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北陸街道(3)

〜府中宿(武生市)


武生町内の北陸街道(大正時代)武生市内の北陸街道(昭和41年頃)


 当地は南北朝期(1331〜1390)以降、守護所が置かれたことから府中または府と呼ばれるようになりました。また、古代の国府を継承する所と推定されています

 慶長5年(1600)結城秀康の越前入封に伴い、翌6年(1601)家臣本多富正が府中を領することになりました。

 本多富正は町用水の整備、北陸街道東の河原地整備と併行して町割に着手し、朝倉氏の府中奉行所跡に府中館(御茶屋)を置き、そこを中心に周囲を侍屋敷で囲みました。

 街道の西の方は中世から多くの寺屋敷があり、町屋はほぼ街道以西、各寺屋敷にかけて形成されました。

 寛永2年(1625)には町人の町数18、家数884軒でしたが、延享元年(1744)には本町の数が18町、家数1,199軒、人口5,866人となりました。

 新しく町に組入れられた町外12町、家数648軒、人口3,598人を加えますと家数1,747軒、人口9,464人と相当増加しています。

 当時の府中領2万石は、越前国内にかなり分散していて、その総人口は11,322人にすぎませんでしたから、

 府中は南条、今立、丹生三郡の他藩領や幕府領にも影響を及ぼす大きな町であったことが分かります。

 北陸街道は府中町の中央を南北に走り、その街道に沿って町屋が建ち並び、街道の真ん中には町用水が流れて、町民の飲用水などに利用されました。



総社大神宮引接寺山門


◎ 総社大神宮(武生市京町1丁目)

 古代、国司は毎年国内に鎮座する主な神社を巡拝することになっていましたが、やがてその労を省くために神々を一箇所に合祀した総社が建てられました。

 さらに天平11年(739)聖武天皇が諸国に勅
(みことのり)して大己貴命(おおなむちのみこと)

 各国の総社に合祀することになり、武生の総社も現在、大己貴命を祭神とし、創建の年を天平11年としています。

 盛時は社領百十余町、社家数十家を誇った総社も、室町以後、打ち続く戦乱のため衰退しましたが、越前守護朝倉孝景や織田信長らの保護を受けて再興されました。

 前田利家は朝倉時代の府中奉行所を拡張改築して府中城としましたが、その際、二の丸にあった

 総社を度重なる兵火で焼かれ荒廃していた国分寺境内に移し、社殿を造営したといいます。

 その後、本多富正は社殿30石を寄進し、以後、歴代の保護を受け、今も武生の氏神として市民に親しまれています。


◎ 引接寺(武生市京町3丁目)

 天台真盛宗(総本山は大津市西教寺)の開祖真盛によって創建された別格本山です。

 真盛は三重県一志町大仰に生まれ、比叡山に学び、天台の円頓戒を守り、称名念仏を唱える戒称二門の教えをもって天台の一派を開きました。

 文明17年(1485)後土御門天皇の求めに応じ、宮中で「往生要集」を講じましたが、このとき布施の品々をすべて辞退し”天性無欲の聖”といわれました。

 長亨2年(1488)長野の善光寺参詣の帰途、府中に立寄った真盛は、総社に参詣して奇蹟をあらわし、人々の尊信を得て引接寺を創建しました。

 また一乗谷の朝倉貞景に招かれ安養寺で「往生要集」を講じ、貞景らに戒を授けています。

 以後、5回越前にきて朝倉氏保護のもと大いに教線を拡大し、貞景の弟、真慶は引接寺第二世になりました。


龍門寺遠景(旧北陸街道から南西を望む)と本町寺院群
龍門寺龍門寺本堂


◎龍門寺城跡(武生市本町)

 正安元年(1299)悦岩宗禅によって開かれたと伝えられます。天正元年(1573)越前朝倉氏

 攻略に乗り出した織田信長は、8月府中に入り、この龍門寺に本陣を置きました。

 朝倉氏滅亡後、越前守護職になった桂田長俊の圧制に対する民衆の不満が高まると、翌年1月

 龍門寺城主富田長秀は、一向一揆衆とともに一乗谷を攻め、長俊を自害させ越前の支配権を握りました。

 しかし、越前の門徒領国化を夢見ていた一向一揆勢は、同年2月府中を包囲して、長秀は長泉寺(鯖江市)で敗死します。

 こうして一時、越前も門徒領国が誕生しますが、内部抗争が始まったのを機に織田信長は、

 天正3年(1575)8月、再度大軍を率いて越前に侵攻したため、一向一揆勢は総崩れとなります。

 信長勢は龍門寺城を占拠して、近辺の一揆の坊主や農民に徹底した弾圧を加えました。

 その後、府中三人衆が置かれますが、その一人不破光治は、この龍門寺に居を構えました。

 天正13年(1585)府中城主となった木村定光は、若狭の佐柿、徳賞寺から蒼岳誾竜を招き、龍門寺を再興しました。

 慶長6年(1601)府中領主となった本多富正は、府中城を改修して居城に定めたので、ここは城としての機能を失いました。

 現在も寺の南と西に高さ1.5mの土塁が残っており、門前以北一帯は古城、門前以南西隣の大宝寺までを下の濠と称しているのは、かっての名残りです。

〜今宿(武生市今宿町)


日野山遠景大塩八幡宮


 天正11年(1583)の羽柴秀吉禁制写の宛所に「今宿駅」と見え、当地が戦国期に宿場として発展していたことが知られます。当地には駅馬8匹が置かれました。

 元禄年間(1688〜1707)頃の駄賃は、今宿〜脇本間が本馬30文、半馬18文、人足15文であったといいます。

 府中宿(武生市街)から脇本宿(南条町脇本)までの里程は1里28町18間(約7km)でしたが、

 今宿は、両宿のほぼ中間にあたり、新しく旅籠が建ち「今宿」と呼ばれることになったのでしょう。


◎ 日野山(雛ヶ岳、日野ヶ岳、日永岳など)

 武生市の東南部、南条郡南条町との境にある標高794.8メートルの山で、古来山岳信仰の対象となり、山頂に日野三所権現を祀り、未明登山の風習があります。

 古くは7月23日に氏子と近郷各地の信者が松明を手に集団で登山して終夜かがり火をたき、この火の見える町内では迎え火を焚いて鎮火祭をしたといわれます。

 現在も毎年8月23日の例祭に夜間登山し、翌朝御来光を拝んで下山しています。


◎ 大塩八幡宮(武生市国兼町22-2)

 仁和3年(887)大谷口泉嶋に流された紀中納言友仲が胸中に岩清水八幡を勧請して帰洛を祈願したところ、

 その甲斐あって許されたので、寛平3年(891)この地に岩清水八幡を勧請したのが始まりといわれます。

 その後、寿永2年(1183)源義仲が戦勝を祈願し軍議を開いた際、拝殿が炎上したため、杣山日吉山王社の拝殿を3日3晩で移築したといいます。

 建武年間(1334〜1338)には斯波高経が当社を造営し、以来朝倉、織田、松平氏などの信仰を集めました。

 室町時代の大型拝殿の数少ない遺例として貴重なものです。


〜脇本宿(南条郡南条町脇本)


 当地は古くから北陸街道の宿場として栄え、江戸期、街道の宿場として駅馬11匹と人足12〜13人を常備し、

 大名通行の際には脇本宿への助郷として南条郡13村、大野郡43町村、今立郡2村の計58村が当てられました。

 当村の中山家は、代々福井藩の大庄屋で近郷46か村の取締りにあたり、宿の本陣、問屋職を長く勤めたそうです。


◎ 関ヶ鼻(鶯ノ関)

 脇本宿を通り過ぎ、まもなく鯖波宿にさしかかる辺りに「関ヶ鼻」がありまが、ここは継体天皇の息女「関姫」の所領地説と関所存置説があります。

 東側には日野川が流れ、西には蓮光坊山が迫り、菅谷坂から下りてきた若狭道が北陸街道に合流して、

 これを受けて軍事的にも経済的にも「関」を構えるに格好の場所でありました。

 俗にいう「朝倉街道」は、ここを起点に日野川を渡り、牧谷峠を越えて一乗谷へ向かったといわれます。

 朝倉氏は燧山、杣山と、この関ヶ鼻を南西方面に対処する軍事的な拠点にしました。

 また、下欄の「鶯の関跡」石碑写真にありますように、鶯の関ともいわれ、「うぐいすの啼きつる声にさそはれて

 ゆきもやられぬ関の原かな」という歌から鶯の関と呼ばれるようになったそうです。

松尾芭蕉は「奥の細道」で「(玉江から)鶯関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば」と記しています。

〜鯖波宿(南条郡南条町鯖波)


旧鯖波本陣石倉家住宅鶯の関跡

 
「太平記」に「鯖波ノ宿」と記され、南北朝期から見える地名で、ここには関所がありました。江戸時代には街道の要衝として駅馬7匹を常備した宿場でした。

 当村の石倉家が世襲で本陣を勤めていました。天保12年(1841)の村記録によると商売を

 営むものは13軒あり、当村最大の高持であった石倉家、宿問屋と酒造荒物ならびに豆腐商を兼ねていた

 吉兵衛、紺屋職甚兵衛を除き、ほとんどが無高雑家で、小間物並びに米小売1、小商人3、旅籠屋3軒、

 木賃小宿2軒、茶屋店2軒のほかに馬借5と少数の渡し守がいて、当時の宿場の様子が窺われます。

 当時、問屋は利益のある商人荷物の独占を図り、他の宿民には無賃の公用伝馬を押し付けようとしたため、宿問屋と宿民との対立がしばしば起こりました。

 その原因は、府中と河野を結ぶ西街道から敦賀への諸物資運送が盛んになるにつれ、

 商人荷物が北陸街道を通らなくなり、逆に経費のかさむ諸大名、寺社などの通過が増えたためです。

 なお、脇本宿から鯖波宿までの里程は約1里ありました。


◎ 旧鯖波本陣石倉家住宅

 石倉家は、かって北陸街道の越前鯖波宿の本陣でした。幕府巡検使や参勤大名の宿泊に使われ、江戸時代末期には人馬継立て問屋も営んでいました。

 写真の建物は、昭和41年(1966)南条郡南条町鯖波から石川県金沢市江戸村に移築されました。

 切妻造り、妻入り、桟瓦葺き、間口6間、奥行6間半に下屋を巡らしたもので、玄関部分は、庇の下を吹き放してあり、大屋根は強い勾配で反りをつけ、

 大きな鬼瓦をのせて白壁で引締めて一見、寺院の庫裏を見るようで、当時、街道筋では、ひと際目立った建物でした。

 建築年代は不明ですが、土蔵が文化4年(1807)に移築されているので、ほぼこの時期と考えられます。

 北陸街道の本陣として保存の良い数少ない建物の1つで、昭和46年(1971)12月28日、重要文化財に指定されました。


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