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油 坂 峠

油坂トンネル油坂峠付近


1 油坂峠(福井県・岐阜県境)

 福井県大野郡和泉村東市布と岐阜県郡上市白鳥町向小駄良の間にある標高約800mの峠です。

 現在は国道158号が通っていますが、昔は美濃街道穴馬道が通り、穴馬越ともいわれました。

 名称の由来は諸説あるようですが、岐阜県側の坂があまりにも急で旅人が油汗を流して登ったことによるといわれます。

          峠の地図はこちらです。

 また、この峠道は江戸時代、明治以降昭和まで、現在と大きく3つに分けられます。

 江戸時代の峠は、和泉村側の油坂トンネル付近から斜面を登り、峠の頂上から岐阜県側の急勾配の斜面を油坂スキー場の方へ下っていきました。

 明治22年(1889)に峠の中腹に油坂トンネルが開通し、山頂付近の険しい箇所を通らずに済むようになりました。

 昭和14年(1939)にはトラックが通行できるように改修され、近年まで利用されていました。

 昭和61年(1985)11月、中部縦貫自動車道建設に伴い油坂トンネルより標高が約100m低い地点に新しいトンネルが開通して、

 郡上市白鳥町をはじめ中京方面への時間が、ますます短縮されるようになりました。



向小駄良御番所跡御番所前付近の旧道


2 峠下集落

(1) 市布
(福井県大野郡和泉村東市布)

 一野という名で戦国期に見える地名で、明応7年(1498)閏10月18日付、本願寺実如が市布の法善に与えた方便法身尊像に「大野郡穴馬一野」とあります。

 また、文禄5年(1595)野津俣長勝寺への帰参を誓った穴馬門徒の連署状には「市野」とあります。これが江戸時代の市布村にあたります。

 江戸時代、初め福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)からは美濃郡上藩領となりました。

 宝暦9年(1759)の諸上納明細記によるば家数14、人数95、牛2、馬5とあります。

 当村は浄土真宗門徒で穴馬八ヵ同行に与し道場がありました。明治17年(1884)大野郡内に同名の市布村があったため、東市布村に改称しました。

 明治22年(1890)上穴馬村の大字となりました。この頃の村域は、東西幅員2町、南北幅員1町で、戸数23、人数127とあります。

 昭和38年(1963)から九頭竜川電源開発事業が始まり、同43年(1968)九頭竜川ダムが完成すると

 地内は陸の孤島と化し、住民は昭和41年(1966)秋までに全員が岐阜、愛知県などに移住し無住地となりました。


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(2) 向小駄良
(岐阜県郡上市白鳥町向小駄良)

 長良川右岸の河岸段丘平野と油坂峠麓にあって、美濃街道(越前街道)が白川街道を分岐し、

 向小駄良川が長良川に合流する付近に向小駄良
(むかいこだら)の集落があります。

 江戸時代は美濃国郡上郡のうちにあり、郡上藩領に属していました。

 美濃街道が通る越美国境の油坂峠麓に位置したことから口留番所が置かれ、宿場を勤めていました。

 宝暦6年(1756)の郡上郡村々高覚書帳によれば石高175石、戸数41とあります。

 また、明治(1872)の村明細帳によると戸数76、人口381人、馬7、牛36とあります。

 地内字藤路には、今でも向小駄良口留番所の跡があり、屋敷の石垣の一部、番所前の旧道の石など往時の姿をとどめています。



3 油坂峠の歴史

(1) 室町時代


 「太平記」によると延元3年(1338)7月、南北朝動乱の余波を受けた戦いが越前で起きました。

 足利幕府は、越前を拠点にした南朝方の新田義貞を討つため東海の諸将を越前へ差し向けました。

 なかでも美濃守護、土岐弾正少弼頼遠は、搦め手の大将として美濃、尾張の軍勢を率いて

 郡上から油坂峠を越え、穴馬を通って越前大野に進撃し、新田方の脇屋義助を攻めました。



(2) 戦国時代


 天文9年(1540)8月、越前守護、朝倉孝景は美濃郡上、東氏の居城である篠脇城を攻撃しました。

 このとき東氏側の堅い守りと反撃に遭って、朝倉勢は油坂を登って越前へ逃げ帰ったといいます。

 翌年、朝倉勢は再び郡上へ侵入しようと油坂峠を越えましたが、向小駄良で東氏の軍勢に迎え撃たれ退けられました。

 また、天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆討伐のとき、郡上遠藤氏の軍勢が油坂峠を守備していた一揆軍を討ち破り、

 峠付近は流れた血潮で道が滑って歩けなかったといわれます。このことから「油坂」という名がついたという話も伝えられます。



(3) 江戸時代

 この峠は、江戸時代になっても軍事的、経済的に大きな役割をもち、大名や役人の通行、物資の輸送が相当ありました。

 とくに元禄5年(1692)から郡上藩が越前国内69ヶ村を領有するようになって、峠は年貢米や諸物資の輸送、若猪野代官所との連絡などのために、一層重要になりました。

 このように大野から穴馬の谷筋を通って美濃の郡上や飛騨の高山に至る政治的、軍事的、経済的にきわめて重要な交通路だったわけです。


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主な参考文献

角川地名大辞典 角川書店
峠のルーツ  上杉喜寿著





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