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其の八

こんもりとした木立の中にある恵蘇八幡宮と、筑後川の流れば石畳で斜めにせき止めた今回のテーマ「山田堰」


 筑後川流域の各藩(久留米藩・福岡藩)では、17世紀後半から18世紀にかけて、新田開発ば積極的にすすめた。

 どうして ?  米麦の増産ばして年貢の収穫ば高めようとしたとタイ。
 そやケン、筑後川ではこの時期に
「筑後川四大井堰」て呼ばれる固定堰が次々に建設された。完成した順番からいうと山田堰・大石堰・袋野堰・恵利堰(床島堰)の順になる。

 駅長の超大作ドキュメント「筑後川」は上流から下って来よるケン、前回袋野堰・大石堰ば取りあげ、今回が
山田堰の順番になる。

 添付の地図ば見て貰えば分かるごと、左岸ば潤したとが袋野堰・大石堰で、右岸に水ば供給して流域の民百姓ば救うたとが山田堰と恵利堰いうことになる。
 
ここに至るまでには、ご先祖さんたちの水と戦い続けた厳しか歴史がある。それば知ったらちっごがわば見る目の変わるやろう。

 赤い線が井関の用水運河。用水からさらに毛細血管のごと水路が分かれ、周辺の田畑に恵みの水ば配っとる。

 山田堰の場所はどこか ? 大石堰の下流約7km、ちっごがわは蛇行しとるケン、直線距離にすれば約5kmかな。

 杷木ICば降りて国道386号線ば西へ、原鶴温泉ば通り越してくると、右に恵蘇八幡宮がある。女帝やった37代の斉明天皇とその息子天智天皇ば祀ったこの神社の話は後でするとして、神社の前の国道ば挟んで、すぐ反対側に水神社いうとがある。その下に広がっとるとが、チッゴガワで初めて作られた山田堰タイ。

 まず堰ば見にいってんもう。水神社から10段ばかりの石段ば下りたら、もう目の前で水が踊っとる。
 なしこの堰がでけたとか ?

 土地の高低ば測るには、村人の協力で夜間高張提灯に燈ばともし、二点間の高低差ば測ったり、水ば張った盥ば水準器として使うたり工夫も重ねた。

 こうした苦心の新堀川計画書がでけ上がり、藩庁に持って行った。
 
 それ見て福岡藩はたまがった。「ようでけとる。立派な計画タイ」庄屋と農民の願いは聞き届けられ、宝暦9年12月 福岡藩第六代藩主・黒田継高の命で福岡藩直轄事業として、取水口の切貫水門ば広げる工事が始まった。

 まず切貫水門の内径を今までの二倍に切り広げ、多量の水が流れ込むよう工夫した。また、平行して、古毛村柴田橋から下流の堀川の川幅ば広げ、堤防ば高くする工事も進めた。

 翌年9月には山田堰の高さば上げ、水量ば確保する工事にも着手、年を越して完成させた。

 田中村の北ば通る堀川に分岐点(突分・つきわけ)ば設け、ここから西南方向に新堀川ば開通させた。
 そして、念願やった新堀川の掘削工事は、5年の歳月ばかけ、明和元年に完了、やっと通水がでけるようになった。

 これにより、堀川ば水源とする水田面積は370町歩に広がった。日照り・旱魃に泣かされた村々に、希望の光が点った。

 この実績ば評価した藩は、菱野村付近の堀川に水車が架かった数年後の寛政2年(新堀川開通26年後)山田堰大改修の藩命ば義重に下した。

 堀川の水がここ田中村の北で突き当たり南北に分けられるケン「突分」

 明和元年(1764) 中村方面に通ずる新水路の完成で「潅漑面積が一躍370町歩となれり」ていうとかここ。いまではこの水路のお陰で660町歩にも美田が広がっとる。

 堀川用水が
「日本疎水百選」に選ばれとるとも当たり前タイ。

 水量調節の水門はコンクリ+鉄製にかわってはおるもんの、むかしのまま水は南北にチャンと「突き分け」られとった。

 当時のもんかどうかは分からんけど、石の水神さんが傍で見守っとんなった。





左上・堀川用水はここ「突分」で南北に分けられる。
左中・北のルートへの調整ゲート。
左下・南の新堀川へも水ば送る。
下・水路ば守っとるつもりの水神さん。

 そのきっかけはこうタイ。
寛文2年(1662)から翌3年にかけて、この地方は大旱魃に襲われた。

 もともと筑後川の中流域にある朝倉町は、今でこそ肥沃な水田地帯バッテン、かつては谷間から湧き出る小川などの水ば利用したわずかな水田があるだけで、湿地やら原野、石ころまじりの荒れ地が広がり、農民はたびたび起こる干ばつに苦しめられとった。

 筑後川の水が欲しか。

 この年も長い間雨が降らず、草まで枯れはてる大旱魃。福岡藩はこの災害ばきっかけに、堀川ば作り筑後川の水ば入れる工事ば計画、突貫工事で翌年春には堰と「堀川用水」が完成した。

 恵蘇八幡宮前の筑後川に、小さか井堰ば築き、川の流ればふさぎ止めて、樋(水ば送る仕掛)ば通して堀川に注ぐていう工事やった。

 それによって注がれた水は、古毛村から下座郡城力村まで9ヵ村ば流れ150町歩の田ば潤したていう。

 こう書けばとっけむのう簡単かごたるバッテン、実は大変な工事やった。山から石ば切り出してきて川に沈め堰ば作る、と当時に運河ば掘って行かないかん。村中総出の出歩(勤労義務)が続いた。

 ところが堀川用水に水が入るようになったら、作物が育ついうことが分かってどんどん水田の面積が増え出した。

 これぞ藩が狙うたとこやったとバッテン、地域はまたも慢性的な水不足に見舞われ、村々で水争いまで起こる始末。

 藩も改良改造ば加えて行ったバッテン追いつかん。とうとう堀川の給水能力は限界に達して、堀川用水の恩恵が行き届かんところでは、常時旱魃、年貢米も納められん厳しか状況となってしもうた。

 おまけに暴れ川ていわれたちっごがわの、度重なる水害は堀川用水の取水口ばクサ、堆砂(たいさ)で埋め、用水の便ばなおのこと悪うしてしもうた。

 そこで享保7年(1722)に取水口ば改良して、水量により自動的に開閉する水門への改造と、トンネルば掘ることによって用水供給の安定ば図った。

 これなら堀川用水も一安心と思うたとバッテン、おっとどっこい、供給対象の農地は新田開発が進んだが、その恩恵が届かん朝倉郡下大庭村などではあいからわず旱魃の被害が続いとった。

 話は変わるバッテン、下大庭村の庄屋・古賀重厚に息子の義重いうとがおった。

 享保7年、堀川の取水口ば改良する工事にも親父の重厚は村人ば率いて参加しとった。初めに造った取水口より少し上流の岩盤ばトンネル状にくり抜き、堀川とつなごうとするもんで、切貫水門て呼ばれ、難しい工事が予測されとった。

 重厚は息子が興味ば示すもんやケン、安全な作業の日は、義重ば連れて行くこともあったていう。小さかった息子は工事ば眺めるのが大好きで、測量やら作業の様子ば見ては、木切れや小石ば積んでマネしとった。

 切貫水門と山田堰は見事に完成し、堀川には豊かな水が流れるようになった。

 やがて、息子も元服、父重厚ば見習うて「農業ば発展させ、多くの人ば幸せにする庄屋になろう」て精進する毎日ば送りよった。そしてあの切貫水門工事から37年の歳月が過ぎた。

 その間さらに新田が増えたもんやケン、堀川の水はまた不足するごとなって、下流の田には水がいかんごとなってきとった。親父に代わって庄屋ば継いだ義重は、深刻な水不足の問題に悩み抜いた末に決心した。
 
「筑後川から堀川に流れ込む水量ばもっと増やそう、それしかなかじゃんの。堀川に分岐点ば作り、新堀川ば掘って、水の届かん村々にも水ば送ろう。幾つもの工事ばすることになるバッテンが、まず、現地の測量にかからないかん」

 正確な測量ばするために義重はまず、水路と土地の高低ば測量し図面ば作っていった。新堀川の位置ば決めるため木に登っては、方向ば定めよった。いつも木登りばっかりしとるもんやケン、「猿どん」て呼ばれるごとなった。

上上左・水神社の下からトンネルで水が堀川に取り込まれる。
上右・取り込まれた水は掘削された水路を通って田畑へ向かう。
上左・山田堰から西へ進む堀川の水路。左手が「道の駅あさくら」

 義重は73歳の高齢ながら、もういっぺん命ばかけてやろうと決意した。

 なんがそこまで義重ば突き動かしたか ?

 それまでの山田堰は、筑後川の対岸まで 伸びておらず、そのため堀川に流入する水の量が不安定やった。

 義重は山田堰ば川幅いっぱいに広げ、もっと大量の水ば堀川に送り込むようにせんと、みんなが平等に生活でけんて思うとったけんタイ。

 大変な工事やったバッテン、高齢ば押して采配ば振う義重のもと、工事に当たった農民たちが、とてもでけんやろうていう難工事ばついに文政8年(1825)完成させた。

 堀川はこれで一挙に500町歩もの農地に水ば送れるごとなった。

 駅長が端から端まで走り(ここギャグ)回った堀川用水は、いまでも黙って水ば運んどった。

堀川用水で導かれた水の恵みば受けて、青々とした朝倉の田圃。ちっごがわの土手の向こう耳納の山並みが霞む

 写真は上から 恵蘇八幡宮の正面にある「水神社」
 水神社からちっごがわの上流。川が石畳でせき止められとる。
 石畳の堰ば流れるちっごがわの水は美しか。 踊る水。
 下左。対岸からの山田堰。 下右・取水口へ流れ込む水。

  堀川用水
  突分(つきわけ)

 寛政10年(1798)5月24日、満足した古賀十作義重は81歳の生涯ば終えた。
 のちのち人は
古賀百工(こが ひゃっこう)て呼んでその業績ば称えた。
「古賀百工翁頌徳碑」いうとは水神社の境内にある。

 上・菱野の三連水車。堀川用水より高いところにある田畑に揚水する。下流にも久重・三島の二輪水車と続く。寛政元年(1789)に完成した(ここギャグ)日本最古の水車やケン、平成2年「堀川用水及び朝倉の揚水車」として国の史跡になった。
下左・勢いよく田圃へ。 下右・中間の水量調節用ゲート。

      山田堰から夕陽の下流にちっご平野が広かる。右の杜が恵蘇八幡宮と水神社。

上・久重の二連水車。
下・音もなく下古毛の集落ば流れ下る堀川用水。
左下・ひわたし橋から下流ば見る。ここにも小さか樋門があって両側の水路へ分水しとった。

これは「道の駅あさくら」の裏に最近作られた観光用鉄製の三連水車。

      斉明天皇葬儀のとき、大笠被った鬼がこの山の上から覗いとったていう麻底良山

 4世紀末、朝鮮半島は百済、高句麗、新羅の三国に分割され、7世紀の西暦660年 百済はついに新羅・唐の連合軍に滅ぼされかけたもんやケン、日本へ使者ば出して「助けてくれーっ」いうてきた。

 時の女帝斉明天皇とその子の中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らは「可哀想かタイ」いうてこれば受け入れ、救済軍ば派遣することにした。

 斉明天皇は百済救援の為に、中大兄皇子、大海人皇子(のちの天武天皇)たちば連れて難波の港から海路筑紫に向かい、翌661年3月25日に博多、5月9日にここ朝倉橘広庭宮の仮御所まで来んしゃった。

 バッテン、天皇は御年68歳。長い旅でくたくたタイ。75日おんなっただけで、ことんと死んでしまいなった。あらたまっていうと崩御なされた。

 そげな年こいとって、よそん国のためにわざわざ九州までも来るけんタイ。

 なし仮宮ば博多にせんやったとやろうか?
 それはこうタイ。

 朝倉なら博多湾から攻められたら、筑後川ば船で有明海へ逃げ、有明海から攻められたら博多湾へ逃げられるけんタイ。日田では攻められたら袋の鼠になる。

 飛鳥時代の天皇はなしかしらん中国からの攻撃に異常に怯えとった。天皇家自体が中国ば裏切って亡命して来とった一族やったっちゃろうか?

 また、ひょっとしたら天皇家の先祖はここ朝倉で、ここから大和へ東征したていう記憶ば持っとんなったっちゃなかろうか?

 朝倉橘広庭宮の所在地は、現在の福岡県朝倉市ていわれとるけど、具体的な場所は特定されとらん。朝倉市の須川には奈良時代の長安寺廃寺跡が残っとって「橘広庭宮之蹟」の碑が建てられとる。

 日本書紀によると、朝倉橘広庭宮ば造るとき、朝倉の杜の木ば伐って使うたケン、神が怒って宮殿ば壊し、宮中では鬼火が目撃され、随員たちに病死者がゴロゴロ出たて伝えとる。

 斉明天皇の葬式のときも、朝倉の杜のうえから赤い大笠ば被った鬼が様子ば窺いよったていう。


斉明天皇ば祀る恵蘇八幡宮と
天智天皇がお通夜しなった木の丸殿跡

 例により面白がって駅長が、麻底良山(までらさん・朝倉の杜)に登ってみたら山頂には天照大神ば祀った「麻底良布神社(まてらふ)があるだけで妖怪変化はおらんやった。

 天智天皇は、斉明天皇死になった7日後の8月1日、遺骸ば朝倉橘広庭宮からこの地に移し御陵山に仮葬。

 陵の下の山腹に皮のついたままの丸太で小屋ば作って1日ば1ヵ月にかえ12日間、喪に服しなったゲナ。そやケン、この地ば
「木の丸殿」「黒木の御所」て呼ぶごとなった。

「木の丸殿」の跡はいまの恵蘇神社社殿付近にある。
 喪に服した天智天皇は
  
「朝倉や木の丸殿に我居れば
      名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」
ていう歌ば詠んだり、筑後川のほとりで名月ば見て心の痛みば癒しんしゃつたて伝えられとる。

 斉明天皇は舒明天皇の嫁さん。641年に舒明天皇が死になったもんやケン、翌年皇后が即位して皇極天皇てなんなった。大化元年(645) 大化改新が起こり天皇は位ば軽(かる)皇子の孝徳天皇に譲んなったとバッテン、655年再び即位して、斉明天皇てなった。

 救援に行った日本軍はていうと、
白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗して逃げ帰り、結局660年に百済は唐・新羅から滅ぼされた。

 それからの日本は「唐・新羅が襲うてくるバイ」いうて怯えたくり、対馬の厳原やら福岡の大野城、佐賀の基山にまで山城ば、熊本にも鞠智城ば築いて守りば固めないかんハメになったとは、ご存じの通りタイ。

 ついでバッテン、太宰府の
観世音寺は天智天皇が斉明天皇ば祀んなったお寺タイ。

上・恵蘇八幡宮の本殿。 下・木の丸殿の跡。
右下・恵蘇八幡宮拝殿の扁額と干支板。

 今回は「山田堰」と「恵利堰」ばいっしょにしたかったとバッテン、堀川用水やら三連水車で写真が多なったとと、取材にいって「突分」いうとば見つけたりしたもんやケン、あんまり長うなったらいかん(遺憾)に思い、山田堰だけで切った。次回は筑後川四大井堰のラスト、「恵利堰」と田主丸の「鯉取りまぁーしゃん」ばご紹介します。ちなみに鯉取りまぁしゃんの孫の上村政明さんは、駅長現役の頃の同僚で、いまは「鯉の巣」いう川魚料理屋ば経営しとんなる。ここの鯉料理とうなぎのどんぶりは旨かバイ。次回、匂いだけでも嗅がせてやるケン、期待しとかんね。
                               取材期間 2011.10.18/2011.112.13

         前回へ戻ります。  次回のは、本流4回目「恵利堰」です。いま制作中。

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