紫駅(むらさきえき)は、西鉄天神大牟田線の駅。この路線いまは天神大牟田線なんていいよるバッテン、むかしはただ「急行電車」ていいよった。また2000年まではただ大牟田線やった。
いまの西鉄天神大牟田線は、大正13年(1924)に九州鉄道が福岡(天神)〜 久留米間ば開業したとが始まりで、もう90年になる。
「あらっ 2008年に創立100周年いうてイベントばしよったバイ」
「それはね西鉄になる前の九州電気軌道株式会社ていうとが、明治41年(1908)12月に設立されとるけんタイ」
西鉄天神大牟田線はさっきからいうとるごと、でけて90年。そして駅長がいいたかとは、今回テーマの「紫駅」は、2010年3月27日に開業しとって、西鉄の全鉄道路線の中では最も新しい駅ていうこと。
天神大牟田線の新駅としては、1992年に開業した「三国が丘駅」以来。西鉄の新駅としても、同年10月開業の北九州線「西黒崎駅」以来の新しか駅タイ。JR二日市駅へは西に500mしか離れとらん。
駅名ばどげんするかで、地元の意見ば聞いたら「そらぁ歴史のある地名の「紫(むらさき)」がよか」いうとが圧倒的で「紫(むらさき)駅」にきまった。
「紫いうとは、そげん歴史のある地名な、いっちょも知らんやった」
「筑前国続風土記拾遺」ていう古か本の御笠郡のとこに、紫村「古異国より紫艸を持来り此村に始て植けるより村名とす。民居ハ本村及木免石崎等にあり」てちゃーんと書いてある。
博多弁に直したら、「むかし異国から紫草いうとば、ダレかが持ってきて、初めてここに植えたゲナ。それで村名ば紫村にした」ていうこっタイ。
今の筑紫野市紫一〜七丁目辺り。むかしは二日市村の南で、鷺田川支流高尾川流域の平野部にあった。
日田街道が北西から南東へ通っとって、中世では紫(むらさき)・田庄(だのしょう)・紫庄(むらさきのしょう)いう地名があったゲナ。
上の上・紫駅やケン、紫色の看板。
上・ホームは上下線が完全に別で、構内踏切はナカ。間違うて入り、電車が来て反対て分かっても、もう間に合わん。
下・西鉄大牟田線越しに西の展望。J R 二日市駅の向こうに天拝山。遠景に背振山
筑前掾門部 連石足(ちくぜんのじょうかどべのむらじ いわたり)ていう連(むらじ)の歌に
韓人の 衣染むといふ 紫の 心に染みて 思ほゆるかも
(韓の人が衣を染めるという紫の色のように、心に深くしみてあなたのことが思われる)ていうとがあって、紫の色が出てきとる。
律令時代、位階によって着衣の色が決められとった。例えば白は天皇、黄丹は皇太子。官僚の序列は紫、蘇方、緋・紅・黄橡・?・蒲萄、緑、紺・縹てなっとったらしか。
いま西鉄太宰府線の列車名になっとる「旅人」は、太宰府の役人やった大伴旅人からきとるっちゃが、彼の服の色は浅紫やった。
太宰府に流されてきた菅原道真もこげな歌ば詠んどる。
つくしにも 紫生ふる 野辺はあれど なき名悲しむ人ぞ聞こえむ
(洛北に紫野があるごと、筑紫にも紫村があるバッテン、私の冤罪に同情してくれる者は殆どおらん、世間の眼は冷たかもんバイ)て怨んどる。
そしてこの歌碑ば紫駅がてけたとき、駅の前に立てられた。
駅の話ばしょう。相対式ホーム2面2線。駅舎はホームごとに別々の東口と西口から出入りする双胴駅で、改札口から入場したらホーム相互間の移動はでけん。そやケン、上り方面の改札にある運賃表には下りの運賃は書いてなかったり、自動券売機でも反対方向の切符は買われんごとバカ止めがしてある。
開業当初よりnimocaが利用可能であり、それに対応した自動改札機が設置されている。
改札とホームの間は段差のないバリアフリー構造になっとるほか、車椅子対応トイレまで設置されとる。また、ホームの待合室は、なんと冷暖房完備。
また西鉄電車の駅舎に掲げられる駅名標は青色のものが大半バッテン、当駅の駅舎入口上にある駅名標示は紫色で書かれており、しかもその下の部分には紫色のラインば引いて紫ば強調しとる。
2012年度の1日平均乗降人員は5,404人やった。
上左・下り線の駅舎
上右・上り線が発車・線路の向こうは下り線の駅舎
左・下り線のホーム
また紫にはなしは戻る。
紫草はムラサキ科ムラサキ属の多年草で、6月〜7月に白い花ば咲かせる。高さは40〜70センチ程度までに成長し、根が太かケン、これが紫色の染料に利用されてきた。
だから、むかし大宰府管内の特産物として京への進物に紫草が使われとつた形跡がある。
右・上り天神行きの駅舎前には菅原道真の歌碑がある。
駅の前の狭か通りは旧国道3号線と新国道3号線「高雄」の信号ば繋いどるケン、車の通りが多か。
西鉄・天神大牟田線と太宰府線
天神大牟田線(てんじんおおむたせん)は、福岡市天神の西鉄福岡(天神)駅から、大牟田市の大牟田駅まで走っとる西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線。
むかしから地元のもんは「大牟田線」て云うたり、ただ「急行電車」ていいよった。
西鉄にとっては無くてはならん稼ぎがしらの路線で、福岡県ば南北に結ぶ大動脈タイ。沿線には県下でも比較的規模の大きな町が連らなっとって、福岡から各地へ向かう路線の中でも沿線開発が盛んやった。
通勤・通学路線としての利用が多かバッテン、沿線には柳川の城下町やら太宰府天満宮・九州国立博物館、グリーンランドなどの観光地が多かケン、利用も多か。
JR鹿児島本線、九州新幹線、国道3号、九州自動車道などほかの交通路は、筑紫野市からいっぺん佐賀県(鳥栖やら)ば通って久留米市に入るバッテン、大牟田線は筑紫野市から小郡市ば通って久留米市に入っとるケン、佐賀のお世話になっとらん。
天神〜津福間と大善寺〜大牟田間は、西鉄の前身の九州鉄道(2代目)が初めから電化して開業した。
津福〜大善寺間は大川鉄道が開発した区間バッテン、大川鉄道が苦しゅうなって九州鉄道が吸収合併したときに、線路の規格ば変え、電化した上で自社の路線に組み込んだ。
大正13年(1924)に天神〜久留米間ば開業したとき、大牟田通り越して熊本まで延ばすことば視野に入れとったっちゃが、昭和14年(1939)に大牟田まで開通しあと、土地の確保が難航したもんやケン、熊本まで延ばす計画はストップした。
天神〜久留米間は開通当時から複線区間やったけど、久留米から南は資金難のため単線で開業した。その後、八丁牟田付近など、特急同士の離合箇所ば複線化して、久留米から南でも約6割は複線化の工事ばしとる。大溝や倉永、西鉄銀水などに島式プラットホームの駅があるとは複線化の歴史の名残タイ。
西鉄福岡駅が高架になったとが昭和62年(1987)。そのまえ昭和53年(1978)、市の交通に迷惑ばかけとった西鉄平尾〜大橋間ばやっと高架にした。
西鉄ていう会社は、公共の交通機関のくせに「市民が迷惑しとったっちゃ、国の金が出るまでは自分の
金では改良工事はせん」ケチな会社として博多のモンには評判がようなかった。
福岡市ば独占しとって、ほかのバス会社は福岡に入れさせん。
警察からやら天下りしとるもんやケン、天神界隈の道路やらは横着こいて我が物顔で独占しとる。
住民が困っとったっちゃ、会社が儲かるとこしか路線ば通さん。
・・などなど、市民には愛されず、市民はほかになかケン、しかたなく乗ってやっとる会社やった。
この社風はいまも続いとって、大型団地がでけたらすぐバスば走らせるくせに、乗客の減った路線は、すぐバスの回数ば間引いてしまう。企業やケン、利益主義いうとは分かるバッテン、市民の「足」やろう。市民あっての会社やろう。
そのうちに駅長がほかのバス会社ば連れてきて同じ路線ば走らせたら、みんなそっちへ「ころっと」変わってしまうバイ。
おっと、太宰府線の話もせないかんやった。
太宰府線(だざいふせん)は、筑紫野市の西鉄二日市駅から太宰府市の太宰府駅までの、たった1駅、2.4kmば結ぶ西鉄の鉄道路線タイ。
沿線には住宅地が広がり、高校・大学が多か。また太宰府天満宮や九州国立博物館などの観光スポットがあるケン、都市圏への通勤・通学路線と、観光地へのアクセス路線の役割がある。
普通列車のみ運行で、日中は毎時4本が走っとる。日中の一部の列車には「旅人」(たびと)いう改装された車両が使用されとる)
太宰府線の歴史は、明治35年(1902)に設立された太宰府馬車鉄道いう馬車鉄道の会社が建設した。その後、馬から蒸気へ変わって、西鉄天神大牟田線の傘下に入り、昭和9年(1934)から西鉄太宰府線になった。
知られざる話としては、もっとその前、明治22年(1889)に、九州初の鉄道として博多〜久留米間ば計画したとき、ほんなことは太宰府ば通るはずやった。
ところがそのことば聞いた太宰府の神主やら商店主たちがクサ「汽車が走ったら神社やら商品が煙で真っ黒けになる」いうて反対した。
それば聞いた二日市は、逆に「汽車の駅はウチに作っちゃんなっせ」「土地は提供しますバイ」てまでいうて誘致した。その結果、一時は、行く足の無か太宰府は寂れ、二日市温泉は大繁盛した。
先ば読みきらんで鉄道に反対し、後で「しもうたぁ」て臍ばかんだ町は、九州だけでも数えきらんごとアル。
上・駅のすぐ横で西鉄が経営しとる「サンカルナ」からは、すぐ目の下に「九州産業高校のグランドが見える。