このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街道の風景


北陸街道(3)



6 振袖地蔵とその由来(坂井市坂井町上関)

上新庄にあった地蔵堂から更に北進しますと、上関の南はずれ、一面、田園風景が広がった道路西端に一本の松が立っております。

 その根元に地蔵堂が安置され、傍らの石碑には次のように記されてありました。

 「区の古老による語り伝えによれば、天保7年(1836年の天保大飢饉)の飢饉は、百年に一回という稀にみる異常なもので、

 春先から低温と多雨に見舞われ、旧暦4月7日(陽暦5月21日)雹が降るようなことで、梅も桜も咲かず、秋になっても稲穂が半分しか出ないという大凶作となった。

 そのため、餓死するものは福井藩で六万人にも達する悲惨なものであった。

 食べ物を求めて、この地に来るものの姿は、まるで幽鬼の如く、ひどいもので野垂れ死にするもの数多くあり、特に哀れを誘ったのは娘たちが振袖を着たり、また、振袖を抱えての餓死者であった。

 そこで、これを哀れみ地蔵を祀り、そこに振袖を刻み、また、振袖を着せて供養したことが今に伝えられている。

 当地域にある大関音頭に『関の地蔵さん振袖姿、かたい心がしおらしや』と歌われている。」と記されてありました。


振袖地蔵遠景
振袖地蔵の由来石碑


7 石団子の地旧跡の由来(坂井市坂井町下関【舘】)

北陸道を更に北へと進みますと、下関の北はずれ近くに石団子の地と記された石碑があり、その横に由来が書いてあります。

 「承元元年(1207)親鸞聖人は、無実の罪を負うて越後の国府に遠流となり、

京都から越後に到着されるまで、その道中はまさに言語に絶する御難渋の旅であったと察せられる。

 ここ北陸道にあたる下関地区を通られしみぎり、お休みを兼ねて一民家に立ち寄られ、

お腹も空いた頃とて、聖人は目の前にある団子を1つと所望された。

 ところが老婆は娘に持たせる土産といって施さず、この場を立ち去るようにと振舞った。

仕方なく聖人は、静かにお念仏を口ずさみつつ、弟子とともにその家を立ち去り、細呂木へと向かわれた。

 その後、娘は団子を試食してみると、団子は石のように固くなり、火にかけても焼いても食べられず、母子はどうしたことかと驚き極まった。

 老婆思えらく、吾れ、娘可愛さのみに捉われ、御出家に施しをせざる報いぞと、吾が身のあさましさを恥じ入り、心静かに悔悟懺悔せり。

 このように不思議な奇跡を示されし旅の御出家こそ、ただ人ならじと、立ち去りし方に向かい

伏し拝み、それより母子とも仏法を大切にされ、無この念仏者となられたと伝えられる。

 これ今に伝わる『石団子』のご遺跡の由来である。」と記されてあります。


石団子の地石碑
石団子の地旧跡の由来


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