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九頭竜川(1)

九頭竜川と荒島岳九頭竜川と大野盆地


1九頭竜川について

 越美国境(福井県・岐阜県)の油坂峠を源にする九頭竜川は、大野郡和泉村から九頭竜峡谷を抜けると

 大野盆地(大野市)にある大野市から勝山市、上志比村、永平寺町、松岡町と北流していきます。

 そして永平寺町の鳴鹿橋付近で福井平野に出ると西に向きを変え、福井市高屋において

 日野川と合流、進路を北西に変えて三国町で日本海へ注ぐという流路延長116kmの大河川です。



2川名の由来につい

 昔から語り継がれてきた「九頭竜」の由来を、いくつか紹介しましょう。

(1) 九頭竜川説

 寛平元年(889)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべました。

 すると九つの頭を持った竜が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒竜大明神の対岸に泳ぎ着きました。

 以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶようになったということです。これは「越前名蹟考」にある説です。

(2) 黒竜川説

 これは天地創造の頃にいた神に由来するというものです。天地創造の頃、国の四方にそれぞれの神がいました。

 東には常陸の鹿島大明神、西には安芸の厳島大明神、南には紀伊の熊野大明神、そして北には越前の黒竜大明神です。

 「越前国主記」によると、北国では国家鎮護のために国内随一の大河の岸に黒竜王を奉り、それを黒竜大明神にしたといわれます。

 大河が黒竜大明神の前を流れるということで「黒竜川」と呼ぶようになり、これが転じて「九頭竜川」になったというものです。

(3) 崩川説

 この川は、昔からたびたび洪水を起し、激しい水流が川岸を削り、川の流れや姿を崩しました。

 このため「崩川
(くずれがわ)」と呼ぶようになりました。それが訛って「九頭竜川」になったという説です。

 実際、文明12年(1480)に記された「大乗院寺社雑事記」には「崩川」という名で記されてあります。



3九頭竜川の主な支流

 越美国境の油坂峠付近に源を発する九頭竜川は、昭和43年(1968)和泉村内に九頭竜ダムが完成するまでは、荷暮川、面谷川、伊勢川を合わせて西流していました。

 ダムの下流において石徹白川を合わせて大野市へ入ると打波川を合わせ大野盆地に出ました。

 大野盆地では小河川の旅湯川、唐谷川を入れた後、中河川の真名川を合わせて勝山市へ入り、

 女神川、浄土寺川、暮見川、滝波川、鹿谷川、皿川を合わせて上志比村を通過し、永平寺町へ入ります。

 永平寺町では吉峰川、岩屋川、永平寺川を合わせて松岡町を通過して福井市へ入ると大谷川、五領川を合わせて西流していきます。

 福井市高屋町付近において越前第2の河川、日野川と合流して方向を北西へ転じ、磯部川、

 七瀬川、片川を合わせて三国町内で竹田川を合わせると三里浜砂丘の北端を経て日本海へ注いでいます。



4九頭竜川と河川交通

 古くから人々は、陸路には峠越えが多かったため、穀物など重い荷物の輸送に苦労しました。

 そこで舟を利用した海、湖、川を利用する水上交通が発達しました。

 九頭竜川流域には、奈良時代は東大寺荘園、平安時代には興福寺兼春日社領荘園が多くありましたので、

 流域で産出された穀物などは、舟で三国湊に集められ海路を敦賀まで廻送されました。

 敦賀で陸揚げされた産物は、駄馬に積み替えられて、陸路を琵琶湖の北岸にある海津、塩津まで運ばれ、

 次に琵琶湖水運を利用して大津まで廻送され、再び、荷揚げされて陸路を都へと運ばれました。

 こうして水上交通が盛んになってきますと、良港や街道と交差する河川付近には、市が立ち、人々が集まって発展していきました。



(1) 舟運路の発達

 九頭竜川は本流、支流とも、昔から舟を利用した輸送が盛んに行われました。

 特に嶺北七郡の諸物資は、舟で九頭竜川などを下り、日本海沿岸にある交通の要地、三国湊に集まりました。

 近世、三国湊と越前国内の諸河川を往来する舟は、次の地域まで舟運路が開かれていました。

   九頭竜川の本流は勝山(勝山市)まで53km

   日野川は今立郡舟津村(鯖江市)まで約48km

   足羽川は足羽郡酒生村(福井市)まで約36km

   浅水川は今立郡中河村(鯖江市)まで約20km

   竹田川は坂井郡金津(金津町)まで約14km

 最も利用度の高かったのが三国湊〜福井間を往来する舟で、昼夜の別なく舟運の便があったといわれます。


越前国の舟運路越前・若狭の海路


(2) 諸物資の川舟輸送

 近世、三国湊は福井藩領に属し、藩の外港として保護・統制されていました。

 越前国内にある諸藩や幕府直轄領は、年貢米を川舟輸送で三国湊に集め、海路によって江戸や大坂へ廻送しました。

 このため、三国湊には福井藩や幕府の米蔵のほか町人の町蔵が多数建ち、各藩がそれを借用して、川を下ってきた年貢米を一時的に保管しました。

 各藩の米蔵は福井藩が福井城下近郊の明里(福井市)をはじめ三国湊など、

 丸岡藩が坂井郡滝谷村(三国町)、鯖江藩が今立郡有定村(鯖江市)など川舟輸送に便利な所に置かれました。

 川舟が扱う商品は、米のほかに綿、木綿、生蝋、晒蝋、海産物、鉄、砂糖、塩、茶、蜜などがあり、

 足羽山で切り出された笏谷石も三国湊まで運ばれ、北前船で全国へ送られました。


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◎ 明里の米

 福井藩の米蔵は福井城下の明里、松岡、広瀬などにありましたが、そのうち最も規模の大きかったのが足羽川沿いにあった明里御蔵でした。

 この米蔵には足羽郡全村をはじめ、鯖江・金津からも舟や馬で年貢米が運ばれてきました。

 約3千坪の敷地内に間口約3間(5.5m)、奥行約10間(18m)の米蔵が34棟並び、6万俵の米を収納することができたといわれます。

 年貢米が納入された時期は10月から12月までの2ヶ月間であり、翌年の3月には御払米として蔵米が払い出されました。

 福井平野の米は藩士の俸禄として支給されたほか、川舟に積まれて足羽川を下り三国湊に集積され、明里米として大坂などの米市場で、かなりの量が売却されました。



◎ 三河戸

 文政13年(1830)6月、福井藩は河岸場に関する規定を定め、河岸場を足羽川の九十九橋下、日野川の白鬼女、竹田川の金津の3ヶ所としました。

 これを三河戸と呼び、それ以外の河岸場と区別しました。

 これは川舟で河岸まで積み上げる舟上げと川舟で積み下す舟下げの、それぞれに輸送できる商品を制限するものでした。

 この規定は、陸上輸送業を保護するため川舟輸送を制限したものですが、

 三河戸には一定の制限緩和を行い、それ以外の河岸場には商品の流通を厳しく制限するものでした。

 三河戸は、いずれも福井藩領に属しており、河川と北陸道が交差する水陸交通の拠点に置かれていました。

 しかし、こうした規定が定められた後も利便性や経済性に優れた三河戸などを中心とした川舟輸送は盛んに利用されました。

 一方、道路整備が進んでくると河川交通と陸上交通を組み合わせた輸送体系が形成され、河川交通は一層、盛んになっていきました。


現在の三国港から九頭竜川上流へ現在の三国港から日本海へ

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(3) 川舟からの口銭収入と取締り

 福井藩は三国湊の流通制限を行うとともに、湊を出入する商品に対し口銭を徴収して問屋の収入とし、その一部を藩に納めさせました。

 こうして三国湊は福井藩の保護の下、年貢米をはじめ、領内の諸産物や他国商品の取扱いによって利益を得ました。

 また、福井藩では「御舟方」と呼ばれる役人が、河川や川舟に関係する事案の取締りをしました。

 「御舟方役所」は福井城下、足羽川沿いの御舟町にあり、川舟は元禄12年(1699)に35艘、幕末に44艘となりました。

 また、川舟持の中から川舟庄屋と半役川舟庄屋、各1人が立てられ、貞享年間(1684〜1687)には三国湊に川舟問屋が29軒、上新町に3軒ありました。

 他方、日野川と足羽川の合流点付近に安居村があり、ここは川舟持の基地とみなされて、寛保元年(1741)には14艘の川舟と舟庄屋が立てられました。



(4) 川舟業者と陸上業者の争論

 寛文4年(1664)8月、福井藩は「御舟方御定法」を制定しました。これは商人が荷物を河川舟運で三国湊に集め、

 海上輸送をするため、陸上輸送業者と川舟業者とが荷物の奪い合いとなり、しばしば争論になったためです。

 この御定法は御用舟の役目を果たし、役銀を納めた川舟には極印を捺して、自己の荷物は勿論、商人荷物の運賃積も許可するというものでした。

 しかし、陸上輸送業者と川舟業者との荷物の奪い合いを避けるための取り決めが含まれてなかったため、その後も争いが絶えませんでした。

 争論の一事例を見ますと貞享3年(1686)加賀金沢から上方へ向かう荷物が北陸道を輸送される途中、金津宿から川舟で三国湊を経て九十九橋下に陸揚げされました。

 通常、荷物は北陸道を宿継ぎしながら各宿駅の馬借によって運ばれていました。

 しかし、川舟を利用すると大量に早く輸送できるうえ、費用も安く済みました。

 金津宿から福井宿の間にある長崎・舟寄宿では荷物が通らなかったため、宿駅の問屋から三国湊の商人に対し訴訟が起されました。

 そして、郡奉行から次のような裁定が下されました。
 ア)宿々を通すべき荷物を川舟に積み込む行為を禁止する。

 イ)越前国内に向け海上から三国湊に到着した荷物を川舟に積み込む
   こと
   三国湊へ陸上輸送された荷物を海上で敦賀へ廻送することは認め
   る。

 ウ)順風がないため陸上輸送に切り替えたい場合は届け出たうえ
   三国湊から長崎宿に出すこと。

 エ)越前国内から他国へ出す商荷物は川舟で三国湊に下し、それ
   から海上輸送することは認める。

 こうした裁定は、陸上輸送業者と川舟業者とが荷物輸送で共存共栄するための「御定法」となりました。



5 三国湊の盛衰

 平安時代、三国湊は興福寺兼春日社領であった坪江荘に属しており、河口荘、坪江荘の貢納物や

 越前各地の荘園貢納物は、九頭竜、日野、足羽の三河川水運によって三国湊へ集められました。

 こうして三国湊は、昔から内外の船舶が寄港し物資の集散が盛んになっていきましが、

 近世になると福井藩の保護を受け、有力な廻船業者も輩出しました。

 寛文12年(1672)河村瑞賢による西廻り航路が確立すると敦賀、小浜湊は衰退しますが、

 これに反し三国湊は嶺北の関門として、また、物資の集散地として賑わっていきました。

 しかし、明治29年(1896)福井・森田間まで北陸線が開通し、翌年には森田・小松間(石川県)まで

 鉄道が開通すると、諸物資の輸送は船から鉄道に移り、三国湊は衰退していきました。


昔の三国湊風景昔の三国湊風景


6 九頭竜川と渡し

 古代から河川は水上交通に重要な役割を果たしてきましたが、他方、陸上交通を遮断する存在でもありました。

 河川を横断するには、渡渉しやすい所を選んで渡るのが一般的ですが、増水期に渡ることは、きわめて危険かつ困難なことでした。

 しかし、律令国家にとっては少々の増水でも交通を可能にしておく必要がありました。

 そのため交通手段として架けられた橋には、浅瀬に石を並べ飛び石伝いに渡る石橋、板を打ち並べただけの打橋・棚橋のような簡単な橋、

 川底が深い所では舟を綱でつなぎ合わせ、その上に板を敷き並べた舟橋、橋脚・橋桁をもった本格的な橋など、さまざまな橋が利用されました。

 なかでも架橋困難な所には渡舟を用意し、舟1艘に2人の渡子を置くという規定をつくりました。(雑令)

 諸物資の輸送を中心として河川交通が発達していく中で、河川と交差した街道筋を繋ぐ橋や渡しも各地に設けられ陸上交通の便宜が図られました。


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