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街道の風景




福井〜小舟渡


勝山城址の碑勝山城址(勝山市元町1丁目)


1 勝山街道(福井市〜小舟渡)

 勝山街道は、別名志比道とも呼ばれ、福井城下の志比口を起点に、丸山、新保、

 上中、玄正島(枝村に島橋)【以上福井市】を通って、松岡藩の城下町【松岡町】へ入りました。

 松岡城下を通過すると志比堺【松岡町】、東古市、山王、市荒川(枝村に中島あり)【以上上志比村】を経て、

 小舟渡の舟渡しで九頭竜川を渡り、 森川、滝波【勝山市】などを通って、勝山城下【勝山市中心街】に至りました。

 福井〜勝山間の距離は約26キロメートルですが、さらに勝山から大野・坂谷を経由して、郡上八幡へと通じる重要な街道でした。

 それでは江戸時代に思いを馳せ、勝山街道を歩いて行きます。


◎ 福井城下志比口【福井市志比口町】から島橋村【福井市島橋町】

 福井城下の松本村(町)を通る北陸道から勝山街道は分岐し、街道に沿って志比口の町並みと近くを流れる芝原用水

 に沿って丸山、新保、下中の各村を通って、上中村入口の追分で永平寺道が分岐していました。

 街道は芝原用水の屈曲に従って北へ曲がり、永平寺道は原目村方面へ東進し、江戸後期、この追分には茶屋ができ、鮎の木葉鮓が名物でした。

 今は道端に永平寺第38世筆の石碑が建ち、北西約300メートルに越前鉄道追分口駅があります。

 追分で北に曲がった勝山街道は、さらに東に折れて芝原用水に沿って東進し、玄正島村の枝村である島橋村に向かいました。

 島橋村は、芝原用水に架けられた長さ9間(約16.2m)、幅2間(約3.6m)の島橋に由来し、この橋を渡って街道は松岡町へ向かいました。

 江戸後期、橋の付近には茶屋が立ち、飴が名物だったといわれ、また、蛍の季節には大勢の見物客で賑わったようです。

 島橋を過ぎると福井藩と松岡藩の境界であった大廻があり、道が直角に曲がり、下座場と呼ばれる広場がありました。

 松岡藩主の参勤交代時には、家臣達はここで藩主を見送ったり、出迎えたりしたといいます。 この付近の地図参照


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芝原用水【福井市新保2丁目608付近】永平寺道分岐点【福井市上中町追分】


◎ 芝原用水【福井市・松岡町】

 芝原用水は御上水ともいわれ、吉田郡松岡町志比堺で九頭竜川から取水し、福井城下の飲料水として長年利用されました。

 取水口が中世の芝原荘の地に当たることから、その名がつきました。

 慶長12年(1607)北ノ庄城(後の福井城)を築城するときに結城秀康が家老本多富正(府中城主)に命じて、

 城下に住む武士や住民のための飲料水や城濠の水を補給し、さらに城外域の水田灌漑用水として整備させました。

 江戸期の用水は、城下の武士や住民の飲料水にあてることを第一とし、灌漑に用いることは従属的に考えられていました。

 このため芝原用水のことを「御上水」と呼び、福井藩の上水奉行のもとに管理されていました。

 また、この用水は中ノ郷地区の二口において内輪、外輪の両用水に分かれ、内輪用水(御上水)は城下に導入されて主に飲料に使用され、

 外輪用水は主として東藤島の北部、中藤島、西藤島地方の水田を養う灌漑用水として利用されました。

 さらに内輪用水は、東藤島南部、円山地方を養う三ツ屋、桜などの用水に分かれ、

 飲料水以外に約2,200町歩(2,182ha)、4万450余石の水田に使用されました。

 一方、芝原用水の清浄を維持するため、町うちでは町奉行の指揮により各自が関係地係の掃除を行いました。

 また、川上では郡奉行指揮で川筋の者が一戸一人づつ出て川浚えを行いました。



西超勝寺御堂東超勝寺御堂


◎ 超勝寺(東超勝寺・西超勝寺)【福井市藤島町】

 追分を過ぎ、芝原用水に沿って勝山街道を東進すると、街道からやや外れた左手(北方)の藤島林村【福井市藤島町・林町】に立派な寺院の屋根が見えます。

 江戸初期、本山である本願寺が東西二派に分かれたため、超勝寺も東超勝寺と西超勝寺に分かれました。

 明徳3年(1392)5月、本願寺五世綽如(しゃくにょ)が創建し、その次男頓園・鸞芸(とんえん・らんげい)が住持となったという名刹です。

 蓮如の北陸布教で由緒あるこの寺が全国に名を馳せたのは、戦国期の一向一揆に際し本願寺勢力の拠点として、

 また越前門徒の先頭に立って朝倉貞景や織田信長らに対抗して活躍したことによります。

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◎ 藤島庄【福井市内】

 超勝寺の項で藤島林村の名が出たので、平安時代から白山平泉寺と縁の深い藤島荘について触れておきます。

 この村は中世、藤島庄の中心地で、藤島庄は九頭竜川中流域の南側一帯を荘域とする広大な荘園であり、東には志比庄がありました。

 建永元年(1206)12月の慈円起請文(門葉記)に平家没官領として源頼朝が領地した後、平泉寺に寄進しています。

 ただ、それ以前の寿永2年(1183)5月、源義仲が藤島7郷を平泉寺に寄進したことが「平家物語」にありますので、

 これが藤島庄と同一であるならば頼朝の寄進は、義仲打倒後、その寄進を追認する形で行われたことになります。


藤島城址松岡藩館跡とお館の椿


◎ 城下町松岡【松岡町】から小舟渡【上志比村藤巻】

 松岡藩主を送迎した大廻を過ぎると城下町松岡で、街道は城下の土居、外堀の外周につくられた町内を

 屈曲しながら東西に通り、町場は東から窪、椚、毘沙門、台、本、極印、室、観音と続いて松岡8町と呼ばれました。

 現在、町の中央に新道が東西に縦貫し便利ですが、当時は藩主の御館の周りを12回曲がって志比堺村へと向かいました。

 城下から志比堺村【松岡町】法寺岡村【永平寺町】を通過すると東古市村【永平寺町】で、ここで街道は十字に交差します。

 これは松岡で吉野から入ってきた朝倉街道を合わせた道と宇坂大谷、市野々を経てきた道とが交差し、戦国期いずれも軍用道として一向一揆に対処しました。

 右へ折れて南進すれば永平寺へ、左に折れて北進すれば鳴鹿の渡しを渡って丸岡へと続きます。

 東古市村を過ぎ、高橋、谷口、花谷、光明寺、轟【以上永平寺町】野中、牧福島、山王、

 栗住波、竹原、市荒川、藤巻【以上上志比村】の各村々を通過して小舟渡に至りました。


◎ 松岡藩と松岡町【吉田郡松岡町】

 当地は江戸初期まで越前国吉田郡の芝原江上村といい、南北朝期に見える芝原郷は、

 芝原江上、吉野堺、志比堺、立脇、島の5か村を包含する広大な地域でした。

 しかし、江戸期の芝原は、これより狭く室、椚、窪のいわゆる芝原江上村に志比堺村を加えた地域を指しました。

 正保2年(1645)福井藩主松平忠昌の庶兄昌勝が5万石を与えられ、芝原江上村に居館を建て、

 その周囲に家中屋敷(5万8,000坪)、足軽等の組町(1万4,000坪)をあてて城下町を建設しました。

 この居館は地内中央に7,780坪を有した藩邸で、周囲に土居、外堀が造られ、

 その境に屈曲させた街道を東西に通し、街道に沿って松岡8町をつくりました。
 
 松岡藩は77年間続きましたが、享保6年(1721)二代藩主松平昌平が福井藩を継いだため廃藩になりました。

 家中はすべて福井へ引越し、社寺のうちから引き移る者も出て、城下町松岡は、

 広大な空き家敷地(明屋敷)が生じるとともに街道沿いに町屋だけが残され、寂しくなりました。

 このため福井藩は松岡特産の鋳物、酒造などの保護育成に努めるとともに、藩札発行の札所や火薬製造所

 を設けるなど振興策を講じたことにより、次第に福井東部の在郷町としての地歩を回復していきました。


◎ 東古市村【吉田郡永平寺町東古市】

 江戸初期までは、山方と里方の物資交易を行う谷口集落的な機能を持っていたので、この村名が生まれました。

 当初、福井藩領でしたが正保2年(1645)松岡藩領に替わり、享保6年(1721)から再び福井藩領になり、勝山街道の宿駅の1つでした。

 戦国時代から朝倉時代にかけては、軍用道路(朝倉街道)が交差する重要な要所でした。


◎ 山王村【吉田郡上志比村山王】

 江戸初期は福井藩領でしたが、寛永元年(1624)大野藩領となり、その後、文政3年(1820)福井藩領、天保2年(1831)幕府領となりました。

 勝山街道の宿場で、特に大野藩主が福井藩主松平氏の一族であった頃は、福井と大野の中継地として利用されました。


◎ 小舟渡【吉田郡上志比村藤巻】

 この街道の難所といえば、中島村(上志比村藤巻)で九頭竜川を渡らなければならないことでした。

 なぜなら藤巻から東方の九頭竜川左岸は、断崖が連続する「歩危(ボキ)」だったため、舟渡しで右岸の森川村へ渡りました。

 舟渡場を[小舟渡]と呼びました。時代は下り、明治15年(1882)20艘の舟を使って舟橋が架設されましたが、人は1銭、馬は3銭を徴収される賃取橋でした。


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   勝山街道(2

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