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小豆峠と中野俣峠

加越国境にあった出作小屋風景小豆峠・中野俣峠付近略図


1 小豆峠
(福井県勝山市・石川県白山市)

 勝山市北谷町の北部、滝波川支流の杉山川最上流に位置した中野俣の荒谷と石川県白山市桑島の赤谷とを結んだ標高約1,140mの峠でした。

 峠名の由来は不明ですが、一説に「アズキ」という古語が峠名に当てられたのであろうといわれます。

         峠の位置はこちらです。

 アズ・アズキという古語は「土や岩の崩れやすい所」という意味だそうで、

 加越国境の尾根一帯は手取統と呼ばれる水成岩地帯であり、地質が脆く崩れやすいところです。

 急峻なこの峠は、いつの頃からか「アズキ
(アズ)」と呼ばれ、それが「小豆」の字に変って使われるようになったというものです。

 近世、白峰村桑島の枝村、赤谷からの出作りが、この峠を越えて中野俣荒谷に進出して出作小屋に住み、焼畑で小豆・蕎麦などを栽培しました。

 明治以降も出作りは続けられましたが、次第に衰退して昭和30年代(1955〜1964)に廃絶しました。

 今は中野俣も廃村になり、峠越えの道も廃道となって久しく道筋も定かでありません。



2 中野俣峠(福井県勝山市)

 北谷町中野俣から東方向の標高約900mの峠を越え、北谷町奥河内を経て

 白山市白峰の枝村、刈安・堂ノ森へ出る峠道があったようですが、残念ながら経路を辿ることができません。

 上杉喜寿著「峠のルーツ」、中野俣峠の内容から一部引用すると次のとおりです。

 「この峠は、中野俣の学校跡の上から登り、白峰村の刈安・堂ノ森に出る峠で、昔はかなりの利用者があったという。・・中略・・」

 「この峠道の付近に「ハカンジャラ」という所があり、その近くに城址もあったと伝えられてきた。

 「ハカンジャラ」は、墓の平という意だそうで、時折、骸骨を掘り出したという。」

 「平家の残党が源氏に追撃され、その死骸を葬ったとか、墓とした自然石もあり、

 この上に「見張台」が設けられ、いざ敵襲という場合、村人は加賀の赤谷へ逃げたとか。」

 「平家の落人が隠棲した所というだけに、口伝の多くは平家再興に関するものが多い。」

 「中野俣峠とは、牛首村の者がつけたものであろう。中野俣に行かねばならぬ必要が、

 そう言わせたもので「落人」の話に終始してきたが、堂ノ森や刈安両村の者が中野俣に出作りし、この者たちが定着したのもあるであろう。」

 「この村の習俗は加賀様式のものがあったという。それは「出作り」の者達がもたらしたものとされていた。」とあります。



3 峠下集落

(1) 中野俣
(勝山市北谷町中野俣) 

 中野又とも書き、杉山川最上流域の加越山地の渓谷に位置した集落で、天正2年(1574)白山平泉寺を滅亡させた一向一揆の一大勢力、七山家の一つです。

 この地には、先に引用したとおり源平合戦や城跡に関する伝承が残っています。

 江戸期には越前国大野郡に属し、はじめ福井藩、寛永元年(1624)勝山藩領、

 正保元年(1644)幕府領福井藩預り地、貞享3年(1686)幕府領直轄地、元禄4年(1691)から再び勝山藩領となりました。

 村高は「正保郷帳」によれば田方32石余、畑方30石余の計62石余で、文政5年(1822)の家数人数改帳には家数44、人数249(男146女103)、馬5とあります。

 当地は加越国境の白山麓に広く分布した出作りと呼ばれる山の斜面を利用した焼畑耕作地でもあり、

 木地山峠に向かう道筋に下焼尾、焼尾などといった小字が見られ、木地師や焼畑の関連が深かったことを思わせます。

 戦後、過疎化が進行し、特に昭和38年(1963)の豪雪が過疎化に拍車をかけ、

 翌39年(1964)無住地となりました。昭和55年(1980)中野俣道場跡地に望郷碑が建立されました。


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(2) 赤谷
(石川県白山市桑島)

 当地は、加越国境の小豆峠付近を源流として加賀を北上する赤谷川流域に白峰村桑島の出作小屋が散在していた地域です。

 白峰村桑島は、江戸期には島村という名で白山麓18ヶ村の一つで、牛首川(手取川上流)と支流赤谷川の合流点付近の河岸段丘上に位置した集落でした。

 地名の由来は、越前国坂井郡雄島村(三国町)の村民が、かつて外敵に襲われ当地に逃れてきたことに

 よるとの伝承があり、また京都から京善籐九郎なる者が来地して開拓したともいわれます。

 慶長3年(1598)検地に島村がみえますが、寛文8年(1668)から幕府領となっています。

 村高は「元禄郷帳」によると19石余とあり、元禄11年(1698)の戸数124、文久3年(1863)の戸数198、人口816と増加しています。

 当地も中世以来、出作りの焼畑農業と養蚕・製糸が盛んで、紬、晒布、杉苗の特産物がありました。

 集落は手取川を挟んで東西に分かれ、それぞれ東島、西島と称しましたが西島村を出村とします。

 なお明治5年(1872)石川郡能美郡に属し、明治15年(1882)同一郡内に同名村があるため桑島村に改称しました。

 昭和50年(1975)手取川本流多目的ダム建設に伴い、国道158号付け替え工事で赤谷川と牛首川の合流点付近の中腹に

 赤谷大橋(昭和53年11月開通、幅9m、長さ286m)が架かるなどして、同村の240戸中60戸は上流の

 代替地の新桑島へ移転し、180戸は同郡鶴来町と金沢市などへ移住しました。



4 峠の歴史

(1) 豊原寺白山禅定道を修験者が往来


 加越国境の西方に大日岳(標高1319m)がありますが、この山には真言密教でいう

 摩訶毘盧遮那仏
(まかびるしゃなぶつ)、またの名を大日如来という仏が祀られていました。

 この大日如来は、豊原寺(坂井郡丸岡町豊原)によって祀られたのですが、この仏は森羅万象の神仏、太陽にたとえられています。

 知恵の光明は、あらゆる煩悩の闇を除き、慈悲の光明は、すべてのものに救いの手を

 さしのべ、この知恵と慈悲の二つの働きは、いつも休むときがないといわれます。

 この山に大日如来が祀られたのは、豊原寺が平泉寺末となることを嫌い、

 平泉寺からの白山禅定道に対して、豊原寺から独自の白山禅定道を作って対抗したことによります。

 そのうえ、平泉寺や平泉寺道に祀られてない最上位仏の大日如来を安置して、威厳を示したと伝えられます。

 豊原寺修験者達は、この山を最高の行場として豊原寺から白山までに八宿を決め、人道を避けた山の稜線を利用し往来しました。

 これを豊原白山八宿禅定道といいますが、大日岳から大日峠を下りて三宿めの「新の宿」に至り、

 次に新又越えをして加賀新保側へ一旦下り、次に上って木地山峠を越え、四宿めの中野俣牛ヶ首谷に至ったといわれます。

 しかし、禅定道が廃止されて400年以上たった今、資料も口伝もなく、その真偽のほどは分かりません。

 かりに新又越、木地山峠を往来したとすれば、この峠は非常に早くから開削されていたことになります。



(2) 木地師が往来した加越国境の尾根

 峠下の中野俣は、加越国境の白山麓に広く分布した出作りと呼ばれる山の斜面を利用した焼畑耕作地でもあり、

 木地山峠に向かう道筋に下焼尾、焼尾などといった小字が見られ、木地師や焼畑の関連が深かったことを思わせます。 

 また近世、加賀側からの出作りや越前側からの炭焼きなどで峠を往来したといわれ、

 加賀側の赤谷や新保などの山村と越前側との経済的な結びつきが強かったようです。

 こうして、この峠も木地山峠・新又越・大日峠とともに出作りなど村人達の往来があったのですが、今では、いずれの峠も廃れて登山者が利用するだけです。



(3) 戦国末期、加賀一向一揆衆徒が往来

 室町末期の永正年間(1504〜1520)、加賀一向一揆衆は門徒農民の国を越前にもつくろうとして、しばしば越前国へ侵入しました。

 その別働隊が搦め手にあたる谷峠など加越国境にあった諸峠を越え、平泉寺を狙い、朝倉氏撃破の機会を窺っていました。

 天正2年(1574)、加賀一向一揆衆に支援された和田の本覚寺や藤島の超勝寺は、越前門徒を引き連れて

 朝倉氏に代って越前守護となった桂田長俊を一乗谷に襲って自害させた富田長秀を府中城(武生市)に攻めて、これを撃破し、その余勢をかりて平泉寺を襲いました。

 このとき平泉寺は、「北山七家衆」(七山家)の門徒達に焼打ちされたのですが、谷峠から潜入した加賀一向一揆衆は、

 五所が原(勝山市)から木根山、小原(勝山市)に出て七山家衆と合流し、平泉寺を背後から急襲したといわれます。

 こうして、加賀と越前の一向一揆衆は連合して平泉寺などを討ち破り、一時、越前国に門徒農民の国をつくりました。



(4) 焼畑と越境出作りが往来 

 白山麓を中心とする加越国境の村々は、昔から出作りと焼畑の盛んな地域でしたが、近世初期、

 焼畑、出作りに必要な林野が飽和状態となり、遠く離れた他集落、他国へ出かけて生活する越境出作りを余儀なくされました。

 出作りの遠隔事例として、加賀白山麓から加越国境の諸峠を越えて越前に入り、現在の勝山市平泉寺や浄土寺の領域まで進出している事例があります。

 出作り先によっては、稲作中心の地元の村人と対立もしたでしょうし、また、冬期豪雪が降るため地元の目が届かない

 こともあったりするなど、遊休山地や森林を有効に活用しながら逞しく生きていました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県     角川書店
越前・若狭峠のルーツ       上杉喜寿著
越前・若狭山々のルーツ      上杉喜寿著
加賀・越前と美濃街道   田嘉彦・松浦義則編著




  

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