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其の七

うきは市吉井町の筑後川流域から耳納連山と遠くに望む背振山。


 阿蘇・くじゅうの源流から「川と橋と人の暮らし」ば見ながら下ってきた駅長の筑後川探訪、ここまでは急流やったバッテン、ここからは筑後平野に入ったケン、「のんびりといきまっしょう」と思うて、調べてみたらとんでもなか。
 むかしの百姓さん達の「水との戦い」ば知ったら、のんびりなんていうとられんごとなった。

 
もともと筑後川は、河川名がいまの「筑後川」となるまで、場所によって「千歳川・筑間川・一夜川・千年川・上座川」て勝手勝手に呼ばれとった。
 「バラバラやったら不都合やケン、名前ば統一してくれんの」て、久留米藩が幕府に願いば出したとやが、丁度、島原の乱が起こったもんやケン、幕府もその段じゃのうて、やっと決まったとが寛永13年(1636)のことやった。

 なし「一夜川」て呼んだかていうと、洪水になったら、たったの一晩でクサ、川の流れまで変わってしまうごとメチャクチャになってしもうたけんタイ。

 そらそうやろう、急な傾斜で流れてきた水が平野に入ってゆたぁーっとなるところに、後の水がどんどん押し寄せて来るちゃケン、とうていはききらんごとなるとが当たり前。いまのバンコクといっしょタイ。

 残っとる氾濫の記録でいちばん古かとが大同元年(806)、河川の整備が本格的に行われるごとなったとが明治22年(1889)やケン、その間1000年の間に、なんと183回もの大水害が発生しとる。これは先にいうたごと、上流部が急勾配で下流は勾配が緩かていう地形が災いしとる。

 いま、チツゴガワの流域は、この川の水のお陰で肥沃な穀倉地帯バッテン、ここに至るまでには、ご先祖さんたちの水と戦い続けた厳しか歴史がある。それば知ったらのんびりしてはおられんていう訳タイ。

       縄文人が住んだていう吉野ヶ里遺跡は、昭和61年(1986)に発掘されてもう25年になる。

 吉野ヶ里やら筑後川流域に人が住むごとなったとは縄文時代の末期。縄文時代て一口にいうても、1万6千年前から3千年前て、とつけむなか幅がある。その末期やケン、約3千年ぐらい前て思うちゃんしゃい。

 約1万年前、筑紫平野の大半はまぁだ海やったゲナ。筑後川河口も、いまよりまあだ背振山の麓に近く、いまの吉野ヶ里から南に1キロか2キロあたりやったていわれとる。

 ここに大規模な環濠集落が誕生して、弥生時代中期まで約700年ものあいだ栄えた。南向きで日当たりはよかし、海は近うて魚にゃ困らん。いまの不動産屋にいわせたら「駅から3分・住環境良好」やった。

 そのうちに海が南西へだんだん下がっていき、川で運ばれてきた土が堆積して、筑紫平野の形がでけていったとタイ。2500年ぐらい前には、善導寺町あたりまで陸地になっとったらしか。

 有明海では干拓も始まって、筑後川下流では条里制による整然とした区画整理もされだした。豊臣秀吉が全国統一ぱ果たした頃には、筑後川の中州開拓が始まって道海島・浮島・大野島などに新しか田圃が広がっていった。

 ちっごがわ流域の開発にとつて、治水・利水は欠かされん。江戸時代初期から久留米藩も「こら、本腰入れてせなならんバイ」いうことで手ばつけとった。

 関ヶ原のあと筑後の国主として慶長6年(1601)に入部した田中吉政は、早々に筑後川の改修に取り組んだし、二代田中忠政のあと久留米21万石の藩主になった
有馬豊氏(とようじ)も、引き続き河川整備には力ば入れた。
 なしか。川ば整備して新田開発ば積極的に進めれば、米の収穫が増えて、年貢の収入が多くなるけんタイ。

 筑後川ではこの時期 久留米藩の経営戦略( ? )によって「筑後川四堰」て呼ばれる固定堰(地図参照)が次々に建設された。でけた順番から
山田堰・大石堰・袋野堰・恵利堰(床島堰)ていう。
 左岸ば潤すためにでけたとが袋野堰と大石堰。右岸に水ば引くためが山田堰と恵利堰やった。

 最初に手がけられたとは山田堰バッテン、駅長のチッゴガワは上流から順にきよるケン、1番上流にでけた袋野堰から訪ねていくことにする。

 左上・袋野堰のあったあたり。左手が上流で、右手の下流500mに夜明ダムがてけたケン、井堰は夜明ダムの底に水没してしもうた。対岸に見えとるとがいまの袋野取水塔。

左・これがいまの取水口。
 300年前に村人達が苦労して掘り抜いた岩盤の水路はいまでもそのまま使われとる。







 下左・断崖の上の袋野集落。この下をトンネル水路が走っとる。
下右・同じく袋野集落。水神さんが祀られとる下に水路がある。赤いガーター橋は蛇行する峡谷に架かる「関大橋」

 筑後にはいまも地名として「島」がいっぱい残る。こげな田圃ばっかしの平野に、なんで島かと思うバッテン、当時開墾して水路で囲まれた範囲ば「島」ていうたとやろう。

 田植えでまわりの田圃に水ば張ったら文字通り集落は島になってしまう。

 シマには縄張りていう意味もあって、やくざの縄張りば「シマ」ていうともこっから来とるとやろう。

 チッゴガワの下流からいくと、城島・向島・柳島・武島・出島・侍島・荘島・中島・町島・金島・千代島・勿体島・塚島・青木島・江島・志塚島・八丁島・萩島・尾島・北島・古島・津島・田島・高島……これ全部流域にある陸地の
田圃のくせに島がつく地名。
。 
 いまの地図で見て一目でこれは島て分かるとは大野島だけ。

 しかし、浮島も道海島もちっごんもんが開拓したケン、肥前(佐賀県)に食い込んどるバッテン、筑前(福岡県)として認められとる


(地図参照・赤線はいまの県境)

 海岸の干拓地では「島」ていわずに「搦(からみ)」または「開(ひらき)」ていうた。
 搦ていうとは、干拓ばするときに海ば仕切る堤防のこと。遠浅に杭ば打ち、その間に竹の枝やら横木ば並べて石ば積んどったら、潮の干満で横木に泥が「からみ」ついて自然に土手がてける効率のよかやり方。

 年数さえ経てば「からまった」泥土は次第に積み重なって高まり、そこば締め切ればよかった。
 こうしてでけた干拓地の地名には「●●搦」ていう名がつけられとる。佐賀市東与賀町は干拓地やケン、西搦(にしがらみ) 東搦(ひがしがらみ) 戊申搦(ぼしんがらみ) 二番搦(にばんからみ)など「搦」ばっかし。

 地名ついでに
「開(ひらき)」いうとは新しく開墾した土地。「免(めん)」いうとはむかし免税されとった土地。

 壱岐は港の開いとるところは
「浦」(例・郷ノ浦)で、あとはどっこもこっこも「触(ふれ)」ばっかしバッテン、これは「フレ」が韓国語の部落ていう説と、百姓頭が「触れて回れる広さの」行政区画ていう説とがある(例・片原触・木村触・表谷触など・・)。

 だんだん話はチッゴガワから遠ざかりよる。駅長の話はほっとけばこげんなりますと。戻しまっしょう。

 「大石用水(あとで出てくる)が庄屋の手で完成したっちゃケン、袋野の切り貫き工事も出来んはずはなか」て、寛文12年(1672)3月 久留米藩に工事願いば出して許可ば得た。藩にしてみれば自分たちがやらないかんことば、庄屋がやってくれるいうとやケン、渡りに船タイ。

 その計画は、夜明にある獺の瀬(うそのせ)いうとこに取水口ば設けて用水ば引くはずやったとバッテン、この地点は筑後川の夜明峡谷ていわれる地点タイ。いまでもそうやが、断崖が川岸に迫っとって、しかも川が大きゅう蛇行しとる。
 地図見てもらえば分かるごと、川に沿うての水路建設やったら、工事は楽バッテン、水路が長うなる。

 このため重栄・重仍父子はもっと上流の袋野から、全長1.3キロものトンネルば掘って出口の「地蔵岩」まで、あえて難工事に挑戦し、そして見事に完成させた。
 寛文13年(1673)春のことやった。工事期間はたつたの6ヶ月。村人たちが総出で結束したおかげやった。

 しかし、用水路は完成したバッテン、いざ水ば通してみたら、期待したほどの水量が確保できんことが分かった。
 「そんなら取水口の水位ば嵩上げせないかんタイ」

 今度は堰ば作ることにした。工事費はもう底ついてしもうとったバッテン「もうそげなことはいうとられん」父親の重栄は「家屋敷、それに田代家の財産ば全部担保にして金ば借りろう」

 藩が保証して金の工面はついたもんの、誰が急流の中に飛び込んで杭ば打つか。農民たちは尻込みして「オレがやろう」なんていう勇気のあるもんなおらんやった。

 夜明けダムから落とされた水は、大きゅう左にカーブして関大橋(右)の下ばくぐり、今度は右に360度近く回って袋野大橋(左)の下から、うきは市浮羽町三春の平野に出る。

 
下流の山田堰・大石堰の完成に刺激ば受けたとが浮羽郡28村の大庄屋やった田代弥三左衛門重栄(しげひで)タイ。
 この地区(山春・大石・隈上)は川の水はすぐ傍ばどんどん流れよるとに、所によって村の土地より10mも下ば流れよるもんやケン、稲作には役たたず。農民は歯ぎしりして悔しがっとるばかりで、なぁもでけんでおった。

 弥三左衛門は
長男の重仍(しげより)と考えて、村の土地よりもっと標高が高っか上流の袋野から、水路ば通し水田ば作ろうて考えた。

 大庄屋田代父子の自己犠牲によってでけ上がった袋野用水は、なんと、現在の浮羽町山北・三春・高見地区の大部分と古川町の一部ば灌漑し、新田が77町歩開発され、古か田畑の136町歩に水が供給されたていう。
 この用水は農民たちに大きな利益ばもたらし、それまで多かった年貢納めきらん首つりやら、生活苦による一家心中、夜逃げなどがいっさい無うなったていう。

 それ以上にほくそ笑んだとは久留米藩タイ。なぁーもせんで、年貢米が増えたとやもん。ホクホクたい。むかしから博多のもんは、久留米商人は「こすか」ていうたバッテン、藩自らがこげな「こすか」手ば使うてきとる。

左上・駅長が探索しよったら田榮神社の下でちょつと顔ば出しとる水路ば見つけた。
左下・せいぜい照明は菜種油の灯火ひとつ、薄暗い中ば鑿と槌だけ、強固な岩盤ばほがして、よう1 キロ以上ものトンネルば掘ったもんタイ。
右上・袋野の断崖、田榮神社の下ば通り抜けて、地上に出て来た袋野用水。
右中・ここから左にカーブして「袋野大橋」の下ばくぐり山北の集落、三春地区へと水路は延びていく。
左下・水路が地上に出た地点が「地蔵岩」

上・断崖の大岩ばくり抜き獺の瀬」ば眼下に「田栄神社」がある。この真下ば水路が通っとる。
右・あとででけた水路改修の記念碑。


  大庄屋田代弥三左衛門親子ば祀る田栄神社
 農民たちは、用水路ば完成させた大庄屋の恩ば忘れんごと、大庄屋親子ば大明神として祀ることにした。獺の瀬ば見下ろす岸壁に建つ「田榮神社」がそれ。まさに田ば栄えさせたお宮さんタイ。

 「田榮神社」には、今も当時使われた粗末な鶴嘴(つるはし)が錆ついたまま保存されとるていうケン、拝殿ば覗いて見たバッテン、見つけきらんやった。
上の航空写真は、夜明峡谷と袋野用水の上流部分。赤は農民が掘ったトンネル水路。黄色の点線は川の真ん中にある県境。

 右下の上流・日田から夜明ダムば越した筑後川の流れは、ここで信じられんような蛇行ば見せる。
 
人呼んで夜明峡谷。何の取り柄もなか景色やケン、観光的には価値がなかて見捨てられとる感じ。

 田代親子が掘った隧道と水路(赤線)がどれだけの荒れ地ば生き返らせたか、地図で見ると一目で分かる。



 
右下部分の詳細は本文最後の空撮写真でどうぞ。


「ドボーン」急に水音がした。振り向いたみんなの目に庄屋の子の重仍が、命綱ばつけて杭ば抱え川に飛び込んだ姿が見えた。「ドッボーン」はその音やった。

 みんながビックリこいとる目の前で重仍は杭打ちば始めたとバッテン、流れが早かケン、一人では到底思うようにはいかん。むしろ急流に流されそうになっとる。これば見て「ドッボーン」伍作が飛び込んだ。

 「ドッボーン、ドッボーン、ドッボーン」権太も佐吉も六兵衛も飛び込んだ。何日もかかって川幅一杯に杭が打たれ、横木が巻き付けられて、川の水はせき止められた。

 取水口ば開けて通水してみたら、今度はゴウゴウと手掘りのトンネルば通り抜けた水が、台地に流れ込んでいった。

 これが袋野堰で、水路に遅れること3年の延宝4年(1676)  堰の長さ120メートル、幅110メートルの固定堰が完成した。

 これによって
465町歩が潤されたていう。1町歩いうたらほぼ1ヘクタール。1ヘクタールいうたら100m真っ角。ヤフードームいっちょが 約7ヘクタールやケン、ドーム66個分の荒れた藪や畑に水がいくことになった。

 「筑後川四堰」の内、あとの三堰は、庄屋がリーダーシップはとったもんの、久留米藩の直轄事業やったとに対し、袋野堰と袋野用水は田代父子が私財ば全部投げうって作ったもんやった。

 袋野堰はその後、昭和29年(1954)にでけた夜明ダムが、川ばせき止めたもんやケン、水没してしまい、いま当時の姿ば見ることはでけん。その代わり同じ場所に
袋野取水塔が作られとって、ダムからの取水ばしよるし、当時の水路はそのまま、もしくは改修されていまでも立派に役目ば果たしとる。
 駅長が物好きに探し探し見に行ったときもちゃんと水は流れとった。

 袋野大橋から下流へ約4km、昭和4年から81年間働いて、やっと今年(2011)6月に架け替えられた昭和橋がある。その橋ば南へ渡って300mで左折し、川の土手ば上流に向かえば、すぐ左手に大石堰が見えてくる。

 土手が右カーブしたところに「水神社」いうとがあって「五庄屋遺跡」て書かれた大きか看板が目立つ。この辺りの田は、袋野用水の南端が近くまで届いとるケン、いまは潤された水田が広がる。

 ここは旧浮羽郡吉井町。筑後川挟んだ北岸は志波柿で有名な旧朝倉郡杷木町。いまは左岸が「うきは市」で、右岸は「朝倉市杷木」
 平成の大合併はよかバッテン、年寄りの頭にはしっかり旧の地名がこびりついとるケン、切り替えがややこしか。

 白壁の町で売り出しとる吉井町で、歴史上の人物ていうたら、たいがいの人は「五人庄屋」ていうやろう。「五人庄屋」とは、むかしこのあたり、筑後川南岸の村々ば仕切っとった庄屋さんたちのこと。

 計画書はようでけとる。上流の庄屋たちも工事ば認めた。久留米藩ではこの用水路建造ば「藩の直轄事業」にすることにした。郡奉行(こおりぶぎょう)の高村権内(たかむらごんない)ば総責任者にして、村々から集められた人夫は500人。普請奉行の丹羽頼母(にわたのも)指揮のもと早速工事が始められた。

 その初日、現場のいちばん目立つところに、なんと「磔柱(はりつけばしら)」が5本建てられた。集められた村人達が動揺しだした。
「あら、なんの ? 」「だれか処刑さるっとの ? 」

 奉行の高村権内が大声で叫んだ「みんなの庄屋たちは、この工事が出来損のうたら、命ば差し出すて藩にも上流の庄屋にも約束ばしとる。取水口ば開けて水が流れんやったら、五庄屋ば磔にする」

 あぽーって、磔柱ば見上げとった村人たち、一気に緊張が走った。
「庄屋さんば殺させる訳にはいかんじゃんの」

 村人達の目の色が変わった。水辺に生えた雑木ば伐り、障害物の岩ば取り除く。ユンボなんて機械のなか時代、荒れ地に張られた目印の縄だけば頼りに、幅2間(3.6m)の溝が人力で掘られていった。掘った溝の底には水が染み込まんごと石ば詰めて粘土で固める。土ば掘るもん、泥ば運ぶもん、ともに「庄屋さんば殺させるな」

 工事は村人達が500人づつ、入れ替わり立ち替わって必死に働いた。大石水道と長野水道の工事が同時に急ピッチで進行した。

「さあ、水門ばあけるぞ」
 丹羽頼母が大石水門の上に立って怒鳴った。五人の庄屋が息をのんで見守る。

「ゴォーッ ドドォーッ」水門から取り込まれた水が激しか勢で掘ったばかりの水路ば走り出した。
 気むずかしか普請奉行の丹羽頼母も、思わず飛び上がって手ば叩いた。郡奉行の高村権内も「これで、飢え死にやら夜逃げするもんもなくなるやろう」てニコニコ顔しとる。

 博多弁の男も「よかった。これであんたたちの努力も報いられる」いうて五庄屋と握手ば繰り返しよった。バッテン、いちばん喜んだとは村人たちタイ。鋤や鍬ば振り回して踊り出しとった。

 大石から長野まで3キロ、長野から角間(かくま)まで1キロ、角間で分岐した水路は、広か台地に網の目のごと這うて、最終的には総延長15キロにおよぶ灌漑のきっかけがここに完成した瞬間やった。その基礎部分の工事期間はわずかに60日。駆り出された村人は延べ3万人やったていう。

 その後、工事は4期にわたり行われた。導水成功で近くの村からも「成功したとならウチも欲しか」て云うてきたけんタイ。

 寛文4年(1664)に77町歩やった灌漑面積は、貞亨4年(1687)には1425町歩に増えたていう。

 工事の成功で、あの五庄屋は地域の恩人になり神様になってしもうた。いま大石堰のすぐ脇にある「水神社」と、水路で3キロくだった「長野神社」に手厚く祀られとんなる。

上から五庄屋の功績ば称えて明治15年に創建された水神社
拝殿の奥の祠には可愛いらしか水神さん ?
境内に立つ「三堰碑」ここでいう三堰とは袋野堰・大石堰・長野堰のことばいう。


 大石堰の物語、こう書いてくると、なんか五庄屋と農民の美談に見えるバッテン、駅長がウラば勘ぐってみると、これは久留米藩が巧妙に仕組んだ農業経営戦略(領内での米の収穫高ば飛躍的に伸ばす)に思われてならん。

 みごと欺されて、悩み抜いた上に馬車馬のごとこきつかわれ、利用されたとは五庄屋と村人やったてしか考えられん。

 話は現代に飛ぶバッテン、福岡市が地下鉄七隈線ば計画したとき、専門のコンサルタント会社に沿線の需要調査ばさせた。

 「完成したら日に8万人の利用が見込まれる」ていう報告ばもとに、建設ば決定したとバッテン、結果は、いま1日の利用者は当初のもくろみの半分にもみたん4万人そこそこでウロウロしとる。そして、だぁーれも責任とったもんはおらん。

 そげないい加減なコンサルばしたとなら「おれたちの税金で払いよる赤字ばその会社に弁償させろ」ていいたかバッテン、どうも、初めから市は七隈線ば作りたかばっかりで、それに都合の良かデータばコンサルにださせたり、住民運動ば起こさせたとじゃなかかて思われる。

 大石堰の話、五庄屋に出入りした得体の知れん博多弁の男ば、久留米藩が雇うたコンサルタントとしたら、どっか似とらん ?

 藩が正面に立って事ば起こせば、反対の矢面にも立たされるし、もし失敗したときは藩の信用まるつぶれ。下手すりゃ百姓一揆になりかねん。

 コンサル雇うて地域住民のこころば掴かみ、上手に焚きつけて、自主事業にさせとけば、やり損のうたら庄屋ば磔にすればよかし、成功すれば一躍石高はあがって利益ば一手に受けるとは久留米藩。やらずぶったくりの濡れ手に粟ちゃこのことタイ。

 住民主導なんていいながら、このずるがしこさは、昔から行政の常套手段やったことば、まさに証明する話に思えてならん。駅長の勘ぐり過ぎ ?

 ともあれ、わずか330年前まで不毛の台地やったとこば、日本有数の米どころにかえた大石堰。南北の新川には清水が音をたてて流れ、新川から枝分かれした小川は、毛細血管のごと縦横に広がって、水のいきとどいた田圃には、今年も稲穂がこうべば垂れとった。

上・左岸下流から見た大石堰、右の流れは堰から取り入れられた大石用水。
下・取り入れ口から見下ろした大石用水。ここから長野水神社まで約3kmほど本流の南400mほどを潤していく。

 大石堰から取水された大石用水は、水路ば通って約3キロ流れ、長野でいったん隈ノ上川に流れ込むごとなっとった。

 以前は隈ノ上川にも長野堰ば作って、ここから再び用水路ば通して西の村々ば流れるごと設計されとった。バッテン、この構造では隈ノ上川の状態次第で水流が左右されてしまい、安定した水量が確保でけん。

 そやケン、昭和28年の大水害後、隈ノ上川の下ばサイフォンの原理ば利用して水路がくぐるていう「水路の立体交差」が考えられた。長野水神社は水が立体交叉する丁度その上に祀られとる。

右・手前が隈ノ上川。奥から流れてきた大石用水はこの下ばくぐり抜ける。

左・はじめの大石堰は山田堰(次回に書く)と同様の「斜め堰」やったバッテン、いまの大石堰は流れに直角のコンクリート堰。

 これは昭和28年の筑後川大水害で破壊された古い堰ば新らしゅう作り替えたけんタイ。

 今回の主役はこの五人の庄屋。
 先に名前ばあげとこう。
 高田村の山下
助左衛門と日頃から仲の良かった夏梅村の栗林次兵衛。清宗村の本松平右衛門に今竹村の重冨平左衛門。菅村の山下作之丞。彼はまあだ弱冠32歳やった。

 むかしからこの地方は、筑後川の水面が低っかもんやケン、人が住んどるとこは台地のごとなっとって、目の前に水はいっくらでも流れとるとい、水の便が悪かった。
 そやケン農民はわずかばかりの湿地ば耕し、食うや食わずの生活に喘いどったていう。

 寛文(1660〜)年間のはじめ頃のこと。
 この年は雨らしい雨が降らず、井戸も枯れて人々は飲み水にも不自由するありさまやった。

 二人の農夫が呟いとった。
 「ひどかもんバイ。これじゃ今年の米は駄目だぁ」高田村の百姓源太と徳二やった。
 「雨は降らんし収穫がなかもんの。親子して首ば括るしかなかじゃんの」
 「きのうも隣りの吾助親子がおらんごとなった。夜逃げじゃろう」
 「向こうの村では飢え死にする者も出ちょるげな」
 「あん水さえ使えりゃなぁ」

 こげな村人のありさまに心痛めた五人の庄屋が集まって知恵ば搾ったバッテン、いまさらよか智恵は出ん。
 「あの大川の水さえ使えればなあ」

 そこいひとりの商人風の男がふらりと現れ
 「上流から水ば引いてくればよかですタイ」
 ・・・なしかこの男博多弁ば使う。

 「そんな無茶な。上流にはいくつもほかの村がありますもんの。反対されるに決まっとる」
 「バッテン、そげな呑気なことば云うとる場合じゃなかでっしょうもん」浪人は素っ気なく云うて出て行った。

 庄屋の議論は空回りするばかりで結論は出ず物別れ。

 翌日「夏梅村の喜助いうとが、親子三人の身体ばひもで結び合わせて、川に飛び込み死んだ」て、庄屋次兵衞のとこに博多弁の男が教えに来た。

 「親子心中ですバイ。こげなことが続いたらどうなりますかいな」男はつっけんどんに言い置いて出て行った。

 三日後にまた五人が集まっとつたら、例の男がふらっと入って来て
 「昨日見てきましたバッテン、上の大石村からここ高田村までやったら、川の勾配がけっこうなもんやケン、あそこから水ば取れば、水ば高田の田に上げられるっちゃなかですな」
 云うしこ云うて男はまた、ふらっと出て行った。

 そのことば聞いた五人の庄屋たち、「そんなら明日、弁当持ちで現地ば見に行ってみろう」ていうことにした。

 しかし、見てきても大変な事業ということが分かっただけで、結論は出んやった。

 翌日、また男が、いちばん若い庄屋の作之丞の家に来て、「あんた達ぁ、なんばグスグスしよんしゃると。なんならあたしが加勢しますバイ。なんでもやってみらな分からんでっしょうもん」て、いうてぷいといってしもうた。

 その日ば境に、五人の腹が固まって、庄屋たちの工事計画書作りが始まった。

 流石に若っか作之丞、自分とこの小作人ば使うて、距離ば計ったり、土の検査ばしたりした。

 あの不思議な男も時々来ては、あれこれと助言ばしていった。1ヶ月近うかってやっと計画書ができる頃になったら、どっから聞いたとか、隣の村からも「かてちくれんの」ていうてきた。

 五庄屋から相談ば受けた大庄屋の田代又左衛門は「そらあ、大勢の庄屋が一致結束したほうがよか」ていうもんやケン、結局、近隣13人の庄屋が計画に参加することになった。

 計画書にみんなで判ば押して、作之丞が作った設計図ば添えて久留米藩の郡奉行に持って行った。

 この計画が公になると、案の定、上流の庄屋がだまっちゃおらん。
 「もし堰ば作って大水が出たら、まともに被害ば受けるとは俺たちじゃんの」て反対してきた。

 五人の庄屋は連名で、反対する庄屋に誓約書ば書いた。
 「工事ばして万一そげんことが起こったら、五人の命は差し上げまっしょう」 血判まで押してそこまでいわれたら、上流の庄屋も引き下がるしかなかった。

水の立体交差点
五庄屋祀る長野水神社

上・昭和29年に改築された後の大石堰全景。下・大石堰の左岸にある水神社と大石用水路の取り入れ口。
  ともに上流にむかって撮影。

上・水路を流れ下る水。左・取り入れ口から飛び出す水
五庄屋の家紋が入った
長野水神社の手水鉢

 五角形でそれぞれの面に五庄屋の家紋が彫られ金箔加工がされとる。もったいのうして手が洗いにくかった。
左上から横に山下家・栗林家・本松家
重冨家・猪山家の家紋

長野水神社の彫りもん

下・欄間の龍は間違いなしに「龍」やが、柱の彫りもんは田舎やケン、蹄のある龍 ?  馬か ?

左・隈ノ上川ばくぐり抜け、長野水神社の西へでた大石用水は、筑後川本流に添うようにして、ここから長野用水て名ば変え、さらに800mほどくだって原鶴温泉の南で三方向に分かれる。そこば「角間の天秤」ていう。
左下・長野水神社の参道は広うて堂々としとる。
下・歴史の古さがうかがえる狛犬ば従えた、大きな拝殿の奥に本殿があって、五庄屋はそこに祀られとった。
神社は北向きで、拝殿に向かって左が隈ノ上川になる。

筑後川長野水神社と角間天秤の空撮写真・GoogleMapを加工

歴史が決めた
絶妙の分配

 長野のサイフォンから出た水流は下流800m、原鶴温泉の南にある分水路で3つに分かれる。ここば地元の人たちは「角間の天秤」て呼ぶ。角間いうとはこのへんの名前。天秤は昔の秤(はかり)のこと 。長野用水がここで「計ったごと」分けられるけんタイ。

 ちょっと見ると、数個の石ば無造作に置いとるだけの単純な構造バッテン、この形にたどりつくためには、300年以上にわたって田ば作り続けたこの地方の農民たちの工夫と経験が作用しとるに違いなか。
 各水路の幅や角度が「どっからも文句のでんごと」絶妙に調節されとるとやろう。

 南に向かう水路が
南新川て呼ばれ、吉井の町中までいって、また毛細血管のように枝分かれする。この水が白壁の町並みで名高い吉井の発展ば支えてきた。

 北に向くとが
北新川、筑後川の本流に沿うて吉井町千年から田主丸町まで、枝分かればくりかえしながら伸びていく。

 ここで分けられた水は、南北合わせて約2000ヘクタールの田は潤してきたていう。

角間の天秤
かくまのてんびん

左・真っ直ぐに奥へ向かうとが南新川で、吉井の町中へ。右へ分かれとうとが、吉井千年から田主丸へむかう北新川。
下・南新川の方から見た角間の天秤。当初からすると新たな水門が設けられたりして、水の分け方も微妙・複雑になっとる。

五庄屋さんなあ もう神様になっとんなるとやケン
いたらん世話バッテン、吉井の町中ば探し回って
山下助左衛門さんの墓ば見つけて、チャーンとお参りして来た
手入れの行き届いた墓所にはコスモスが咲き乱れとった

 今回は一挙に「五庄屋」と「四大井堰」ば片づけようて張り切っとったとバッテン、筑後川はやっばあ簡単にはいかん。半分しかでけんやった。次回は「四大井堰」のうちの「山田堰」と「恵利堰」ばいっしょにしたかとバッテン、また次から次に新しか発見のあって、どうなることやら。ま、気長に行こうやなかね。付き合うちゃんしゃい。
                                 取材期間 2011.10.03〜2011.10.18

       前回へ戻ります。    まだまだ半ばの筑後川。次回のは、 本流3回目「山田堰」です。

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