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南  川


南川中流域南川下流域


1 南 川

 大飯郡おおい町(旧遠敷郡名田庄村)と京都府境を跨ぐ尼来峠や頭巾山付近を源に北東流し、

途中、支流の田村川ほか多くの渓流や小河川を併せ、小浜市街の北で日本海に注ぐ全長約34㎞の2級河川です。

2 川名の由来

 北川に対する川として名付けられましたが、詳細は不明です。古くは名田庄川と呼ばれ、小浜市尾崎から下流は湯川と呼ばれました。

3 主な支流

 最上流に尼来谷川、野鹿谷川が流れ、小さな谷底平野を開いて東流し、名田庄村の坂本で坂本川、久坂で槇谷川、三重で久多川を合わせた後、北流し、

小浜市深野で田村川を入れて北東流、下流域で北川と複合した小デルタを形成します。河口近くの流路は小浜城下建設の時に改変されました。





4 舟運と川役

 藩政期には名田庄との間の物資輸送に専ら利用され、川沿いの谷筋が谷田部坂ー三重ー久坂ー坂本ー納田終まで続いていましたが、

中名田に難所があって荷車の通行ができなかったため、川舟で雑貨や海産物、塩などを運び上げました。

下り舟には年貢米、藁工品、木炭などを積んで運んだといいます。また、木材は筏に組んで流しました。

 しかし、南川は川魚の鮎が多く採れたので、舟運より漁業が盛んだったようで、川稼ぎが流域の村々の重要な生業でした。

 川役(税金)は、権利を有する川衆によって納められましたが、延宝5年(1677)には145人の川衆から

運上銀850匁、うるか代銀13匁、御膳鮎代銀100匁が小浜藩に納められたといいます。



5 流域交通と行商

 約9割を山林で占める名田庄地区は、嶺南中部に位置した地域です。古来、若狭湾岸から京都への最短路として物資の輸送に利用されました。

 主に知井坂、棚野坂(堀越峠)を越える道筋が丹波道として利用され、商人などの通行が多かったようです。

 主な商品は、塩鯖はじめ塩、乾物、釘、ろうそく、糸などが運ばれましたが、行先は知井坂を越えて、

 現在の南丹市(美山町)付近までだったようで、京都まで運んだ商人もいたようです。

 こうした行商は戦前まで続きましたが、大正期に敦賀〜舞鶴間に鉄道が開通し、交通機関が発達するに従い、この流域交通路も次第に寂れていきました。



堀越トンネル堀越トンネル付近


6 史跡・伝承など

ア)堀越峠


 納田終の棚橋付近から堀越谷川を上りますと京都府境を跨ぐ標高約510㍍の堀越峠があります。

 昭和26年(1951)車道が開通し、昭和49年(1974)新道の堀越トンネルが開通後、峠の存在は忘れられました。

 この道筋は、小浜、高浜から京都を結ぶ最短ルートで、周山街道への一部として古くから利用されました。

 中世末は軍事、商業上の要地として、若狭守護職武田家四家老の一人、土屋六郎左衛門が家臣の渋谷氏に命じ、小谷に築城し、この峠を守備させていたようです。

 幕末、将軍に従った小浜藩主酒井忠禄は、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、わずかな藩兵に守られて、この峠を越え小浜へ逃げ帰ったといいます。

 近世から大正期までは、塩鯖はじめ若狭の海産物や米、さらに、北海道・東北から小浜湊に陸揚げされた昆布、ニシン等が京都鶴ヶ岡へ行商人の背によって運ばれました。



土御門家墓所小松重盛塚


イ)土御門家

 わが国陰陽道の賀茂家と安倍家のうち、天文道を主として暦を編纂した安倍家のことで、土御門家とはその称号です。

 祖先を安倍清明とし、建武元年(1334)10月13日幕府は、名田庄下村を泰山府君祭料(道教の神)として安倍家に施入したといいます。

 16世紀はじめ天文博士安倍有宣は、この名田庄下村納田終の地に祠を建て天文道場を開きました。

 そして当地で朝廷や幕府と親交を保ちながら、若狭守護被官粟屋元隆らの庇護を受け、有宣、有春、有修の三代、約90年間を過ごしました。

 慶長5年(1600)まで当地で暦作りに携わっていましたが、その年、安倍家は若狭から京都倉橋家へ転居しました。

 その間、当地に京風の文化を残しました。名田庄村納田終にある墓所は、昭和32年(1957)7月30日県指定史跡となりました。



ウ) 小松重盛塚

 旧名田庄村納田終の小松地区に平清盛の嫡男小松重盛塚があります。

 元の場所は昭和63年(1988)南川砂防ダムの竣工で湖底に沈みましたが、今も湖岸の道沿いに祠と五輪塔が移され祀られています。

 小松重盛とは、平清盛の長男、平重盛(1138〜1179)のことで、平安末期、平家の隆盛とともに内大臣となり、京都東山の小松谷に邸宅があったことから、小松内府と呼ばれました。

 越前国司として敦賀と琵琶湖を結ぶ深坂峠の運河開削を試みたことでも知られています。

 名田庄の小松集落は、平重盛ゆかりの人物が山城国からこの地に落ち延び、終の棲家としたという伝説があります。

 ただ、平家落人伝説は、日本全国に150ヶ所余りあるようで、後の時代の落武者が草分けになった集落や、

木地師らが開拓した村も平家落人伝説を伝えていますので、その真偽は確かめようがありません。

 ただ、歴史的に平家は領国として越前・若狭を支配していましたので、その縁で平家の落人が名田庄の山奥に逃れ、隠れ住んだとしても不思議でありません。


主な参考文献

 
角川日本地名大辞典18福井県      角川書店
 河川のルーツ            上杉喜寿著
 福井県大百科辞典          福井新聞社





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