の空に出るケン、西の丘ば星ノ隈ていうごとなった。大雨がふったらそれぞれの丘ばよけて三本の水の疵がでけて川が流れるごとなった。それで三隈川タイ。

 お隣の玖珠町に残っとる切株山の民話によると、おおむかし万年山(はねやま)の北側に、雲ば突き抜けるごたあ楠の大木が茂っとって、九州全部がそのために日陰になってしもうとったゲナ。あるとき大男が来てその木ば三年がかりで伐り倒したら・・・

 大きな湖やった玖珠盆地やら日田盆地は、大木が倒れたもんやケン、湖の土手が切れて水が流れ出してクサ、これが玖珠川タイ。田圃に日が当たるごとなったケン、日田タイ。倒れた楠の木の先っぽが長崎さい飛んで、葉っぱの飛んだ跡が博多につき、木の切株がいまの伐株山ていう。

 どこの村や里にも日がさすようになって夜明、朝日、光岡(てるおか)などの地名が生まれたとゲナ。玖珠の地名もこの楠からきとるとげなバイ。

    玖珠川・大山川の合流点から下流の日田市内。かすんで見えとるとは三隈大橋で、ここから約1.5kmある。

 その日田は、豊臣家の直轄地として、文禄元年(1592)に代官の宮木長次郎が
日隈城ば築き、日田藩の基礎が固まったていう。現在これが亀山公園ていうワケ。

 
またいまでは、その城跡は石垣と堀の一部が残るだけになっとるバッテン、日田林工そばの月隈公園は慶長年間に小川壱岐守が丸山城ば築いて日田代官の居城となったところ。

 日田市の西、花月川と二串川に挟まれとる丘が星隈で、慶長6年(1601) 小川壱岐守光氏が月隈山に築城したときには、ここに仮城ば置いたていわれとる。いまは星隈公園として整備され、山頂には星隈神社として八幡さんが鎮座しとんなる。

 また、日ノ隈・月ノ隈・星ノ隈ば結ぶと、ちょうど二等辺三角形になって星ノ隈がその頂点に来る。豊後国志には、この三つの丘ば「三隈三山とか日田三丘」て書かれとる。

三隈大橋

 レトロな雰囲気が漂う橋タイ。
 R212号の「元町」信号から西に入ると三隈川に架かっとる。

 長さは132m。昭和27年(1952)の日本橋梁製やケン、60歳に近か。

 日田温泉の上流にあって温泉客の散歩コースにも利用されとる。 ある意味で日田市のシンボル。

 橋の姿には敗戦からやっと立ち直って、近代国家ば作ろうていう頃の面影が残っとる。

 形式は鋼トラス橋で下路三径間ゲルバーていう。
 ゲルバートラス橋いうとは、ドイツのハインリッヒ・ゲルバーていう人が考え出したトラス構造の橋で、主として大きなスパン(径間)が必要な場所に架けられることが多か。普通ゲルバー橋ていう。

 トラス構造いうとは、一つ一つは細長か鉄骨の部材バッテン、両端で三角形に繋いでいき、それば繰り返して橋桁ば構成していく方式。普通トラス橋ていう。
 このふたつば合わせると、ここんとはゲルバーさんが考案したトラス橋ていうことになる。納得 ?


島内井路と島内堰

上・三隈川のまん真ん中。中ノ島の、船で云うたら舳先に頑張っとるカッパの船頭さんと鵜飼いの鵜。三隈川の標識も。
 日田中央ロータリークラブが
2006年、創立30周年記念に建てた。「安らぎと感動の三隈川」て書いちゃった。
中・下流から見た島内堰と河川敷。左奥が日田の温泉街で右が中ノ島の突端。
駅長が行った日の前にまとまった雨が降っとって大山川の松原ダムも放水しよったケン、水量が多くて島内堰も迫力があった。奥のこんもり茂った丘が日ノ隈の亀山公園。

 三隈大橋の下流約500mで川は三本に分かれる。一番南が三隈川で真ん中ば流れるとが隈川。この間に囲まれた大きな洲が中ノ島で、三隈川と隈川は東西800mほどの中ノ島の西ですぐに合流する。

 直角に近く北へ分かれるとが
庄手川(しょうて)で、突端にあるとが旧「日ノ隈」の丘・いまは亀山公園ていう。

 庄手川はこっから市内ば大きゅう迂回して2.5kmほど下流でまた三隈川にもどる。真ん中の隈川とこの庄手川に囲まれた範囲ば
島内ていう。

 地図ばみれば分かるごと、なるほどこれも大きか中洲タイ。
むかしはこの中にも井路が整然と通っとったっちゃが、昭和28年6月25日朝から降り出した雨は、とんでもなか豪雨になって三隈川はあっという間に氾濫し、日田市内のほとんど全域が水に浸かってしもうた。

 翌午前2時に銭淵橋が吹き飛ばされたとばはじめとして、三隈大橋以外の全ての橋が流失または破壊されてしもうた。3月に完成したばっかりやった三隈大橋は流石に流されんやったバッテン、その橋脚に上から流れてきた木材やら家屋が引っ掛かり、流ればせき止めたもんやケン、ここで川が氾濫して、もうおおごと。濁流が市街地に流れ込んだ。

 日田市は川に挟まれとるもんやケン、陸の孤島になってしまい日田市郡だけで約3万7千人が被災。死者17人、住宅被害は約7千戸に達した。
 玖珠川では18の橋梁中11橋梁が流失したていう。これにより国道210号・212号・386号・久大本線は完全に不通、通信線や送電線もズタズタにされ、日田市は一時完全に孤立した。

 大水害のあと、島内地区は災害復旧事業の認可ば受けて昭和28年12月から34年にかけてようやく復旧し た。

 いま、亀山公園内に築造された親水公園ば流れる水は、島内井堰から取水した水が流れ、人々の 安らぎの場になっとる。






左・島内下徳瀬井路ば利用して作られた親水公園
 中ノ島の突端で川が分かれるとこにふたつの堰がある。そのひとつ島内堰は、江戸時代の文政年間(1823)に築造されたもんで、現在の堰は昭和34年(1959)に改築されたもの。長さ150m。高さ3.6mで、いまでも約40ヘクタールの水田ば灌漑しとるていう。最近、みんなから塗り直す色のアンケートばとったりしてきれいになった。

 中ノ島は東の端が三隈川公園になっとって、三隈川交流センター「朝霧の館」がある。
大分自動車道ば日田ICで降りて、小国もしくは天ヶ瀬方面さい行く車は、中ノ島ば玉川バイパスで突き抜けて行くことになる。道の西側には「日田天領水の里元気の駅」いうとが今年の4月にでけた。
中ノ島の西の端には「かんぽの宿日田」があって、泉源から直接引いた100%掛け流しの露天風呂が人気タイ。


庄手川

左上・亀山公園から見た庄手川。分岐口は公園の突端にもうひとつ小さな洲があって、石橋があったりして風情がある。
左・亀山公園の傍ば流れる庄手川。この日は水量が多かった。対岸には古か商家がならんどる。釣りばしよるおいしゃんは釣り竿ほっぽらかして居眠り。菖蒲が咲いとった。

水郷日田が「すいごう」じゃのうて「すいきょう」て呼ばないかんとは
日田の山や川、そして人情が清らかで濁っとらんけんゲナ。

「水郷音頭」

日田はエー アリャ水郷水郷 よいとこ涼しい風に 動くチョイトネ 墨絵の
 アノ鵜飼い舟 ヨイヤナーヨイヤナ アレサ コノサ サノエー アラ水郷水郷
霧の蒲団を着て寝た日田を 憎や朝日が出て起す
日田は月隈桜に酔えば 暮れの鐘つく慈眼山
船の篝が小波を照らす 照らす小波に鵜がはやる
鵜飼遊船 三隈の涼み ならば唄まで絵にしたい


「日田どん」

飾り山に来たぁーッ

 日田の北に聳える大将陣山(だいしょうじんやま)ば源として、市内ば流れとる花月川のほとりに日田神社いうとがある。

 その小さか日田神社は相撲の神様としてあがめられとって、日本相撲協会も日田巡業の時には必ず代表が参拝に来るていう。

 ここに祀られとるとは、俗に
「日田どん」ていわれた源平時代の郡司・大蔵永季(ながすえ)。

 延久三年(1071)ていうケン、もう940年も前タイ。背丈が2mもあって鬼太夫てまでいわれるほどの力自慢やった永季の怪力ぶりが京の都までとどき、日本一の力自慢ば競う天覧相撲大会に召し出されることになった。

 大原八幡宮で優勝祈願して旅立った永季は、都へ向かう途中、大宰府あたりば通りがかったとき、川のほとりで遊んどったひとりの童女から・・・
「あなたの相手となる出雲の小冠者いうとは、母親が力の強か子どもば産みたかいうて、毎日鉄粉ば食べとったケン、全身が鉄よりも固かていわれとります。バッテン、母親がついいっぺんだけ瓜ば食べたもんやケン、額に三寸ほど柔らかい場所があるとです。そこば狙えばあなたなら倒せるでしょう」て、いうた途端に童女はサッと消えてしもうた。

 都に着いて、天皇の御前で小冠者と勝負することになった鬼太夫は、はじめ小冠者のすばやさに翻弄されたバッテン、童女の言葉ば思い出し、小冠者のデボチンに右手で一発ば食らわしたところが、小冠者はひっくりかえって永季が勝った。

 日本一になって天皇からも褒められ日田へ戻った鬼太夫こと永季は、父・永興(ながおき)の後ば継いで日田の大領になり善政ば施したケン、領民から日田殿(ひたどん)て呼ばれ慕われたとゲナ。
 
 この「日田どん」が、今年のソラリアの飾り山に登場しとるケン、
たまがったぁ。


上・天覧勝負で小冠者ばクラしよる日田どん
右・2011年のソラリアの飾り山・表
「怪力相撲日田殿(かいりきすもう ひたどん)

 鏡坂ば右折すると日田バイパスがでける前まで国道210号線やった旧筑後街道で、800mもいくとバイパスに吸収される。合流地点のあたりが石井ていう地名で、こっから2km走った右側に発電所がある。よほど気ば付けとかな分からん。金網で囲うてあって人の気配はなか。筑後街道に暗渠で沿うてきた水路から水が構内の発電棟らしか建てもんの方へどんどん吸い込まれていきよる。

 九州で一番最初にでけた水力発電所は、鹿児島県の小山田発電所で運用ば開始したとが明治31年(1898)やった。そん時の出力が60kwやった。

 単純に考えたら60kwいうたら、60wの電球1,000個分タイ。明治やケン、40wぐらいしか使いよらんやったとしても1,500個分。一所帯3球使うたとして500所帯分ていう計算になる。

 二番目にでけたとがこの石井発電所で明治34年(1901)やった。閉まっとるゲートの横に「石井発電所の沿革」ていう看板があってそれにはこう書いてあった。

 大分自動車道から降りてきて玉川バイパスば南下すると、中ノ島の隈川に架かっとるとが島内橋で、200m走って三隈川ば渡るとが台霧大橋(だいむおおはし)。直ぐの信号が「鏡坂」で直進すれば久留米から来たR210の日田バイパスに突き当たる。

 何で鏡坂ていうとか。豊後風土記には「むかし、景行天皇が熊襲ばやっつけて凱旋しよんなったとき、日田の郡(こおり)にさしかかんなったところ、土地の神の久津媛(ひさつひめ)がお迎えしなった。
 天皇は郡の西の外れにあるこの丘に登って国見ばしていわく「この国の姿は、鏡の面にそっくりタイ」それからこの丘(いまは鏡坂公園)の坂ば鏡坂ていうごとなったとゲナ。
 そん頃の日田は丸く平らけく(ここだけなしか古文)キラキラて輝いとったっちゃろう。


筑後川でいちばん古か発電所は、もうでけてから110年
後期高齢者とっくに過ぎとってまぁだ現役

 例によって博多弁で翻訳すると、日田の豪商で草野忠右衛門ていう人が、仲間の豪商と資本金ば5万円寄せて日田水電ていう会社ば設立しなったとゲナ。明治33年のことやった。

 大分県ではすでに竹田発電所いうとがでけとったケン、それば追っかけるごとして翌年、ここに発電所ば建設し早速12月から水力での発電と供給ば開始したていう。出力は小山田発電所といっしょで60kwやった。日田市内の電灯1,000灯に送電したとゲナ。
 明治35年には精米・製材用に動力200Vの供給もはじめ、38年には出力330kwば増設、久留米まで11,000Vの高圧で送電しよった。

 文明開化で需要はいくらでもあったろうケン、もうかってウハウハやったろうバッテン、世の中なんでもよかばっかりじゃなか。大正10年(1921)火災で発電所は全焼してしもうた。

 東電の原発じゃなかバッテン、送電は全面的にストップ。慌てて同じ大分県の沈堕(ちんだ)発電所からクサ、水車の発電機2台ば移設して出力1,000kwでやっとのこと運転再開にこぎつけた。
 その間丸っと3年間、お客さんなあどうしよったっちゃろうか。駅長はそれが一番気になることやけど、看板には会社のことばっかしで、お客のことは書いてなか。その頃から電力会社は偉かったっちゃろうか。

 昭和になってこの会社は九州配電ていう会社に統合し、26年に
九州電力になっとる。

 昭和28年の筑後川大洪水では浸水してまたストップ。そのあと発電機の改造ばしたときに無人化もして、いまでは女子畑の日田電力所から
遠隔操作で動かしとるとゲナ。

 いまの発電用水車は昭和50年(1975)に改造したカプラン型プロペラ水車で、出力最大1,100kwで運転しよる。使いよる水は秒当たり10トン。2.4km上流の三隈川からR210沿いの水路で持ってきとる。発電所の標高が75mで、取水口との落差が13mぐらいしかなかケン、今後発電量が増える可能性は薄か。

 九州電力日田電力所の管内では、いちばん古か発電所ていう歴史だけで動きよるようなもんバッテン、世の中またなんが起こるか分からんタイ。原発ば動かせんごとなったら、たったの
1,100kwのミニ発電所いうたっちゃ貴重なもんになってくるかもしれん。

 「まあ、元気でがんばっときやい」いうて石井発電所ばあとにした。

上の上・石井発電所の正面は筑後街道に向いとるとバッテン、車で走っとったら全然気がつかずに通り過ぎてしまうぐらいチャチか。使用後の水は、すぐ裏手の三隈川にコソーッと放水しとる。
上・水路からどんどん出て来て、どんどん吸い込まれていく発電用の水は、上流2.5kmの石井第一ダム・第二ダムから取り込まれ、高低差ば利用した水路で運ばれてくる。
右・この水路、むかしは水面が露出しとったらしかけど、子どもたちが水遊びして溺れたもんやケン、いまはフェンスで囲い、全部コンクリで蓋ばしてしもうた。左が筑後街道。

 水郷日田ば1回で済まそうちゃケン、やおいかん。ページ数もだいぶ長うなった。振り返ってみると其の一がA4換算9ページ。其の二が12ページ。其の三が20ページ。其の四が16ページ。そして今回が20ページ分と増え続けとる。

 読む人もご苦労やろうバッテン、書く方も物好きたいねぇ。バッテン、ただひとつ誰からも認められんだっちゃ、自分に自慢しとることがある。それは「全部自分の足で現地に行って、自分で撮してきた写真しか使うとらんこと」

                   取材期間 2010.6.17〜2011.6.14

       前回へ戻ります。    次回のは、 「高塚のお地蔵さん」と「八丁原の地熱発電」です。

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