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其の六

  玖珠の鏡山てつぺんで、いつもクルクル回っとる11基の風車。自然の風でのんびり発電。これなら放射能の心配はナカ。

     
日田まで下ってきて、上流に忘れもんばしてきとるとに気がついた。戻ろう。

 忘れもんば取り(撮り)に玖珠の手前まで後戻る。北山田駅の手前で左折して九州自動車道の方へ上っていくと、道路脇にピンクの字で「風の通り道・はな園」て書いた看板が「ひちこいか」ごと続けて並んどる。(ひちこいかは博多弁、なん回も同じこと繰り返してくどいこと) 忘れもんば撮りに行きよる方向やケン「ま、よかタイ。行ってみろう」

 看板通りに走っていったら「はな園」があった。しかも、道路の両側に大きな招き猫まで立っとって「おいでおいで」ばしよった。これは期待出来るぞ、招かれる通りに脇道へ入った途端、ゲートがあってしかもトウセンバッチョ(とおせんぼ)。

 説明板ばみたら、営業時間が16時までゲナ。駅長の腕時計では16時15分。天気もたいしたことのうて、これじゃあ忘れ物もよう撮れんやろうケン、あっさりと出直すことにした。

 山ばっかしの九重で八丁(約800m)もの原っぱが続いとるケン八丁原。地下のマグマば利用しとる八丁原地熱発電所。

 筑後川の水力発電から始まってクサ、電気のことばっかしいいよるごたるバッテン、生活に電気は欠かせんもんねえ。ところで駅長からの質問があるっちゃけど・・・・「日本に地熱発電所がいくつあるか知っとんしゃる ? 」

 駅長の調べたところでは、たったの18カ所。火山国にしては少なかろう。そのうち九州に9カ所あって、地熱発電の約半分は九州ていうことになっとる。 さすがVolcano Islandバイ。

 夜明大橋と筑後川の流れ。右奥に英彦山から流れ下ってきた大肥川の合流口が見える。その上あたりに夜明駅がある。

 日田英彦山線と国道211号線はここの「夜明三差路」信号から英彦山から北九州へと北上していく。
 くじゅうで生まれたこの川、「夜明大橋」まではずーっと一貫して大分県やったバッテン、橋の下流400mで目では見えんけど、川の真ん中に県境が現れ、ここで初めて福岡県と接する。

 その忘れ物ちゃなんかいな。賢明な「ふる里の蒸気機関車」のお客さんなら、もうとっくに分かっとろうバッテン、玖珠の鏡山のテッペンでいっつもクルクル回っとる風車タイ。駅長はいつもこのあたりば通るたびに11本の風車が気になってしようのなかったとよ。

 調べてみたら、その風車11基は平成16年に、鏡山(標高674.6m)の尾根に「玖珠ウィンドファーム」ていう風力発電会社が建設したものやった。会社の説明によると、三菱重工業製の風車は高さが地上から約68m、羽1枚の長さが約32m、全部の高さは約100mにもなるとゲナ。

 風速2.5mの風があれば回り始め、風速12.5m以上になると1分間に約20回まわる。風速25m以上になったら、羽根の角度が変わって自動的に止まる仕組みになっとるていう。

 発電能力は1基の最高出力が1,000kw、これは一般家庭300世帯が使う電力に相当するげなケン、この鏡山だけで3,300世帯分の電力ば賄える計算になる。

 ここで風力発電ばしよんなるとは、玖珠ウインドファームいう会社で、2005年から発電ば始めとんなる。でけた電気ば九電に売ってクサ、いまから儲けろうていう会社タイ。

 地熱で発電しよる全国の総量が535,200kwで、そのうち九州が213,150kwやケン、約40%は九州ていうことになる。

 地熱発電いうたら、なんか大がかりなごたるバッテン、九州の9カ所のなかには、岳の湯発電所の50kwとか、霧島国際ホテルの200kw、九重観光ホテルの1,000kw、杉乃井ホテルの1,900kwなど小規模自家用いうともある。

 九州のなかでの最大規模は、これが九重に忘れもんしたて駅長がいうとる八丁原(はっちょうばる)発電所の110,000kwタイ。

 11万キロワットいうてもピンとこんやろうバッテン、普通の家庭やったら20万所帯分ていうことになる。

 こればもし石油で発電するとしたら年間では20万キロリットルていう途方もなか石油ば使うことになる。

 場所は筋湯温泉から南へたったの300m。西の一目山、東の黒岩山に挟まれた谷間にあって、年中ごうごうと白か蒸気ば吹き上げとる。

 近くにある大岳発電所についで九州では二番目にでけた日本一の地熱発電所ていうことになる。

 地熱発電のしくみは、地下に700メートルから3,000メートルぐらいの深か井戸ば掘って、マグマの熱で熱うなった地下水ばくみ上げ、取り出した蒸気でタービンば回して発電する。

 使うた熱水はまた地下へ戻すケン、自然にはなんの負担もかけんし、原発のごと処理しきらんごたるカスなんて出らん。

  八丁原発電所は、昭和52年6月に1号機が、平成2年6月に2号機が完成していまは2基で稼働し、 運転制御は約2kmはなれた大岳発電所からしよんなるとゲナ。



左上から・蒸気で1分間に3,600回転タービンば回して発電する発電装置。蒸気機関車の親戚とおもうたら親近感がわく。

運転制御は大岳から遠隔操作やケン、コントロールルームには誰もおらんでよかと。

でけた電気は変電装置で交流の5,000ボルトに変えて送電線に送り込む。

井戸は全部で30本。浅か井戸で760メートル、最も深かもんは3,000メートルもある。地中から取り出す蒸気は、井戸によって違うけど発電所全体ていうと、毎時890トンにもなる。

 「駅長さんもし」
 「なんな ? 」

 「ちょっと質問ですバッテン、川の真ん中の県境て、どげんして決めちゃあとですかいな」
 「あんたも難しかことば聞くなぁ」

 「県境が山頂なら杭ば打っとけばよかバッテン、川の真ん中では杭は打てんし・・・」
 「あぁせからしかねぇ、川の両岸に指示標ば打ち込んでクサ、そればもとに測量ばして真ん中ば計算するとタイ」

 「はぁ やっぱあ 杭(悔い)のなかごと考えちゃあねぇ」

左上・風車の回転で発生する動力ば電力に変換する中核部分ば「ナセル」ていう。
左・カウベルランドの駐車場に展示されとる風力発電機の羽根「ブレード」ていう。下の写真で車と見比べたら、全長32mの大きさが分かる。

 はな園のトウセンバッチョから1週間後、青空に白か雲が出る天気ば確かめて、風車撮しに再挑戦。今度はゲートが開いとったケン、入って行けたバッテン、コスモスの咲く前でシーズンオフのせいか誰もおらん。お陰で自由に歩き回って風車の写真が撮れた。近くにあるカウベルランドからも風車は見えたけど、風が南からで風車はみんなシリ向けとった。


 いま世の中は原子力発電の安全神話がくずれてクサ、原子力に頼っとった電気ばどうするかで、右往左往しとる。
 このドキュメント筑後川でも前に書いたごと、いま日本の電力はだいたいでいうと、原子力が46%、火力が44%、水力が8%で地熱と風力が2%で賄うていきよる。もひとつついでにいうと、火力の内訳は液化天然ガスが44%、石炭が40%、石油が10%ていう。

 このデータば見たら、いったんドマグレたら(ヘソ曲げたら)、イヤな奴バッテン、原子力頼りていうことがよう分かる。地震国の日本に55基もの原子力発電があって、地震の無かアメリカ・フランスに次いで三番目いうとも、いま考えたらおかしな話タイ。

 こげんしてしもうた政府・学者・業界の責任は別として、ドキュメント筑後川で見てきた昔の人の、自然のエネルギー利用の智恵にはあらためて感心する。それはいまの全体の比率からすれば、たいしたことはなかかも知れんバッテン、原子力発電でけつまづいた以上、これから見直されていかないかんし、また必然的にそうなっていくやろう。

 石油もあと40年したら無うなるとゲナ。そうしたら電気作るにはなんが残る ? 水力・風力・地熱に太陽光しかなかろうもん。

 いま、自然のエネルギーによる発電量は総電力需要量の2.8%に過ぎん。バッテン、資源エネルギー庁は風力発電による発電量ば10年までに300万kwh、30年までに2,000万kwhにするて発表しとる。普及のいちばん進んどるデンマークでは、国全体の電力の20%が風力発電によって賄われとって、2025年には50%以上にするていうとる。風力発電はもっともっと風速ば増していくに違いなか。

 太陽光発電もそうタイ。政府やら九電はもう当てにならんケン、駅長は意地でソーラーば設置することに決めた。そのうちみとってんしゃい、ソーラー良かったねぇて云われるごとなるタイ。

九重の山ん中に、もうひとつの忘れ物
それは地熱発電所

 筑後川は総延長が143kmもある九州最大の川やケン、源流から有明海に注ぐまで5回も名前ば変える。
 阿蘇外輪ば源流とした「西流れ(駅長が勝手に命名)」が、
田の原川から始まって杖立川大山川やろう。
くじゅうに発した「東流れ」が
鳴子川から玖珠川ときて、日田市に入ったら「西流れ」と合流して三隈川ていう。これが前回までの筑後川ドキュメントで語ってきたところ。

 日田市内のはずれで、大将陣山から南下してきた花月川ば取り込んだところから、やっと本名( ? )の
筑後川ば名乗るごとなる。

 筑後川になって約4kmも下ってくると夜明。玖珠の民話では九州ば覆っとった大木ば切ったら、夜が明けたごと明かりが差してきたケン、地名が
「夜明」になったてギャグっとる。

 しかし実際は、焼畑開墾地やったケン、最初は夜焼(よやけ)て云いよったとば、「焼(やけ・やき)」の発音ば嫌うて夜開(よあけ)から、夜明(よあけ)の順で改字されたていう。こっちの話がほんとう。

 左岸ば走ってきた国道210号線(筑後街道)と、右岸ば来た国道386号線がここに架かる
「夜明大橋」で行き来できるごとなっとる。

原発ばアテにしたらイカン
 2カ所の忘れもんば拾うて、やっと本流に戻ってきた
日田ば通り過ぎた流れは花月川ば合わせて三隈川からやっと筑後川になる
 日田英彦山線の
      夜明駅
         建て替わりました。

 筑後川ば挟んだ県境はこっから有明海までの間に十数回もあっちぃ行ったり、こっちぃ行ったりば繰り返す。

 なんでそうなっとるとかは、もうちょっと下流に行ってから取りあげる。暇な人は前もって地図ばようと見ときんしゃい。


 筑後川のことば筑後のもんは
「ちっごがわ」て愛着ば込めて云う。過去の歴史では何回もこの暴れ川に痛めつけられとるくせに「やっぱあこの川のお陰で米もでけるし暮らしてもいける」ていう感謝の念も込めて云う。

 駅長の父方の先祖も「ちっご」やケン、駅長も「ちっごがわ」て聞いて育ってきた。

 どうも「ちっごがわ」でなからな落ち着かん。
 川もそろそろ筑後に入ってきたことやし、こっから先は「ちっごがわ」ば使わしてつかあさい。

 夜明駅(よあけえき)は、日田彦山線の終点やが、これは名目上だけで、列車はぜんぶ久大本線経由で日田駅まで乗り入れとる。

 2面3線のホームば持つ地上駅バッテン、駅へは少し階段を上がらないかん。昭和7年(1932)の開業時にでけた古い木造駅舎やったけど、2010年3月に木造の新駅舎が完成した。

 2009年6月までは、駅前の商店で乗車券ば発売しよんなったとバッテン、現在は完全な無人駅。
 それもそうやろう、利用客が2000年の約100人から、どんどん減って2009年には49人/日になってしもうた。今後も増える見込みはなかろう。



上・跨線橋から駅舎越しに筑後川と夜明大橋。
右上・新築の瀟洒な夜明駅
右中・バイバイで辛くない別れ
右下・駅前のお店で老夫婦がキップば売りよんなったっちゃが、施設にでも入んなったとか、いまは閉店。
下・「ゆふいんの森号」が楽しそうに駆け抜ける。

折角ここまであがってきたっちゃケン
高塚のお地蔵さん(博多の幼児語では「おいぞうさん」)に
詣っていかな いかんめぇ

 高塚愛宕地蔵尊(たかつかあたごじぞうそん)なあ、どうしてでけたお地蔵さんかていうことも知らんまま「高塚さん高塚さん」いうて貸し切りバスがどんどん来よる。そんくらい老人会には有名かと。
 恥じかかんごと教えとくバッテン、ことの起こりは行基さんタイ。

 
行基いうたら天智天皇の頃(奈良時代)の坊んさんタイ。朝廷が仏教ば一般民衆への布教ば禁じた時代に逆ろうて仏法の教えば説いて回んなったケン、みんなから崇敬されなった。また、全国に寺や道場ばいっぱい作ったことでも有名で、今でもあっちこっちに残っとる。寺だけじゃなか。溜池やら堀・橋、困窮者のための収容所なども作って社会事業ば進めなったとゲナ。

 いまの政府でいうなら国交省・厚労省・農林水産省あたりがせないかん福祉の仕事ばクサ、ひとりでしなったようなもんタイ。
 民衆の圧倒的な支持があったケン、のちにはとうとう大僧正として、聖武天皇から奈良の大仏(東大寺ほか)建立の責任者にされなった。

 九州でも「どこいったっちゃ行基に当たる」ていわれるくらい、仏さんば訪ねたら、寺や仏像は「行基作て伝えられる」ていうもんだらけタイ。数えられんほどあるバッテン、佐賀の大興善寺など有名なもんだけでも100はくだらん。
 高塚もそのうちのひとつて思えばヨカ。

 伝承によれば、約1,200年前の天平12年(740)に行基さんが九州に下んなたとき、高塚に来なったとゲナ。
 そして地蔵菩薩ば拝みよんなったら、1本のイチョウの木に乳房の格好ばした宝珠があるとば見つけなった。そこで行基さん、一体の地蔵菩薩ば彫って、地元の人々にお祈りするごと説教しなったていう。

 そのイチョウの木は、乳のごたる突起がいっぱいついとったケン「乳銀杏」と呼ばれるごとなり、子宝に恵まれ乳の出のようなる霊木として信仰ば集めるごとなった。いまでは、樹齢千年ば超す巨木になっとって、大分県の天然記念物に指定されとる。

 その後、天暦6年(952)になって、地元の人々がイチョウの木のそばに小きな堂ば建て、行基が彫った地蔵菩薩ば祀ったいうとが高塚愛宕地蔵尊の始まりタイ。

 もともとは、乳の出ばようするお地蔵さんとして知られとったとバッテン、寺が商売上手でクサ、次第に病気平癒、学業成就、商売繁盛などなんでもにご利益(りやく)のあるごとしたもんやケン、評判になり、多くの参拝客ば集めるごとなり、門前市まででけるごとなっていった。いまでは、年間200万人を越す参拝客が訪れるていう。

 境内には、2000体を越す地蔵が奉納されとって、田村亮子がシドニーで金メダルを取った時に奉納されたていう金メダル地蔵 ? も混じっとる。

 奉納料ば仮に1体1万円としても2千万円のボロ儲け。しかも安置期限があるケン、更新していかないかん。

 後ろの崖に乗りきらんごとなったもんやケン、下にトンネルば掘って「一念洞」て名前ばつけ、ここにも280体収容。奉納される地蔵は止まるところを知らん。
 おっと、こげなことば云いよったら地獄に落とされる。

上・奉納されたお地蔵さん
左・後ろの崖は上さい伸びるだけ伸びて奉納地蔵が
2,000体。
下左・入りきらんケン、崖の下に穴掘って280体。真ん中で閻魔さんが睨んどんなる。
下右・お抱え地蔵は、抱き上げてお願いすると利益があるていうことで、日曜、祭日には長い行列が出来るほど人気がある。
 お寺が商売上手で、つぎつぎアイデア絞って考えだしとんなる。

 ところがダム建設中の昭和28年(1953)6月、異常に発達した梅雨前線によって筑後川流域は500mm以上の集中豪雨が続き、流域は有史以来の大水害に見舞われた。これが死者147名、流されたり浸水した家7万4千戸ていう有名な昭和28年西日本大水害いうやつタイ。

 このとき、ダムはでけたばかりで頑丈やったケン、上流からの激しい濁流に洗われたバッテン、頑張っとった。しかし両岸の部分から溢れだしてついにダムは決壊。

 この決壊事故が下流の水害ば増幅させたとじゃなかかていう指摘が出され、調査した結果「ダム決壊が原因ていうよりもともと河川整備がちゃんとでけとらんけんタイ」ていうことが分かって、その後の河川改修にハツパがかかることになった。
 これで大騒動してでけたとが下筌と松原ダムていうことになる。日本でのダム決壊は夜明が3例目やったていう。

 また、これは水害とは関係なかバッテン、夜明ダムがでけたことで、江戸時代から続いとった日田〜大川間の筏運(スギの材木ば筏で運ぶ)は消滅してしもうた。

 そのかわり、直線で2km近くもの水瓶はカヌーの練習に使われるごとなり、1966年の大分国体ではボート競技の会場にもなった。

 早速使うてみろう。「ちっごがわ」は、福岡県と接したところあたりから水が溜まってきてダム湖の様相ばあらわす。ここから下流1kmには夜明ダムの堰堤があって水ばとうせんばっちょしとるけんタイ。

 これが夜明発電所ば作るために作った夜明ダムていう訳。戦後の電力需要拡大ば見越して「女子畑だけじゃあ心もとなかバイ」いうことで昭和27年(1952年)から建設にかかり、わずか2年で完成させたていう。
 ダムの型式は重力式コンクリートダム、高さは15m。

 このダムと発電所の建設で、このへんの村は降って湧いた好景気やった。家の移転費やら田圃の補償費は貰うわ、工事の下請け作業員としても優先雇用されるは、道路はようなるはでウハウハやった。
ろう。


いよいよ今回のハイライト夜明ダムと発電所

 ダム湖の水は当初の目的通りいまも堰堤近くの取水口から取り込まれ、国道の下ばトンネル水路で約800m、夜明発電所に運ばれ出力12,000kwの元になっとる。

 夜明発電所が稼働しだしたとは昭和29年(1954)。方式はダムから直接水ば落とさず、水路で持ってきて一旦サージタンクに入れるケン「ダム水路式」て呼ばれとる。

 取水口との落差は約17mしかのうて、これ は三芳・石井についで低っか。バッテン、使いよる水の量は毎秒80立方メートルと「ちっごがわ」水系の発電所では松原についで2番目に多か。

 それなのに出力が少なかとはなしかいな。大正にでけた女子畑にも負けとるとはなしかいね、いう疑問が湧く。

 水車の形式が違うけんやろうか。専門家 じゃなかケン、ようは分からんけど、落差の違いじゃなかろうか。

 女子畑は水量は50立方メートル/秒やが落差が70mもあるケン、30,000kwも発電でけとるとやろう。要するに水のパンチの利き具合やろう。

 発電所はダムの下流、「ちっごがわ」右岸の国道386号線沿いにある。見にいったバッテン、金網でガッチリとガードしてあって入り口の門は閉まって鍵が掛かっとる。多分ここも無人で動きよるとやろう。

 そんなら川の向こうに渡って排水口ば見てみろう。


夜明発電所

「ちっごがわ」の水は夜明ダムから落ちたところで直角に近く左ターンする。

 そしてすぐにヘアピンカーブしとるケン、直線にすると200mぐらいのとこば曲がりくねって800mも流れとることになる。

 国道211号線はその上ば「袋野大橋」と「関大橋」で股越していっとる。ここらの複雑さは筆舌にはつくしがたかケン、地図でよう見ちゃんしゃい。

 島のごと突き出した部落は「関」ていう。曲がりくねっとっても県境は川の真ん中にあるケン、右岸の突き出したところは大分県日田市で、左岸は福岡県うきは市ていうことになる。

右・夜明発電所の水瓶(サージタンク)
右下・発電所は玄関ば閉めてなんの愛想もなか。

下の下・対岸から川越しにみた夜明発電所の全景。

 関の部落ば通り抜けて国道211号線に出る。橋ばふたつ渡って「保木」の信号から右折してナシ畑の中ば通ってやっと発電所の対岸に出ることがてけた。

 川に向こうて発電した使用済みの水が吐き出されとった。

 ただそれだけの景色バッテン、町田第一に始まって、何回も繰り返し再利用されてきた水が、ここで役目ば終えて本来の水に変わる、そこばチャーンと見届けておきたかった。

 岸辺には珍しか
猩々草(しょうじょうそう)が咲いとった。
役目ば終え、ほっとして使用済みの水が川に戻っていく。

 発電所の角で県境は川の真ん中から直角に右曲がりして三日月山から大山峠のほうへ上っていく。

 だからこっから先、川の境界線は相変わらず真ん中バッテン、県境ではなくなり、町境になって右岸が杷木町になる。

 発電所のわずか100m上流に久大本線の鉄橋が架かっとる。
 その下には沈み橋があって、左岸には「カリブの海賊・浮羽店」がある。国道でよう広告ば見るラブホテルたい。

「ホテルにおる間にクサ、川の水が増えて沈み橋の沈んだら帰られんめぇもん」
「バァカ。出入り口は川のほうだけじゃなか。国道のほうにもあるクサ」

 ナシが白か花ばつけとる上ば久大本線の赤っかディーゼルが渡っていった。

上の上・「ちっごがわ」に架かる「JR久大本線鉄道橋」 川の真ん中が県境やケン、対岸が福岡県うきは市で、こっち側が大分県日田市。
上・沈み橋の向こうにラブホテル「カリブの海賊・浮羽店」が見える。
下・昭和7年にでけたJR久大本線鉄道橋は、橋の長さ 188.8mのプレートガータ ・ワーレントラスで、河口から62kmにある。

 今回は比較的軽かった。それでもクソ暑かさなかに九重まで2回も忘れもんば取材にいったり、苦労した部分もある。ドキュメント筑後川ば始めた動機は、川と橋と汽車やったとバッテン、原発事故の影響もあって、ここんとこ発電の話ばっかりになってしもうた。しかし「ちっごがわ」の水力発電も今回で終わり、次回からはいよいよ先人がこの偉大な暴れ川と格闘してきた「五大庄屋」「四大井堰」の物語に挑戦していきます。
                               取材期間 2009.10.03〜2011.08.04

         前回へ戻ります。  次回のは、 本流2回目「袋野・大石堰」物語です。

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