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 ステンショ物語 (その87)   汽車が走り出した明治の頃
                       駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。
    

マンションに囲まれとる古か木造駅舎
久大本線              
むかしは野っぱらに建っとった南久留米駅、これだけマンションに囲まれたら少々の南風が吹いても大丈夫やろう


 日本が太平洋戦争に負けた昭和20年の夏。博多の町にウワサが飛んだ。「博多湾に米軍が上陸してくるゲナ。そうしたら男は全部殺され、女子どもは元寇の時のごと耳たぶに穴ば開けて繋がれるらしか」
 「山の中さい逃げないかん」「それも海岸から40kmは離れとかないかんげなバイ」

 駅長はそん時小学6年。オヤジは戦争に行っとって、残されとる家族は祖母に母と弟が2人。しかも下の子はまあだ生まれたばかり。
「どっかへ逃げないかんが、どうしょうか」「取りあえず持って行くもんばまとめろう」

 当座の着物やら食糧ばかき集める。食糧いうてもまともなもんはなか。脱脂大豆に乾燥たまごやらばリックサックに詰め込んだ。
 連絡はつかんバッテン、祖母が何回か行ったことのある湯平温泉の「米屋」ていう旅館ば頼って行くことになった。

 箱崎駅から汽車に乗る。
 疎開する人達で車内はあふれ返っとった。直通の久大線なんて動きよらんケン、先はどうなるか分からんけど、取りあえず久留米駅まで乗った。

 昼過ぎに久留米駅に着いたら、南久留米との間が不通で、久留米発の久大線が南久留米からしか乗られんことが分かった。

 
タクシーやら勿論あるもんかい。南久留米駅まで歩くしかなか。母が三男ば背負い、駅長が次男の手ば引いて線路ば歩き出した。最短距離の軌道ば歩くにしても、今度調べてみたら約5kmもあった。

 命からがら逃げよるとやケン、きつかなんていう感覚はナカ。とにかく海岸から早う離れたかばっかりで、誰もものも云わずにただ歩いた。

 上左・駅舎正面。上右・待合室から真っ直ぐホームへの連絡通路につながる。右手が駅務室。

 その南久留米駅(みなみくるめえき)は、いまも久留米市野中町にある。JR九州の久大本線の駅。

 あれから約70年ぶりに訪ねた駅長がたまがった。当時は駅前にも家がまばらやったとい、今は駅前に大きなショッピングセンターが建ち、周囲はビルだらけ。駅は後の高層マンションに飲み込まれて、都会の風景の中に沈んどった。

 夕方近くやっと南久留米駅に到着。すぐ汽車ば調べてみたら、運良く直ぐに発車するとがおった。しかし、大分までは行かずに日田止まり。
「贅沢は云われん。まず日田まででも行こう」一家五人慌てて車両に乗り込んだ。
 これが駅長の子供心にいつまでも残っとる南久留米駅の苦しかシーンやった。

 その後の逃避行は、日田駅前で野宿して、翌朝の列車でやっと湯平に到着。湯平駅から温泉まで、真夏の陽にあぶられながら山道ば3時間。フラフラになってやっと「米屋旅館」に倒れ込んだ。
 ていうことになるとバッテン、ここでは南久留米駅ば語らないかんケン、省略。

上左右・駅舎はぐるりぐりっと通勤通学者の自転車で取り囲まれとる。出入り口だけ空けとけばあとは自由。
下左・庇の木組みも昔の形ばしっかりと残しとって、改装工事人の苦労が分かる。下右・入り口の建物財産標。

 昔ながらの木造駅舎と周囲の風景が合うとらんて云えばそれまでバッテン、これはこれで面白か。世の中変わって当たり前、築80年になる木造駅舎が現役で頑張っとること自体、これはすごか。
 まさに南久留米駅駅は、この街の古老の風格を漂わしながら堂々としとった。
 
 入口に建物財産標が残ってとるとば見つけた。古びとる板切れに「南久留米建築1号 本屋 昭和3 11」とある。その横の「蟻」て書かれた黄色い板は? シロアリ駆除した印やろうか。

 昭和3年(1928) 開業以来の駅舎はむかしの駅務室部分が、2001年に撤去されとって約半分になっとる。しかし、むかしば知らんもんが見たっちゃ、そうとは分からんごと上手い工事ばしとる。

 待合室ば区切って一部に駅務室ば作ってあった。「博多から70年ぶりに来ました。写真ば撮させてください」
 ビックリした顔の駅員さん(JR九州の子会社、九州企画の社員)が、とっさに「どうぞ どうぞ」

 駅の構造は苦い記憶とあんまり変わってはおらんで、島式ホーム1面2線。駅舎から盛土の上にあるホームへはトンネルば通って階段ば上って行く。

 ホームからの眺めはぐるりぐるっとビルビルビル。両隣の駅へ直線の線路だけが、残った空といっしょに伸びとった。2009年度の1日平均乗車人員は378人ていう。

上右・改札ば通ったら、通路から下り線の下ばトンネルで抜けてホームへ上がっていく。
上左・ホームから下りてきたら駅舎の改札が口開けて待っとる。右の写真の逆方向から撮したところ。
下右・古さばそのまま残した板壁。  下左・待合室の天井はむかしば残してリニューアル。

 ホームから日田方面ば向いた左手に、柵で囲まれた空地があって引込み線が伸び工事車両が留置してあった。

 両隣の駅いうたら、国鉄民営化の後にでけた駅で、民営化当初は上りの次駅は久留米駅、下りの次の駅が御井駅で、それぞれ4.9km、3.1kmと中心部としては駅間が離れとった。

 沿線に家が建ち込んできたもんやケン、90年代後半に「JR久大本線活性化促進協議会」いうとが出けて「それぞれの駅の間に新駅ば作ろうや」ていう住民運動が起こった。

 こればJRが受け入れて開業したとが、2009年の久留米高校前駅(久留米側)、2000年の久留米大学前駅(日田側)。これで隣の駅との距離が1.5kmと1.9kmになった。

ホームから駅舎へは下り線をくぐっていく。 

 駅舎に残された古い壁
上と左上・駅の特徴。下り線の下の連絡通路。
左・ホームへ上がってくると見えてくる風景。
上・昭和3年(1928)にでけた当時からすれば、半分にちょんぎられた今の南久留米駅。でもこじんまりとまとまっとる。
 高良山と高良大社

上の上・北側から見た高良大社。社は市内(西北)ば向いて建つ。
上・境内の大楠は樹齢約400年、幹周9m 樹高23m。

 南久留米駅から東へ約5kmほどの高良山から始まって、東へ約20kmも連なっとる山並みば「耳納(みのう)連山」ていう。

 なんで耳納か。
 「山麓に現れた化けもんの耳」ていう説と、源義家と戦うた安陪貞任(あべのさだとう)の耳ば納めたていう説があるバッテン、どっちもアテにはならん。

 その中腹にあるとが
高良大社(こうらたいしゃ)で、古くは高良玉垂命(たまたれのみこと)神社、高良玉垂宮などて呼ばれとった。

 むかしから筑紫の国魂て仰がれ、筑後一円はもとより、肥前からも篤い信仰ば得とった。

 高良大社は今でも誰ば祀ってあるかの論争で有名タイ。武内宿禰説や藤大臣説、月神説などいろいろある。
 藤大臣説いうとは、神功皇后が三韓征伐のとき筑前四王寺の峰に登って、戦勝ば祈願しなったとき、住吉神と高良神が顕れ、高良神は名ば藤大臣と変えて、自ら皇后とともに従軍しなったていう。

 この藤大臣が千珠・満珠(せんじゅまんじゅ・潮の満ち引きば操れる玉)ばもって新羅軍ば降伏させた、ていうとが「高良玉垂宮縁起」の筋書き。

 また景行天皇が九州巡行のとき、筑紫国御井郡の高羅山(高良山)に行宮(仮宮)ば建て、国見ばしなった話もある。
 そんとき基山あたりが霧におおわれとったケン、天皇が「この国ば霧の国と呼ぷがよい」ていいなった。
霧の国が後世、基肆(きい)国になったとゲナ。
 オヤジギャグもよかところ、いい加減にしときない。

 また御井郡の川(筑後川)の渡しの瀬が非常に広かって人々が難渋しとったケン、天皇は筑後国生葉(うきは)山ば船山(造船用の木材ば伐り出す)、高羅(高良)山ば梶山(舵用の木材ば出す)としなったため人々は救われたていう。

 その後この地方ば支配した県主(あがたぬし)が、景行天皇の神霊ば筑後国の鎮守の神と仰ぎ、高羅山ば神霊の依りどころにして祭祀したてもいう。県主の水沼氏は、のちのちまで自らば景行天皇の孫裔て言い張っとったらしか。
水沼の県主が治めとったところが、のちに三潴郡(みずま)て云うごとなったとタイ。

 景行天皇は名ば大足彦(おおたらしひこ)ていい、現在の神名が玉垂神(たまたれのかみ)ていう。景行天皇と高良山の神は相共通するていう学者もおる。

 厄年の厄ばらい・厄除け開運・延命長寿・現代では交通安全のご利益でも名高か。また芸能の神としての信仰もあってなんでも来いの神様タイ。
 正殿に高良玉垂命・左殿に八幡大神・右殿が住吉大神ていう具合で、神さんのデパートのごたる。

 記録としては、仁徳天皇の55年(367年)に鎮座しなって、履中天皇元年(400年)が創建の筑後国一の宮「高良玉垂命神社」ていうことが延喜式神名帳にチャンと書かれとる。

 また祭神の高良玉垂命は、国内最古の神名帳ていう「筑後国神名帳」によると、朝廷から正一位ば授けられたことになっとる。

 高良山にはもともと高木神(高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しとんなって高牟礼山(たかむれ)て呼ばれとったが、高良玉垂命が「一夜の宿として山ば借しちゃりやい」て申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界ば張ってそのまま鎮座(居ずわった)してしもうたていう伝説がある。

 韓国語では集落のことば「ムレ」ていうケン、初めおんなったとは韓国の神やったかもしれん。

 現在もともとの氏神やった高木神は、追い出されて( ? )麓の二の鳥居の手前の高樹神社に住んどんなる。
 なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前は「高牟礼市民センター」
 久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に「高牟礼」の名前が残っとる。

  参道に残る「一の鳥居」は、
承応4年(1655)に久留米藩2代藩主有馬忠頼が寄進したていう。石材はいまの田主丸町から花崗岩ば切りだし、藩内の15才から60才までの男子延べ10万人ば動員して耳納の山裾ばここまで運ばせたとゲナ。題字は上野寛永寺の門主。

 現在の社殿は久留米藩第3代藩主有馬頼利(よりとし)の寄進によるもんで、万治3年(1660年)に本殿が、寛文元年(1661年)に幣殿・拝殿が完成した。

 現在社殿は国の重要文化財に指定され、神社建築としては九州最大のもんゲナ。

 寛政4年(1792年)から50年に一度の祭礼として御神期祭が行われる。

 平成4年(1992年)には千六百年御神期大祭として神輿行列が久留米市街地まで練り歩く御神幸祭が行われた。

 明治4年(1871年)に高良神社として国幣中社になり、大正4年(1915年)には国幣大社に昇格した。


ところで、室町時代から使われてきたここの地名、なし「久留米」ていうか知っとる ?

 おおむかし、大陸から渡来して来た機織りの工人集団がクサ、この地に住んどったもんやケン、繰部(くりべ)の地、または繰女(くりめ)て呼んだとがクルメに転訛したていわれとる。そういえば久留米絣が有名タイ。

「久しく米が(留まる)ごとなってほしか」ていう願いが由来ていう説やら、筑後川が大きゅう蛇行しとるケン、クルメク(転く)が語源などいろんな説があるバッテン、昔のこっちゃケン、正直のところどれが本当かは分からん。

 東京都にある東久留米市は、そこば流れとる「黒目川」からきとるとゲナ。福岡県久留米市との紛らわしさば避けるため、東京都の「東」ばひっつけて東久留米市てしとる。

左上・拝殿の竜。 
右上・麓の御井町にある参道の「一の鳥居」
高さ6.81m、柱間4.5mの典型的な明神鳥居。
左・拝殿の扁額には「高良玉垂宮」とある。

上・参道の石段ば130段上ってくると朱色の門が待っとる。
下・神社の展望台から久留米市街。右手に筑後川と背振山系。

 場所・久留米市野中町1425。九州自動車道ば久留米ICで下りる。福岡からやったらいちばん左へ下りると国道322号線やケン、南下して高速道入り口信号ば右折、筑後街道ば約1.5km西へ進むと「五穀神社」信号。ここば左折して市場通りば約1.4kmばかりまっすぐに走れば南久留米駅にドーンと突き当たる。         取材日 2011.11.13                                              

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