このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街道の風景


朝倉街道(2)

越前一乗谷


戦国大名朝倉氏の城下町を復元一乗谷朝倉氏館跡の唐門


越前一乗谷(福井市城戸ノ内町)から牛ノ谷(坂井郡金津町牛ノ谷)まで



◎ 朝倉街道を訪ねて

 朝倉街道(1)では、一乗谷(福井市)を起点に鯖波(南条郡南条町)に向けて南進(上り)しましたが、

 ここでは一乗谷から牛ノ谷(坂井郡金津町)に向けて北進(下り)します。


一乗谷下城戸一乗谷下城戸


◎ 福井市内の経路1
(一乗谷から東郷まで)


 城下町一乗谷(福井市城戸ノ内町)から北進するには、通常は一乗谷の下城戸を出て、安波賀町、脇三ケ町から天神橋を渡り、成願寺町方面へ向かいます。

 そうしますと、肝心の東郷(福井市東郷二ケ町など)が抜けてしまうので、南進したときと同じように、一乗谷上城戸を出て鹿俣坂を越え、東大味から北進することにします。

 さて、東大味(福井市東大味町)から東側の山麓に沿って岩倉町、深見町、栃泉町(各福井市)へ北進しますと、東郷(福井市東郷ニケ町など)に至ります。

この付近の地図参照



〇 東郷
(福井市東郷二ヶ町など)

 東郷という地名は、鎌倉期から戦国期の荘園名として見えます。

 貞治5年(1366)8月、朝倉宗祐(高景)は、守護斯波高経の越前下向のとき将軍方について勲功をあげ、東郷荘地頭職を与えられました。

 朝倉氏の諸系図には、高景の孫の正景が東郷氏を、同景康が中島氏を称して荘内に土着したことが知られています。

 東郷氏は、やがて一条家領東郷荘を70貫で請負う代官になりましたが、応仁の乱後(1467〜1477)は朝倉孝景に押領されました。



〇 東郷槙山城跡
(福井市小路町)

 東郷の南東に通称「城山」と呼ばれる城郭跡があります。

 越前朝倉氏三代、氏景の次男で(高景の孫)正景が、応永年間(1394〜1427)に一条家の荘園、東郷荘を預けられて、その代官となり下総守と称しました。

 その頃に槙山城が築城されたと推定され、朝倉本宗家が一乗谷に本拠地を移してからは、その支城的な存在になりました。

 この城は一乗谷とは尾根続きで、途中4箇所の堀切があります。

 その後、鳥井兵庫助、虎牧弥左衛門が居城したと伝えられ、槇山城の西下を南北に朝倉街道が通り、

 北側を北庄から一乗谷を経て大野へ向かう街道が東西に走り、両街道の交差点付近に町屋が発達しました。


足羽川、前波の渡し付近福井市篠尾町から一乗谷方面を望む


〇 成願寺の渡し
(福井市成願寺町・中毘沙門町の間)

 現在、一乗谷・東郷から足羽川を渡るには、上流から天神橋、毘沙門橋、足羽橋、稲津橋と四つの橋があります。

 渡し名から推測しますと成願寺の渡しは、毘沙門橋と足羽橋の間にあったと推測され、成願寺には昔、成願寺渡し村がありました。

 しかし、同村が無人になってからは、巡検があると成願寺村の住人が川中に波止場を設けて、役人を福井まで舟送りしたようです。



〇 前波の渡し
(福井市前波町・安波賀中島町の間)

 一乗谷の下城戸を出た直後にある安波賀町の西に、隣接して安波賀中島町があり、昔、この辺りに前波の渡しがありました。

 足羽川が福井平野へ出る扇状地の扇央付近にあった渡河点で、中島村(福井市安波賀中島町)と前波村(福井市前波町)の間を渡しました。

 現在の天神橋のやや上流に当たり、浅水宿で北陸道から分岐した美濃街道が東郷を経て、大野へ向かうとき、この渡しを利用しました。

 しかし、一乗谷から下城戸を出て対岸の前波へ渡り、高尾(福井市高尾町)、篠尾(福井市篠尾町)を通って、

 北庄(福井市中心地)へ西進する道もあったでしょうから、一乗谷の住人も当然、この渡しを利用したと思います。

 また、戦においても一乗谷から下城戸を出て美濃街道を東進し、高田(足羽郡美山町高田)で分岐する

 朝倉街道の武者道といわれた市野々越のコースもありましたから、前波の渡しも重要であったと思います。

 前波には朝倉家家臣前波九郎兵衛の屋敷跡、高尾には朝倉家医師谷野一白の屋敷跡があり、

 「越藩拾遺録」には「前波ノ渡ノ手前ニ高尾ト云所有。是モ朝倉時代ハ遊女町ナリシ由」とあることから、この辺りも人の往来で賑わったことでしょう。

 次に隣接の篠尾には朝倉家臣、前波七郎右衛門、前波三郎右衛門、稲毛平左衛門、山上小三郎などの屋敷跡があります。



〇 成願寺城跡
(福井市成願寺町)


 西流する足羽川が越前平野に流れ出た北岸の標高70〜200mの尾根上に、戦国期の小城、成願寺城跡があります。

 東西約700mにわたって尾根の自然地形を利用した40近くの郭と堀で構成されています。

 この城は、朝倉氏の居城一乗谷から北西に約3kmの位置にあり、足羽川を挟んだ南側には東郷槇山城がありました。

 成願寺城と東郷槇山城は、一乗谷の北の最終防衛線であり、「朝倉盛衰記」に「成願寺ハ一乗三ノ丸、前波九郎兵衛比城代也」と記してあります。

 「城代」であった前波氏は、朝倉氏譜代の家臣で、足羽川を挟んで一乗谷の対岸前波を本拠地とし、代々一乗谷奉行人として朝倉政権の中枢を担ってきました。

 しかし、元亀3年(1572)9月、北近江(滋賀県)で織田信長と対陣中、朝倉氏を裏切って信長の陣に駆け入り、信長の越前攻めの案内役を務めました。

 朝倉氏滅亡後は、桂田と改名して一乗谷に居住し、信長から越前支配を任されて権勢を振るいましたが、

 天正2年(1574)、朝倉氏旧臣間で勢力争いが起こり、朝倉氏の旧臣、富田長繁とこれに扇動された一向一揆勢に攻められて一乗谷で戦死しました。(朝倉始末記)



◎ 福井市内の経路2
(成願寺から小畑坂まで)

 成願寺を過ぎると吉野ヶ岳(標高547m)の西麓に位置した岡保(現在の福井市岡西谷町、次郎丸町、宮地町、花野谷町、大畑町、河水町一帯)に入ります。

 岡保は、越前国吉田郡に属した戦国期から見える地名で、文明6年(1474)5月、この辺りで朝倉孝景と守護代甲斐方の軍勢が合戦し、朝倉方が勝利しました。

 次に朝倉街道は岡保の北方、重立山(標高168メートル)の南麓から小畑坂を越えていきます。


現在の小畑坂峠付近松岡町小畑から小畑坂方面へ向かう


吉田郡松岡町・永平寺町内の経路(小畑坂から鳴鹿橋まで)


 小畑坂西麓の坂下村(福井市坂下町)は、重立山の南麓、荒川の中流右岸に位置した村です。

 坂下村は江戸期にできたようで、戦国期には村名が見られません。

 昔、坂下村と寮村(福井市寮町)の境付近は、膝まで没する深田の湿地帯が広がっていたため、街道は山麓を通り、

 坂下から小畑坂(標高約70m)を越えて吉野谷の小畑(吉田郡松岡町小畑)へと通じていたようです。

 吉野谷は、足羽川の支流、荒川の上流域に位置し、南には吉野ヶ岳(標高547m)があります。

 朝倉街道は、この谷を小畑から下吉野、吉野堺(吉田郡松岡町下吉野、吉野堺)を経由し、

 芝原郷(吉田郡松岡町)へ出ると、東古市(吉田郡永平寺町東古市)から鳴鹿の渡し(吉田郡永平寺町鳴鹿橋)で渡河しました。

この付近の地図参照


〇 東古市
(吉田郡永平寺町東古市)

 当地は、古くから山方と里方の物資の交易を行う谷口集落的な機能を持って発達してきましたが、戦国期には朝倉街道(武者道)が交差する重要な道筋でした。

 つまり、小畑坂を越え下吉野から江上郷(後の松岡町)に出る朝倉街道と宇坂大谷(足羽郡美山町宇坂大谷)、

 市野々(吉田郡永平寺町市野々)を越える武者道が交差したところで、朝倉勢は、これらの道を活用して加賀一向一揆に対処したと考えられます。



〇 鳴鹿の渡し
(吉田郡永平寺町東古市・同鳴鹿山鹿間)

 この渡しは、東古市と鳴鹿とを結ぶ川幅80間(約144m)の所にあった九頭竜川の渡河点で、

 古くから越前国(福井県)と加賀国(石川県)をつなぐ交通の要所でした。

 両岸の東古市と鳴鹿には、早くから集落が形成され、渡し村、宿町として賑わいました。

 現在は、幅7m、長さ133mの鉄筋コンクリート造りのトラスト橋が架かり、永平寺〜芦原温泉、東尋坊を結ぶ

 主要観光ルートの一部として、遠来の観光バスをはじめ自動車交通が多くなっています。


鳴鹿橋(鳴鹿の渡し付近)下流の鳴鹿大堰を望む



◎ 吉田郡永平寺町・坂井郡丸岡町の経路
(鳴鹿から豊原まで)


 朝倉街道は、鳴鹿の渡しで九頭竜川を渡河し、鳴鹿、久米田、豊原、長畝、後山、坪江、熊坂、牛ノ谷へと続き、加越国境の牛ノ谷峠に至りました。



東古市から鳴鹿橋を渡り長畝方面へ東古市から鳴鹿橋を渡り勝山方面へ


〇 鳴鹿
(吉田郡永平寺町鳴鹿山鹿)

 東古市から九頭竜川を渡河すると鳴鹿で、地名は鳴鹿伝承に因むといわれます。

 昔、奈良春日社領(のちの河口荘)の用水を求めて九頭竜川を遡ったところ、

 山から幣をくわえた鹿が現れて三声鳴き、その鹿の歩いた道筋を掘って用水路(十郷用水)が開かれたと伝えられます。

 「鳴川堤」は、平安期の永治〜天養年間(1141〜1144)には見え、

 明応7年(1498)6月、鳴鹿用水をめぐって、興福寺大乗院領河口荘の荘民と

 豊原寺の領民との間に相論が発生し、河口荘の荘民が奈良へ赴いています。

 また、天文6年(1537)6月の朝倉氏奉行人連署定書によれば、河口荘十郷用水(鳴鹿川用水)について用水の維持、運用に関する掟が定められています。

 その中に「鳴鹿普請」「十郷百姓等鳴鹿江罷出」と見え、当地に河口荘十郷用水の取水口(井堰)が設けられており、

 朝倉氏から両名の使者が派遣されて、朝倉氏が用水の支配権を掌握していたことが知られます。

 なお「朝倉始末記」には、永正3年(1506)7月、加賀越前一向一揆と朝倉勢との九頭竜川を挟んだ大会戦で、朝倉景職勢と超勝寺ら一揆勢との「鳴鹿表」の対陣がありました。



豊原から坂井平野を見渡す(1)豊原から坂井平野を見渡す(2)


〇 豊原と豊原寺跡
(坂井郡丸岡町豊原)

 久米田(坂井郡丸岡町上久米田、下久米田)を通過し、長畝(坂井郡丸岡町長畝)、女形谷(坂井郡丸岡町女形谷)に至るまでの間に、豊原(坂井郡丸岡町豊原)がありました。

 加越山地の西中腹斜面の平坦部、井勝川上流域の山間に位置し、豊原寺の寺域として成立した地です。

 中世の隆盛期には豊原三千坊と称され、寺域は吉谷、赤坂にまで及んだといいます。

 当地は、その門前町として栄えました。しかし戦国期に一向一揆の拠点となって、天正3年(1575)織田信長の焼き討ちに遭い、残らず灰塵になりました。

 その後、丸岡に入封した柴田勝豊は、当地に豊原城を築きますが、天正4年(1576)手狭なため丸岡城に移ります。

 その際、寺社は勿論、住民も丸岡城下に移って跡地に田畑が開かれ、当村が成立しました。

 当村の南方に、豊原寺の塔頭華蔵院があり、東方の権現山には豊原五社(現白山神社)があって、下の三社と合わせて豊原八社といわれました。

 当村には、北方の三上(さんじょう)城跡、中央の西ノ宮城跡、西南方の雨乞山城跡の三城跡があったようですが、

 現在、この辺りは細い山道が1本あるだけで、どの辺りだったのか定かでありません。



豊原三千坊跡の石仏豊原三千坊跡にある石碑


〇 豊原寺
(坂井郡丸岡町豊原)


 豊原地内にあった寺で、周囲を山稜で囲まれ、狭い谷の参道を通してのみ平野部に出られるようになっていました。

 宗旨は天台宗で、山号は白山。本尊は薬師如来。中世、白山信仰の中心地として平泉寺六千坊と並び、豊原三千坊と称された大寺でした。

 大宝2年(702)泰澄の開創といわれ、その後、昌竜が再興したと伝えられます。

 天治元年(1124)藤原以成が500余宇の僧坊と数ヵ所の寺田を寄進し、寛喜元年(1229)延暦寺末になりました。

 「太平記」など中世の記録には、兵乱に際して当寺の衆徒が軍事的にも活躍したことが知られます。

 室町期以降、真言宗醍醐寺三宝院末となり、戦国期には朝倉氏の下で反一向一揆の勢力として活躍しましたが、

 越前・加賀の接点にあたる戦略上重要な位置を占めていました。

 天正2年(1574)一向一揆が蜂起すると当寺はその根拠地となり、本願寺坊官下間頼照が守護代として政務を執りました。

 このため翌年(1575)織田信長の軍勢によって焼き払われました。



豊原地内の参道豊原三千坊跡の経塚跡


◎ 坂井郡丸岡町・あわら市の経路
(長畝から熊坂・牛ノ谷峠まで)

 戦国期、長畝郷(丸岡町長畝付近一帯)から牛ノ谷に向かった朝倉街道の道筋として、二つのコースが推測されます。

 1つは長畝から坪江、瓜生、中川、前谷、笹岡、熊坂、畝市野々、牛ノ谷へと進んだ道、

 もう1つは女形谷、東山、後山、椚、上野、権世、熊坂、畝市野々、牛ノ谷と進んだ道です。

 この方面は北陸道を含めて、朝倉氏が守護代甲斐氏や加賀一向一揆との戦で幾度となく軍勢を率いて戦ったところですから、双方とも、どちらのコースも利用したことでしょう。



〇 長畝郷
(坂井郡丸岡町長畝)


 長畝郷の地名は、古く奈良期から越前国坂井郡十二郷の1つとして、中世には越前国坂北郡坂北荘のうちの長畝郷として見えます。

 この頃の長畝郷は、現在の丸岡町長畝を中心として同町の玄女、坂井町の田島、宮領一帯が比定されています。

 長畝の中央からやや北東、字南出口を「大藪」と呼び、斉藤実盛の館跡として伝承されています。

 「源平盛衰記」巻28に「平家越前国長畝城に籠て暫く息を休めけり」とありますが、この長畝城が実盛の館と考えられています。

 この頃は、まだ丸岡という地名はなく、ただ坂井平野の東端近くに独立した椀子岡(まりこのおか)と呼ばれた標高約21mの小丘陵があり、その麓一帯は田畑が広がっているだけでした。

 古代、この岡で継体天皇の第二子が降誕したことから椀子皇子と命名され、椀子岡と呼ばれるようになったといわれ、丸岡の名は、この椀子岡が変化したものといわれます。

 天正4年(1576)柴田勝豊がこの岡に築城して以来、麓に丸岡の城下町が生まれ、

 慶長年間(1596〜1614)本多氏の時に今日の丸岡町の基礎が整備されました。

 したがって、中世から戦国期にかけての坂井郡丸岡町の中心地は、朝倉街道に近かった豊原寺と

 旧北陸道沿いの要地にあった長崎城(称念寺)あたりであったと思われます。



〇 長崎荘
(坂井郡丸岡町長崎)

 椀子岡から約2㎞西南にあった長崎は、坂井平野の東部、兵庫川の右岸に位置し、鎌倉期から長崎荘という名で見える荘園でした。

 古くから北陸街道沿いの要地で、長禄〜文明年間(1457〜1486)の合戦では、たびたび戦陣となり長崎城もあったといわれます。



〇 長崎城
(坂井郡丸岡町長崎)

 室町期の城、寺院。長崎称念寺が陣所として利用され、「長崎城」と称されました。

 北陸街道が400メートルほど西を通っており、足羽郡・坂井郡のほぼ中央にあるため、

 戦略上の一拠点として、しばしば長崎城をめぐる戦が行われました。

 建武4年(1337)「細屋右馬助ヲ大将トシテ、其勢三千余旗越前国ヘ打コヘ、長崎・河合・川口三箇所ニ城ヲ構へテ」(太平記)とあり、南北朝の頃は南朝方の重要な拠点でした。

 戦国期になっても文明12年(1480)7月、国外に追放されていた斯波義良・甲斐八郎の軍勢が越前に侵入して

 朝倉方の「長崎城」をはじめ金津城・兵庫城・新庄城などを攻め落としましたが、

 翌13年反攻に転じた朝倉勢は「長崎の道場」に出陣して大勝利をおさめています。

 朝倉氏滅亡後、天正2年(1574)にも越前一向一揆は、富田弥六を攻めるために一時長崎称念寺に着陣しました。(朝倉始末記)


長崎称念寺新田義貞公墓所石碑



〇 長崎称念寺
(坂井郡丸岡町長崎)

 時宗の二世他阿上人は、正応3年(1290)数回にわたって越前で布教し、長崎に称念寺を建てました。

 住職の称念房、弟の道性房、仏眼房の兄弟3人によって称念寺の基礎が固められ、北陸時宗の中心地として発展しました。

 建武5年(1338)新田義貞は、斯波高経の足羽城(福井市)を攻めましたが、平泉寺衆徒の籠城する藤島城(福井市)へ向かう途中、敵兵とぶつかり灯明寺畷で果てました。

 かねて、親交のあった称念寺の白道上人が遺骸を葬り、称念寺は、義貞の墓所となりました。

 同じ頃、義貞の臣畑時能は、長崎や本荘(あわら市)、河合(福井市)に砦を築き、斯波高経を攻めました。

 時能は、義貞死後も坂井郡を転戦し、歴応3年(1340)伊地知山(勝山市)で討死しました。

 その子惟能は出家し、豊原寺に入って玉泉坊道教と名乗り、父の菩提を弔ったといわれます。

 その後、将軍足利義政が長禄2年(1458)称念寺の寺領を安堵し、将軍家の祈願所としました。

 この頃の寺領は広域にわたり、57ヵ所、100町歩に達したといいます。

 文明5年(1473)朝倉孝景の命により称念寺は一時難を避け移転しています。



〇 後山(あわら市後山)

 加越山地にある剣ヶ岳(標高567m)西麓一帯を占める盆地の南部に位置し、越前国坂北郡坪江郷内にあった鎌倉期から見える地名です。

 当地の西部にある横山丘陵には古墳が多数あり、その周辺には多数の城跡、館跡があります。

 「城跡考」によれば、石ヶ谷館跡は朝倉氏の家臣であった深町長康、中山館跡は同じく中山周防守の館跡です。

 その他城跡が3つあり、深町安芸守の城と時代不明のものが2つあります。

 天正3年(1575)の「越前国相越記」によれば、坪江上郷は後山、中山、鳥越の3氏に配分されていたとあります。



〇 金津上野
(あわら市上野)

 越前国坂北郡にあり、鎌倉期から見える地名です。あわら市(旧金津町)の熊坂川と権世川に挟まれ、

 現在のジャパンセントラルゴルフ倶楽部がある丘陵一帯を指すと思われます。

 長享2年(1488)加賀一向一揆が富樫政親を滅ぼした際、これに介入しようと朝倉勢が加賀に侵入したが、押し返され「金津ノ上野」まで退去した記されています。(蓮如一向一揆)

 永禄10年(1567)3月には加賀の軍勢が金津上野まで出張して熊坂口、高塚、牛尾口で合戦がありました。

 このように当地は、越前、加賀の国境に接した街道沿いの要地で、あわら市(旧金津町)前谷の行政区に上野の地名が残っており、広く丘陵一帯を呼称した地名だったようです。



〇 権世市野々
(ごんぜいちのの)(あわら市権世市野々)

 中世には越前国坂北郡坪江郷に属し、剣ヶ岳盆地の北端、権世川の谷の最奥に位置します。

 加賀境の風谷峠の登り口にあり、天文3年(1534)加賀一向一揆がこの峠を通ったと「朝倉始末記」にあります。

 この峠は、加賀一向一揆が盛んだった頃、一揆側が度々侵入してきたため、永正年間(1504〜1520)一時期、朝倉貞景が往還を閉鎖しました。



〇 熊坂
(あわら市熊坂)


 熊坂川の上流域にある小盆地に位置し、鎌倉期から見える越前国坂北郡、荒居郷に属した地名です。

 文明12年(1480)4月、甲斐方が熊坂を焼き払ったという記録があり、また同年8月の合戦で放火され、在家が半分以上焼失した記録もあります。

 永禄10年(1567)3月、加賀一向一揆勢が金津上野に出張して「熊坂口」で合戦が行われるなど加越国境の要地でした。

 当地の熊坂専修寺は、永禄9年(1566)朝倉義景が高田専修寺の真智上人に寺地を寄進したのに始まり、

 天正年間(1573〜1591)織田信長、柴田勝家、丹羽長秀の安堵を受けて、高田派の一身田専修寺と本家争いをしました。

 しかし、天正14年(1586)真智の後を継いだ真空が死亡した後、一時無住となり、多くの寺が一身田専修寺側につきました。

 天正17年(1589)下野の真能が住職となり、豊臣秀吉の朱印状を受けましたが、天和3年(1617)真能は、寺地を丹生郡畠中へ移したため、熊坂専修寺はなくなりました。



〇 牛ノ谷
(あわら市牛ノ谷)

 観音川上流の小盆地に位置し、鎌倉期から見える越前国坂北郡河口荘細呂宜郷内に属した地名で、当時は牛尾村とありました。

「朝倉始末記」の加州牢人ドモ越前ヘ落来ル段ニ、越前に亡命した加賀の牢人衆が天文3年(1534)「牛ノ尾」を陣所として加賀に足軽を出したと記されています。

 永禄10年(1567)3月には金津上野に侵入した加賀勢と朝倉勢との合戦が「牛尾口」でも行われており、当地は加越国境の要地の1つでした。


牛ノ谷峠牛ノ谷峠


〇 牛ノ谷峠
(あわら市牛ノ谷と加賀市熊坂町の境)

 福井県(越前)と石川県(加賀)との境にある峠です。現在の峠は昭和35年(1960)に完成した標高約80mの改良された峠で、ここを国道8号が通っています。

 旧峠道は1つ東の谷を通り、標高約120mありました。加越国境の重要な峠で戦国期にはしばしば戦場となりました。
この付近の地図参照

主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県       角川書店
日本歴史地名大系第18巻         平凡社
福井県史 通史編2 中世          福井県
歴史街道               上杉喜寿著
峠のルーツ              上杉喜寿著
越前・若狭山々のルーツ        上杉喜寿著
越前朝倉一族              松原信之著
蓮如実伝第二部北陸編 上       辻川達雄著
蓮如ー吉崎布教             辻川達雄著


朝倉街道(1)    BACK HOME

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください