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北  川



北川中流北川中流


1 北川について

 福井県若狭町境にある滋賀県今津町の三十三間山東面を水源地にして、若狭町上中地区を貫流し、小浜市街の東方で小浜湾に注ぐ延長30km、流域面積437平方㎞の一級河川です。



2 川名の由来

 小浜城の北を流れているから北川だとか、南川に対し北川だとかいわれ、小浜藩資料には丹後川とも書いてあります。

「北川」の呼称は、小浜城の北側を流れていたから、そう呼ばれたようですが、方角で見るなら東川と呼ばなければなりません。

 丹波境の奥名田から流れてくる南川に対して、語呂の上から「東川」と呼ぶより、「北川」と呼んだ方が良かったのではないでしょうか。

 江戸時代の元禄初期、丹後宮津藩奥平家より、小浜を通じ京へ運搬する米は4万俵といわれ、専ら川舟に頼ったことから、

 丹後様の米を積む川舟が略され、次第に川の名まで丹後川と呼ばれるようになったといいます。



3 北川の主な支流

 滋賀県内、三十三間山の上流で南流し、天増川と呼ばれて、やがて西流し、その向かい側、椋川谷の奥から北流してきた寒風川と若狭町大杉の上手で合流、北川と名を変えて西流します。

 若狭町熊川付近で河内川を合わせ、同市場で鳥羽川、同野木で野木川と合流、続いて、小浜市国分寺の下手で松永川を合わせ流下してくる遠敷川と合流し、さらに小浜市和久里で多田川を合わせて、小浜市街に入って小浜湾に注いでいます。



北川とその支流図


4 小浜城建設のため河川改修

 大津城主京極高次は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際、大津城に立て籠もり、西軍豊臣方の城攻めを防ぎ、時間を稼ぎました。

 この功労が関ヶ原合戦を勝利に導いたと認められ、大津城主6万石から若狭国と近江国高島郡を併せた、9万2千石を拝領し小浜城主に転封されました。

 新領主は、小浜の南方、後瀬山の山上にあった武田氏の旧城を廃し、小浜下竹原にあった漁師町を西津に移転させ、その跡に、新たに築城、家臣団の屋敷をつくりました。

 両河川の河口付近は、当時、蘆が茂る沼地でしたが、北川と南川が寄り合う沼地を埋めて、ここへ町方を移したといいます。

 小浜城は、両河川を利用した築城方法がとられ、河川が城を守る濠の役割を果たしました。城の石垣だけは、今も昔の姿を残し、当時の様子を偲ばせてくれます。



北川を挟み小浜城址を望む小浜城址の石垣


5 北川の川舟輸送

 京極家は、小浜に転封後の慶長10年(1605)、寛永8年(1631)の頃、河川修復のため、川筋普請(川浚、護岸、築堤工事)を行いました。

 当時、すでに小浜・今津間を輸送される荷駄の数は莫大な量に上り、北海からの荷物も運ばれ始めた頃だけに、

敦賀に代わって、これらの荷物を請け、川舟と馬借の両方で荷捌きするための普請でした。

 寛永11年(1634)、藩主京極忠高は、築城途中で出雲へ移封され、酒井忠勝が武州川越(埼玉県川越市)から若狭11万3500石藩主として後を継ぎました。

 酒井氏は、京極氏の築城を引き継ぎ、天守閣の造営に着手、寛永19年(1642)、40年余の歳月をかけた小浜城を完成させました。

 以来、酒井家14代、237年間の居城となり廃藩置県を迎えました。酒井氏は城郭とともに、城下町の整備も行い、旧南川の河口を内湊とし、

下流の流路で、東の武家屋敷区雲浜と西の町人居住区小浜の境界としました。内湊の西岸には舟奉行所や豪商の蔵屋敷が並びました。

 酒井家が小浜藩主になった後も、川普請や百姓による川岸の柳切りは行われ、元禄の頃(1688〜1703)には、川舟座が設けられて業者相互の間で規約が定められました。

 川舟輸送は小浜板橋から熊川まで行われ、この川筋を小浜藩資料は「丹後川」と記しています。

 規約内容のあらましは、舟の大きさや積荷などに関して、舟幅は4尺9寸まで、一艘の積荷は12駄まで、16貫目の荷なら36個、18貫目の荷なら28個までとし、

 川舟一艘に5人、2人の船頭棹さしと3人の舟引きが一組になって舟に乗り組みました。この場合、船頭棹さしは日当米5升、水主・船引きは米3升ずつでした。

 これらの人達は小浜町、高塚、瓜生辺りから出ていたようで、舟賃は馬借と同値で、一駄につき大豆1升5合とあり、運賃は米立と大豆立の2方法が採用されていました。

 この川舟輸送も元禄の末(1703)には、川越善右衛門ただ一家となり、持ち舟も14〜15艘に激減しています。

 その理由は、水害などで土砂が流出し、川底が浅くなるなど川舟輸送が難しくなってきたためです。

 正徳の頃(1711)、川舟輸送は神谷村止まりとなり、更に延享4年(1747)、神谷村までも不可能になり、舟影は消えました。



6 北川の災害

 災害は幾度かありましたが、特に、享保14年(1729)8月と享保20年(1735)6月の2度に及ぶ大きな洪水の影響が大きかったようです。

 この時、流出した土砂流が河道を一変させ、小浜から神谷まで上った川舟も遡航不能となりました。



7 北川の漁業

 寛永17年(1640)頃、小浜町内の川舟引13人、ざるふり四十物155人、鵜匠7人等と「小浜家業記」に書いてあります。

 この鵜匠は、小浜町内だけの人数ですから、村方は含まれていません。この7人の鵜匠は、北川と南川を漁場として鵜飼をしたのでしょう。

 村方を入れると、かなりの鵜匠がいたことになります。鵜飼、川舟引は、川水が深くなければできませんから、

北川は、川舟が往来し、篝火を焚いた舟が下れるほど豊かな水量の時代もあったのでしょう。

 川舟輸送が絶えた後の宝暦・明和(1751〜1771)の頃でも、北川の川役銀(川魚を取る税)450匁の記録が残っています。

 これだけの役銀で、当時20俵の米が買えたといわれます。漁師たちはアユだけでなく、マス、サケも獲ったといいます。

 北川の水源地である天増川の天増村(今津町)付近までマスが遡上したといわれ、ここではマスを燻製にして保存したといわれます。



8 北川沿いの街道と宿場

(1) 九里半街道


 小浜から熊川宿までの北川沿いを、九里半街道(熊川街道・若狭街道)が通っていました。

 主な経路は、小浜、遠敷、神谷、日笠、三宅を経由し、国境近くの熊川宿に至ります。

 熊川宿からは、若狭・近江の国境を通過し、水坂峠を越えて保坂から琵琶湖岸の今津へ至りました。

 この街道は、古代から若狭の海産物など諸物資を都へ運ぶ道筋として重要視されていました。

 江戸期には。小浜湊で陸揚げされた北国からの諸物資を京都、大阪へ送る街道として栄え、最盛期には、年間2万駄の通行があったといいます。

 このため、寛永8年(1631)に川舟九右衛門の普請によって、北川の小浜・熊川間が川舟で運航できるようになりました。

 こうして、この街道と北川を馬借や川舟、人の背によって、小浜湊で陸揚げされた諸物資が運ばれました。



熊川宿熊川宿


(2) 熊川宿

 北川上流域の山間部に位置した集落で、古代から若狭の海産物を都へ運ぶ道筋に当たり、軍事的拠点としても重視された所です。

 室町期には、沼田主計が熊川城を築き、その子勘解由が城主になりました。

 沼田氏の在城は、永禄12年(1563)頃まで続きましたが、北川上流右岸、瓜生村を本拠とした松宮玄蕃允清長に敗れ近江へ落ちました。

 その後を清長の子左馬亮が城主になり、元亀元年(1570)織田信長が朝倉義景討伐で越前へ侵攻の途中、熊川に着陣すると、若狭国内の諸将とともに信長を迎えました。

 天正7年(1573)若狭国領主浅野長政は、交通の要衝である熊川を諸役免除の地とし、熊川陣屋を設けて、町奉行を置くなど宿場町発展の基礎を築きました。

 江戸期は小浜藩領、村高172石余〜220石余の村で、元和5年(1619)諸役免除の地と定められ、

 以後、小浜湊に陸揚げされた北国からの諸物資を京、大阪へ送る街道筋の重要な宿場町として栄えました。

 元禄15年(1702)には問屋職6人、その後8人となり、享保11年(1726)の熊川宿の家数は213軒、人数1175人がいたといいます。

 ここは西国33ヵ所の巡礼が丹後から小浜、熊川を経て、近江の竹生島へ通う道筋にあたりましたから巡礼道とも呼ばれ、商人のほか多くの巡礼者が通行しました。

 このため、熊川は街道の重要地として口留番所が置かれ、主に女人の通行を改めました。

 明治初期でも、まだ問屋旅籠14軒、荷負稼ぎ60余戸があり、問屋の倉庫は、川に面し、陸揚げする路地には、平らな川石が敷き並べてありました。

 この倉庫は川舟が発着しなくなった後も使われ、今も名残を留めています。


主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
河川のルーツ       上杉喜寿著





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