このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
![]() |
其の七 |
![]() うきは市吉井町の筑後川流域から耳納連山と遠くに望む背振山。 |
|
![]() ![]() 縄文人が住んだていう吉野ヶ里遺跡は、昭和61年(1986)に発掘されてもう25年になる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ちっごがわ流域の開発にとつて、治水・利水は欠かされん。江戸時代初期から久留米藩も「こら、本腰入れてせなならんバイ」いうことで手ばつけとった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 左上・袋野堰のあったあたり。左手が上流で、右手の下流500mに夜明ダムがてけたケン、井堰は夜明ダムの底に水没してしもうた。対岸に見えとるとがいまの袋野取水塔。 ![]() ![]() 筑後にはいまも地名として「島」がいっぱい残る。こげな田圃ばっかしの平野に、なんで島かと思うバッテン、当時開墾して水路で囲まれた範囲ば「島」ていうたとやろう。 海岸の干拓地では「島」ていわずに「搦(からみ)」または「開(ひらき)」ていうた。 「大石用水(あとで出てくる)が庄屋の手で完成したっちゃケン、袋野の切り貫き工事も出来んはずはなか」て、寛文12年(1672)3月 久留米藩に工事願いば出して許可ば得た。藩にしてみれば自分たちがやらないかんことば、庄屋がやってくれるいうとやケン、渡りに船タイ。 夜明けダムから落とされた水は、大きゅう左にカーブして関大橋(右)の下ばくぐり、今度は右に360度近く回って袋野大橋(左)の下から、うきは市浮羽町三春の平野に出る。 下流の山田堰・大石堰の完成に刺激ば受けたとが浮羽郡28村の大庄屋やった田代弥三左衛門重栄(しげひで)タイ。 この地区(山春・大石・隈上)は川の水はすぐ傍ばどんどん流れよるとに、所によって村の土地より10mも下ば流れよるもんやケン、稲作には役たたず。農民は歯ぎしりして悔しがっとるばかりで、なぁもでけんでおった。 弥三左衛門は長男の重仍(しげより)と考えて、村の土地よりもっと標高が高っか上流の袋野から、水路ば通し水田ば作ろうて考えた。 大庄屋田代父子の自己犠牲によってでけ上がった袋野用水は、なんと、現在の浮羽町山北・三春・高見地区の大部分と古川町の一部ば灌漑し、新田が77町歩開発され、古か田畑の136町歩に水が供給されたていう。 左上・駅長が探索しよったら田榮神社の下でちょつと顔ば出しとる水路ば見つけた。 上・断崖の大岩ばくり抜き「獺の瀬」ば眼下に「田栄神社」がある。この真下ば水路が通っとる。 ![]() 大庄屋田代弥三左衛門親子ば祀る田栄神社 農民たちは、用水路ば完成させた大庄屋の恩ば忘れんごと、大庄屋親子ば大明神として祀ることにした。獺の瀬ば見下ろす岸壁に建つ「田榮神社」がそれ。まさに田ば栄えさせたお宮さんタイ。 「田榮神社」には、今も当時使われた粗末な鶴嘴(つるはし)が錆ついたまま保存されとるていうケン、拝殿ば覗いて見たバッテン、見つけきらんやった。 上の航空写真は、夜明峡谷と袋野用水の上流部分。赤は農民が掘ったトンネル水路。黄色の点線は川の真ん中にある県境。 右下の上流・日田から夜明ダムば越した筑後川の流れは、ここで信じられんような蛇行ば見せる。 「ドボーン」急に水音がした。振り向いたみんなの目に庄屋の子の重仍が、命綱ばつけて杭ば抱え川に飛び込んだ姿が見えた。「ドッボーン」はその音やった。 みんながビックリこいとる目の前で重仍は杭打ちば始めたとバッテン、流れが早かケン、一人では到底思うようにはいかん。むしろ急流に流されそうになっとる。これば見て「ドッボーン」伍作が飛び込んだ。 「ドッボーン、ドッボーン、ドッボーン」権太も佐吉も六兵衛も飛び込んだ。何日もかかって川幅一杯に杭が打たれ、横木が巻き付けられて、川の水はせき止められた。 取水口ば開けて通水してみたら、今度はゴウゴウと手掘りのトンネルば通り抜けた水が、台地に流れ込んでいった。 これが袋野堰で、水路に遅れること3年の延宝4年(1676) 堰の長さ120メートル、幅110メートルの固定堰が完成した。 これによって465町歩が潤されたていう。1町歩いうたらほぼ1ヘクタール。1ヘクタールいうたら100m真っ角。ヤフードームいっちょが 約7ヘクタールやケン、ドーム66個分の荒れた藪や畑に水がいくことになった。 「筑後川四堰」の内、あとの三堰は、庄屋がリーダーシップはとったもんの、久留米藩の直轄事業やったとに対し、袋野堰と袋野用水は田代父子が私財ば全部投げうって作ったもんやった。 袋野堰はその後、昭和29年(1954)にでけた夜明ダムが、川ばせき止めたもんやケン、水没してしまい、いま当時の姿ば見ることはでけん。その代わり同じ場所に袋野取水塔が作られとって、ダムからの取水ばしよるし、当時の水路はそのまま、もしくは改修されていまでも立派に役目ば果たしとる。 駅長が物好きに探し探し見に行ったときもちゃんと水は流れとった。 |
袋野大橋から下流へ約4km、昭和4年から81年間働いて、やっと今年(2011)6月に架け替えられた昭和橋がある。その橋ば南へ渡って300mで左折し、川の土手ば上流に向かえば、すぐ左手に大石堰が見えてくる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 計画書はようでけとる。上流の庄屋たちも工事ば認めた。久留米藩ではこの用水路建造ば「藩の直轄事業」にすることにした。郡奉行(こおりぶぎょう)の高村権内(たかむらごんない)ば総責任者にして、村々から集められた人夫は500人。普請奉行の丹羽頼母(にわたのも)指揮のもと早速工事が始められた。 ![]() 「さあ、水門ばあけるぞ」 上から五庄屋の功績ば称えて明治15年に創建された水神社
上・左岸下流から見た大石堰、右の流れは堰から取り入れられた大石用水。 大石堰から取水された大石用水は、水路ば通って約3キロ流れ、長野でいったん隈ノ上川に流れ込むごとなっとった。 左・はじめの大石堰は山田堰(次回に書く)と同様の「斜め堰」やったバッテン、いまの大石堰は流れに直角のコンクリート堰。 これは昭和28年の筑後川大水害で破壊された古い堰ば新らしゅう作り替えたけんタイ。 ![]() 今回の主役はこの五人の庄屋。 ![]() ![]() ![]() 水の立体交差点 五庄屋祀る長野水神社 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 上・昭和29年に改築された後の大石堰全景。下・大石堰の左岸にある水神社と大石用水路の取り入れ口。 上・水路を流れ下る水。左・取り入れ口から飛び出す水 五庄屋の家紋が入った 長野水神社の手水鉢 五角形でそれぞれの面に五庄屋の家紋が彫られ金箔加工がされとる。もったいのうして手が洗いにくかった。 ![]() 長野水神社の彫りもん 下・欄間の龍は間違いなしに「龍」やが、柱の彫りもんは田舎やケン、蹄のある龍 ? 馬か ? 左・隈ノ上川ばくぐり抜け、長野水神社の西へでた大石用水は、筑後川本流に添うようにして、ここから長野用水て名ば変え、さらに800mほどくだって原鶴温泉の南で三方向に分かれる。そこば「角間の天秤」ていう。 筑後川長野水神社と角間天秤の空撮写真・GoogleMapを加工 歴史が決めた 絶妙の分配 ![]() ![]() ![]() 長野のサイフォンから出た水流は下流800m、原鶴温泉の南にある分水路で3つに分かれる。ここば地元の人たちは「角間の天秤」て呼ぶ。角間いうとはこのへんの名前。天秤は昔の秤(はかり)のこと 。長野用水がここで「計ったごと」分けられるけんタイ。 角間の天秤 かくまのてんびん 左・真っ直ぐに奥へ向かうとが南新川で、吉井の町中へ。右へ分かれとうとが、吉井千年から田主丸へむかう北新川。 ![]() 五庄屋さんなあ もう神様になっとんなるとやケン いたらん世話バッテン、吉井の町中ば探し回って 山下助左衛門さんの墓ば見つけて、チャーンとお参りして来た 手入れの行き届いた墓所にはコスモスが咲き乱れとった |
今回は一挙に「五庄屋」と「四大井堰」ば片づけようて張り切っとったとバッテン、筑後川はやっばあ簡単にはいかん。半分しかでけんやった。次回は「四大井堰」のうちの「山田堰」と「恵利堰」ばいっしょにしたかとバッテン、また次から次に新しか発見のあって、どうなることやら。ま、気長に行こうやなかね。付き合うちゃんしゃい。 |
前回へ戻ります。
まだまだ半ばの筑後川。次回の |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |