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蝿 帽 子 峠

蝿帽子峠蝿帽子峠から眺める山々


1 蝿帽子峠
(福井県大野市・岐阜県根尾村)

 福井県の南東方、大野市下秋生と岐阜県根尾村大河原を結んだ越美国境にあった標高約987mの峠です。

 国道157号線上にある温見峠の東方約6km付近で、越山(標高1,129m)と屏風山(標高1,354m)の稜線鞍部にありました。

 はえぼうし、はいぼうしともいい、這法師、拝星、拝保志とも記しました。

 岐阜県側では灰ホウジ、這越とも呼びました。 峠の地図はこちらです。

 旧西谷村下秋生から旧根尾村大河原へと険路が続き、峠名は夏、蝿が多く帽子をかぶって峠を越えたと「名蹟考」には記されています。

 また、一説には鯖江誠照寺本山の門主が美濃布教の途中、急坂を這いながら登ったからともいわれます。

 南北朝期、脇屋義助が往来し、近世初頭、結城秀康が関所を置くなど、かつては越前と美濃間の交通路として利用されました。

 幕末には武田耕雲斎の率いる天狗党が雪中を越前へと越えています。

 かっては笹川ダムの貯水池に注ぐ蝿帽子川を遡って峠に達することができましたが、

 今では廃道となり、峠下にあった越前側の下秋生集落、岐阜県側の大河原集落とも廃村になりました。


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2 峠下集落

(1) 下秋生
(福井県大野市下秋生)

 真名川の支流、笹生川上流の右岸に位置し、蝿帽子川が北部で笹生川に合流していました。 

 南は越前・美濃の国境をなす標高1,100〜1,300m級の山並みが連なり、蝿帽子川の右岸は

 牛馬不通の急坂が続いて、これを上りつめると蝿帽子峠、峠の向こうが美濃根尾村大河原でした。

 越前国大野郡小山荘に属し、鎌倉期から慶長年間までは「秋宇」という地名で見え、室町期、すでに上・下に分村していたことが知られます。

 下って戦国期には、美濃からの攻撃に備えて村と蝿帽子峠の中程に「クダラキ山砦」が築かれたいわれ、名蹟考に「一揆籠ル跡」とあります。

 天正3年(1575)織田信長の一向一揆攻めのとき、ここで部将金森長近の一隊と一揆勢が交戦したことが伝えられています。

 慶長国絵図に秋生村が見え、高は西四郷に含まれていました。

 江戸期、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)から大野藩領となって明治維新まで続きました。

 文政6年(1823)戸数21、人数113で、笹生川原に上秋生村の中天井鉱山の精錬所があって、産出の盛んな時は全村民がここで働きました。

 村人は中天井鉱山の稼ぎのほか、焼畑、植林、炭焼き、養蚕に従事して生活していましたが、

 昭和32年(1957)真名川総合開発事業が完了し、当地は上秋生、小沢とともに笹生川ダムの湖底に沈み無住地になりました。



(2) 大河原(岐阜県根尾村大河原)

 当地は岐阜県の南西方にある根尾西谷川の最上流に位置し、集落は同川の西岸にあって、

 中世以来美濃と越前を結ぶ重要な街道沿いにあり、北の蝿帽子峠へ、北西の温見峠(標高1,019m)へと分岐していました。

 また、東は猫峠を越えて岐阜県越波村へ通じていました。岐阜県大野郡に属し、

 貞享2年(1685)の大垣藩の内検で村高53石余とあり、寛政12年(1800)の家数6、人数62とあります。

 文化6年(1809)長島村から能郷村を経て黒津村に至る長さ4,369間(約7.9km)の新道ができました。

 さらに越前大野藩の峠道修理と併行して、大垣藩は天保9年(1838)から黒津村と

 蝿帽子峠間に新道をつくる5ヵ年計画に着手し、天保13年(1842)工事が完成しました。

 以後この道筋が越前への本街道になりました。そして大河原・天神堂・長嶺の3ヵ村に荷継場が設けられました。

 このように蝿帽子峠越えの街道筋にある大河原村は、江戸後期になると

 越前歩荷
(ボッカ)をはじめ僧侶や村人、物資が往復する重要な道筋に位置した村でした。


3 蝿帽子峠の歴史

(1) 勝山平泉寺の教化活動と南北朝動乱
(鎌倉・南北朝時代)

 鎌倉末期から南北朝の頃には、すでに美濃と越前を結ぶ重要な間道として、多くの僧侶や武将、越前ボッカなどが利用していたようです。

 勝山平泉寺が隆盛を極めていた頃は、多くの僧侶達が布教のため峠下の根尾谷をはじめ、神崎川や板取川の谷々にまで末寺をつくったといいます。

 しかし、これら末寺も平泉寺の滅亡とともに鯖江の誠照寺末寺として吸収されていきました。

 「美濃明細記」は、延元・興国(1336〜1341)年間、南朝方の脇屋義助、美濃根尾谷

 宇津志城主堀口美濃守貞満らが美濃・越前の間を往来したことが記されています。

 進軍の途中、狭い谷間で襲撃される危険を避けるため、温見・蝿帽子の両峠に兵を二分して通過したことが書かれています。


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(2) 越前守護朝倉孝景らの美濃攻め(室町時代)

 「美濃諸旧記」によると「天文11年(1542)8月、当国大野郡のさか所、大河原・根尾口より、

 朝倉方攻入る」と書かれ、また「朝倉始末記」にも「根尾・徳山谷より攻入り、杉原城で合戦」と書かれています。



(3) 織田信長の越前一向一揆討伐戦(戦国時代)

 天正3年(1575)7月15日、織田信長は越前一向一揆の討伐戦を開始し、旗下の部将を越前国境の各地から進入させました。

 このとき、宇都宮則虎の部隊は根尾谷から温見峠、蝿帽子峠を越えて越前大野郡西谷へ入ったといわれます

 また、遠藤慶隆の部隊は北濃長滝寺から二ノ宿越を経て越前大野郡穴馬谷に入って

 伊勢峠へと進み、金森五郎八長近と原次郎政茂の両部隊は、徳山峠、冠峠を越えて越前大野郡西谷に入ったといわれます。

 これに対して一揆方は、中山道斉が越前奥越の一揆軍を統率して西谷の「道斉山」やその鞍部にあった「あみだ坂」に兵力を潜ませ網を仕掛けていました。

 これは織田信長の諸部隊が西ノ谷の本道を進んでくるものと判断し、その側面から不意打ちをかけるためでした。

 織田方の軍勢が越前の三坂峠を越えてきても、また、伊勢峠を回ったとしても、ここに潜んでおれば、どちらへも向かえて敵の背後を突くという作戦でした。

 ところが織田信長の諸部隊は、その裏をかいて越美国境の諸峠から攻め込み、一揆勢を殲滅していきました。

 こうして中山道斉の作戦は、見事破られ、逆に退路を断たれて山中に逃げ込まざるをえませんでした。

 そして宇都宮則虎部隊の猛追撃にあい、道斉山の山中で玉砕しました。

 その後、中山道斉の死を悼み、この辺りの人々は道斉さんの死なれた山として崇め、これがいつしか道斉山になったといいます。


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(4) 鯖江誠照寺の美濃檀家廻り(江戸期)

 誠照寺は、浄土真宗の祖、親鸞聖人が越後へ流罪となり、当地に向かう途中、

 越前上ノ原(福井県鯖江市)に立寄り布教した縁で、承元元年(1207)開山した真宗誠照寺派の本山です。

 鎌倉時代、道性の第2子如覚(誠照寺第3代)は、法義上、父と意見が対立して勘当の身となり、知人を頼って美濃地方で流浪生活を送りました。

 永仁5年(1297)9月、道性の臨終により如覚は、急ぎ越前へ帰国することになりましたが、

 そのとき越前の板垣坂を通ったと「浄土真宗源流記」の一節に書かれています。

 当時、美濃の徳山、根尾地方から越前へ入るには、蝿帽子峠、温見峠、冠峠、杉ノ谷峠などありましたが、

 父、道性の死を前にして当然、近道を選んだでしょうから美濃徳山から越前池田へ入り、板垣坂を通って鯖江へ向かったに違いありません。

 この頃、徳山・根尾谷に住む人達の宗教は、天台宗や真言宗が盛んでしたが、如覚が美濃方面を流浪中に、この地域で布教活動を行い、改宗させたといわれます。

 その後、本願寺に蓮如が現れ、各地の門徒を転派させたため檀末が減少しますが、

 誠照寺派本山、中興の祖といわれる秀かん上人
(しゅうかん1642〜1691)が、寛文2年(1662)の夏から毎年1回(土用の頃)の「美濃檀家廻り」を興され、教化活動に努めました。

 この美濃廻国の巡回路は下図のとおりで、本山を出発し今立郡池田の谷口を経て水海で休み、

 美濃俣峠(熊河峠)を越えて大野郡西谷を廻り、蝿帽子峠を越えて美濃国に入りました。

 そして根尾、徳山を巡回して越前池田の田代、河内、楢俣から志津原を経て、9月の彼岸頃、鯖江に帰山するというコースでした。

 このような美濃地方の教化活動は、元禄2年(1689)まで隔年ごとに10日間ほど根尾、徳山村において行われましたが、次第に衰退していきました。

 その後、第20代秀実上人が衰退した美濃廻国を復興され、延享元年(1744)から文化3年(1806)まで巡回しました。しかし、秀実上人が高齢となり巡回できなくなりました。

 そこで、寛政7年(1795)から「御書様
(ごしょさま)」を使者が携え、巡回教化方式がとられるようになり約200年続きました。 

 明治3年(1870)巡回教化が復活され、7月から3ヶ月間の日程で3年毎に巡回されることになりました。

 明治4年(1871)からは池田廻りも復活し、3月から15日間の日程で隔年毎に再開されることになりました。

 現在、美濃地方で旧根尾村と旧徳山村だけが越前の誠照寺派の門徒になっています。





(5) 大垣藩が蝿帽子峠道を整備
(江戸時代)

 美濃大垣藩は、文化6年(1809)美濃長島村から能郷村を経て黒津村に至る長さ4,369間(約7.9km)の新道をつくり、

 さらに天保9年(1838)から黒津村〜蝿帽子峠(這法師峠)間の新道づくりに取り掛かりました。

 天保13年(1842)工事は完成し、以後、この道が越前への本街道となり、大河原、天神堂、長嶺村の3箇所に荷継場が設けられました。



(6) 水戸天狗党の蝿帽子峠越え
(江戸末期)

 この峠に関して歴史上最も有名なのは、江戸末期の元治元年(1864)12月、尊皇攘夷の旗印を掲げ、

 京都に向かう途中の武田耕雲斎率いる水戸天狗党(水戸浪士)約1,000人が、雪の中、この峠を越えたことです。

 詳しくは、このホームページにリンクされた「郷土の自然・歴史」内の「水戸天狗党の足跡」をご覧下さい。


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主な参考文献

日本地名大辞典18 福井県 角川書店
    〃    岐阜県 角川書店
峠のルーツ       上杉喜寿著
山々のルーツ      上杉喜寿著
歴史街道        上杉喜寿著





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