(9) 西(馬借)街道関連の歴史事項
〇 鎌倉時代
「けいたう坊」という山伏が舟に乗るため西街道を急いで下りてきたところ、敦賀通いの便船は、今しがた蕪木浦(甲楽城)を出航したばかりであった。
怒った山伏は、無謀にも引き返せとわめき、ついに念力をもって舟を戻したとあり、これが西街道の初見です(「宇治拾遺物語」三)。
〇 南北朝時代
◎ 北陸方面へ向かう恒良親王を気比大宮司太郎が小舟に乗せて敦賀から蕪木浦に送り届けたとあります(「太平記」巻一八)。
◎ 延元2年(1337)北朝方の斯波高経が、この道を通って蕪木浦から出航し、敦賀の金ヶ崎に立て籠もる新田義貞の南朝軍を攻めたとあります(「太平記」巻一七)。
〇 室町時代
西(馬借)街道沿いに蓮如上人(1415〜1499)や真盛上人(1443〜1495)の遺蹟が伝えられていることから、この街道を利用されたと推測されます。
〇 戦国時代
◎ 越前守護朝倉氏は織田信長の侵略に備え、街道の道幅を9尺、側溝を設けて排水に留意し
非常時の軍用道として利用できるよう配意した記録が残っています【道路普請、永正元年(1504),永正13年(1516),天文3年(1534)】。
◎ 天正元年(1573)織田信長が朝倉義景方へ攻め入った際、羽柴秀吉勢は河野浦へ上陸して今泉から西街道を通って府中へ攻め入り、
柴田勝家軍と合流して朝倉方を打ち破っています。この時、朝倉方の西街道筋の民家や寺は悉く焼き払われたそうです。
◎ 天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆攻めの際、明智光秀、羽柴秀吉の軍勢は、河野方面から府中へと攻め入っております。
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