このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街道の風景


北陸街道(1)


北陸道は、日本海側唯一の街道として、古くから畿内と東北地方を結ぶ最短交通路として数多くの宿駅(場)を発達させました。

  近世の街道に課せられた使命の1つには、参勤交代を円滑にすることがありました。

 越前の福井、丸岡、大野、勝山、鯖江諸藩の参勤交代ルートは、北陸道を南にとり栃木峠を越え、一部中山道を通って東海道から江戸に至るのが通例でした。

 近世の北陸道は、大名の参勤交代を中心に整備されてきましたが、一方、行商の道であると同時に本山参りへの道としても年々、その重要性を増していったようです。

 古き面影を残した北陸道を探して、往時を偲ぶ旧跡や伝説、風景などを訪ねてみようと思います。今回は越前の北方、九頭竜川に架かる舟橋から加賀国境に向けて歩いてみました。



現在の九頭龍川と九頭龍橋(舟橋)風景


稲多宿(舟橋宿)と九頭竜川

福井藩は慶長6年(1601)国境の栃ノ木峠から細呂木宿までの19里9町(約75㎞)の間に、15箇所の宿駅(場)を置き、駅馬、人足を常備し通行往来の便を図りました。

 足羽川に架かる九十九橋から九頭竜川の岸辺にある舟橋宿まで1里17町25間(約5.3㎞)あったようです。

 雨が降り、川が増水すれば立ち往生で、川岸の宿に泊まり、水が引くのを待ちました。

 この舟橋付近は、昔から北陸道の要衝地として川岸の稲多宿(舟橋宿)が栄えました。

 ここには橋奉行が配置され通行などの取締りが行われました。

 舟橋という名の由来は、柴田勝家が北の庄城主になったとき、九頭竜川に48艘の舟を集め、鉄鎖と藤のつるで舟を繋ぎ止め、

 その上に橋板を並べて交通の便としたことから、舟橋と呼ばれるようになったようです。

 以来、江戸期を通じて舟橋は利用され、明治10年(1877)7月、ここに全長104間(約173m)、幅3間(約5m)の立派な木橋が架けられるまで、その役目を果たしました。


舟橋南詰の四王天但馬守事跡碑
舟橋北詰の史跡稲多宿場石碑


2 稲多宿(舟橋宿)一里塚と六才地蔵尊

舟橋から100mほど北に進みますと相模病院横の歩道端に一里塚碑があります。昔、この近くにも一里塚があったのですが九頭龍川改修で消滅しました。

 稲多宿(舟橋宿)は、九頭龍川に架けられた舟橋詰にあって、駅馬6疋を常備し、当初、舟橋渡村と呼ばれたようですが、後に稲多村となりました。

 この村は、渡し舟や茶屋、それに舟づくりが主で、農業は副業であったそうです。近くには福井藩のお米蔵が置かれ、村々からの年貢納米を収蔵しました。

 稲多宿から北陸道を北へ進みますと、やがて春江に通じる三叉路(現在は四叉路)の六才橋に着きます。この橋のたもとに六才地蔵尊が祀られています。

 縁起によれば、丸岡の松屋の娘が長屋橋の蛇に見込まれ入水自殺した、その霊を供養するために建てられたそうですが、なぜこの地に建てられたのかは定かでありません。

 六才橋は、上森田2丁目地籍の北陸道から春江町に至る道路が春近用水に架かる橋で、昔は道も狭かったので石板が六枚並べてあったそうです。

 このことから六枚橋といわれていましたが、いつの頃からか六才橋と呼ばれるようになりました。

 この付近一帯は昔は女竹の原で、その中を用水が流れていて薄気味の悪いところであったようです。

明治の終わり頃までは女竹の背が高くて、隣村の定正まで見通すことができなっかたといわれます。


稲多宿(舟橋宿)の一里塚碑
六才地蔵

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