箱崎駅から汽車に乗る。
疎開する人達で車内はあふれ返っとった。直通の久大線なんて動きよらんケン、先はどうなるか分からんけど、取りあえず久留米駅まで乗った。
昼過ぎに久留米駅に着いたら、南久留米との間が不通で、久留米発の久大線が南久留米からしか乗られんことが分かった。
タクシーやら勿論あるもんかい。南久留米駅まで歩くしかなか。母が三男ば背負い、駅長が次男の手ば引いて線路ば歩き出した。最短距離の軌道ば歩くにしても、今度調べてみたら約5kmもあった。
命からがら逃げよるとやケン、きつかなんていう感覚はナカ。とにかく海岸から早う離れたかばっかりで、誰もものも云わずにただ歩いた。
上左・駅舎正面。上右・待合室から真っ直ぐホームへの連絡通路につながる。右手が駅務室。
その南久留米駅(みなみくるめえき)は、いまも久留米市野中町にある。JR九州の久大本線の駅。
あれから約70年ぶりに訪ねた駅長がたまがった。当時は駅前にも家がまばらやったとい、今は駅前に大きなショッピングセンターが建ち、周囲はビルだらけ。駅は後の高層マンションに飲み込まれて、都会の風景の中に沈んどった。
夕方近くやっと南久留米駅に到着。すぐ汽車ば調べてみたら、運良く直ぐに発車するとがおった。しかし、大分までは行かずに日田止まり。
「贅沢は云われん。まず日田まででも行こう」一家五人慌てて車両に乗り込んだ。
これが駅長の子供心にいつまでも残っとる南久留米駅の苦しかシーンやった。
その後の逃避行は、日田駅前で野宿して、翌朝の列車でやっと湯平に到着。湯平駅から温泉まで、真夏の陽にあぶられながら山道ば3時間。フラフラになってやっと「米屋旅館」に倒れ込んだ。
ていうことになるとバッテン、ここでは南久留米駅ば語らないかんケン、省略。
上左右・駅舎はぐるりぐりっと通勤通学者の自転車で取り囲まれとる。出入り口だけ空けとけばあとは自由。
下左・庇の木組みも昔の形ばしっかりと残しとって、改装工事人の苦労が分かる。下右・入り口の建物財産標。
昔ながらの木造駅舎と周囲の風景が合うとらんて云えばそれまでバッテン、これはこれで面白か。世の中変わって当たり前、築80年になる木造駅舎が現役で頑張っとること自体、これはすごか。
まさに南久留米駅駅は、この街の古老の風格を漂わしながら堂々としとった。
入口に建物財産標が残ってとるとば見つけた。古びとる板切れに「南久留米建築1号 本屋 昭和3 11」とある。その横の「蟻」て書かれた黄色い板は? シロアリ駆除した印やろうか。
昭和3年(1928) 開業以来の駅舎はむかしの駅務室部分が、2001年に撤去されとって約半分になっとる。しかし、むかしば知らんもんが見たっちゃ、そうとは分からんごと上手い工事ばしとる。
待合室ば区切って一部に駅務室ば作ってあった。「博多から70年ぶりに来ました。写真ば撮させてください」
ビックリした顔の駅員さん(JR九州の子会社、九州企画の社員)が、とっさに「どうぞ どうぞ」
駅の構造は苦い記憶とあんまり変わってはおらんで、島式ホーム1面2線。駅舎から盛土の上にあるホームへはトンネルば通って階段ば上って行く。
ホームからの眺めはぐるりぐるっとビルビルビル。両隣の駅へ直線の線路だけが、残った空といっしょに伸びとった。2009年度の1日平均乗車人員は378人ていう。
上右・改札ば通ったら、通路から下り線の下ばトンネルで抜けてホームへ上がっていく。
上左・ホームから下りてきたら駅舎の改札が口開けて待っとる。右の写真の逆方向から撮したところ。
下右・古さばそのまま残した板壁。 下左・待合室の天井はむかしば残してリニューアル。
ホームから日田方面ば向いた左手に、柵で囲まれた空地があって引込み線が伸び工事車両が留置してあった。
両隣の駅いうたら、国鉄民営化の後にでけた駅で、民営化当初は上りの次駅は久留米駅、下りの次の駅が御井駅で、それぞれ4.9km、3.1kmと中心部としては駅間が離れとった。
沿線に家が建ち込んできたもんやケン、90年代後半に「JR久大本線活性化促進協議会」いうとが出けて「それぞれの駅の間に新駅ば作ろうや」ていう住民運動が起こった。
こればJRが受け入れて開業したとが、2009年の久留米高校前駅(久留米側)、2000年の久留米大学前駅(日田側)。これで隣の駅との距離が1.5kmと1.9kmになった。
ホームから駅舎へは下り線をくぐっていく。
駅舎に残された古い壁
上と左上・駅の特徴。下り線の下の連絡通路。
左・ホームへ上がってくると見えてくる風景。
上・昭和3年(1928)にでけた当時からすれば、半分にちょんぎられた今の南久留米駅。でもこじんまりとまとまっとる。