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灰 坂 峠

廃村の菅谷集落風景廃村の菅谷集落風景


1灰坂峠(南越前町・越前市)

 ホノケ山(標高737m)の南方尾根に菅谷(南越前町)と湯尾(南越前町)を結ぶ標高約600mの峠がありました。

 峠名を「灰坂峠」といい、麓の村々で生産した灰を背負って峠を越えたことから、この名がついたといわれます。

 峠下の菅谷村は往古から山の木を伐採して薪にしたり、「木炭」を作って

 米と交換して生活してきましたが、「灰」の需要が高まると「灰づくり」が盛んになりました。

 隣村の「大桐」(南越前町)でも灰の生産が盛んだったようで、「大桐」は

 「大切」とも書いたように山の木を大量に切ったので「大切」と呼んだといわれます。

 つまり、この辺の村々は「炭」も焼きましたが「灰づくり」も盛んだったようで、灰づくりは明治期まで続けられたようです。

 古くから灰は「灰汁
(あく)」を利用して麻織物の原料となる麻の繊維を漂白するのに使われ、

 この漂白性を利用し染物屋(紺屋)や紙を漉く製紙業者達が「灰」を買い求めました。

 紺屋は府中(越前市)の町に製紙業者は五箇・大滝(越前市)にありましたので、それぞれの地へ運ばれました。

 五箇などへは灰坂峠を下って湯尾(南越前町)に出ると日野川を渡り、牧谷峠を越えて味真野を経由し運ばれました。


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2峠下の集落

(1) 菅谷村
(南越前町)・・すげのたに

 河野川の上流、足谷山(標高593m)の南麓にあった集落です(現在は廃村)。地名の由来は末谷
(すえのたに)から転じたといわれます。

 往昔は元比田(敦賀市)から府中(越前市)へ塩を送る通路に当たり、菅谷峠から大塩谷(越前市)へ出た古道が今も山の尾根に残っています。

 当村は越前国敦賀郡に属し、江戸期、はじめ小浜藩領でしたが天和2年(1616)から鞠山藩領になりました。

 慶長国絵図には敦賀郡内に菅谷村10石余と見え、江戸期の「正保郷帳」には

 菅谷浦とあって田方2石余、畑方8石余の計10石余、家数、人数は不明です。

 村は豊富な山林を利用して薪や木炭を大比田浦に売ったり、山を貸したりする一方、

 製紙用や藍玉つくりに必要な灰作りも盛んで、一時、菅谷の木がなくなるといわれるほどでした。

 享保8年(1723)頃から漸く炭焼きが生業となって普及し、明治22年(1889)河野村の大字名となり戸数23、人口121でした。

 製炭を唯一の生業としましたが、急激に過疎化が進み、明治40年(1907)からあった菅谷分校も昭和47年(1972)閉鎖され、廃村となりました。



湯尾峠から湯尾町を見渡す湯尾峠付近の峠道


(2) 湯尾(南越前町湯尾)

 日野川と田倉川の合流域に位置した集落で、日野川に注ぐ湯尾谷川の上流、ホノケ山麓の

 通称湯尾谷が温泉の湧出地で、その川下に集落が形成されたのが地名の由来といわれます。

 中世、鎌倉期から戦国期は柚尾村(湯尾村)とあり、越前国南仲条郡に属しました。

 近世、江戸期は越前国南条郡に属し福井藩領となって、駅馬20匹を有する宿場として北陸街道沿いに町並みを形成しました。

 「正保郷帳」には柚野尾村と記され、村高は田方1,302石余、畑方209石余の計1,511石余とあります。

 山口武兵衛家が加賀藩本陣を兼ね、北隣の山内治郎左衛門家とともに問屋業も営み、

 問屋は最初5軒ありましたが、その後7軒となり交替制になりました。

 宿場のほぼ中央を湯尾谷川が流れ、同川を挟んで上湯尾村と下湯尾村に分かれ、

 沿道には旅籠、茶屋が軒を並べ、旅人に名物の湯尾餅やとろろ汁などを売り、

 馬子唄が聞かれ、宿場人足が廻り番で毎日25人ほど問屋場に詰めていました。

 湯尾宿と今庄宿の間に湯尾峠があり、登り口には湯尾神社があり、また下湯尾村には日吉神社がありました。

 明治初年(1868〜1877)の人力車時代が湯尾宿の最盛期といわれ、明治11年(1878)の戸数185、

 人口827、その後の大火と明治20年(1887)敦賀街道の開通などにより衰退しました。

 明治22年(1889)湯尾、八乙女、燧、社谷の4ヶ村が合併し湯尾村となり、昭和23年(1948)国鉄北陸線湯尾駅が開業、

 昭和30年(1955)南条郡の自治体名であった湯尾村、今庄村、宅良村、境村が合併し今庄町の大字となりました。

 平成17年(2005)1月、今庄町、南条町、河野村の3町村が合併して南越前町となりました。

 現在、湯尾の町並みに往昔の面影はほとんど残っておりませんが、湯尾峠は昔の雰囲気をよく残しています。


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3 峠の歴史


(1) 「木灰作り」の歴史と灰坂峠

 わが国で木灰が何時から作られたのか分かりませんが、紙漉きの歴史からみて古代から作られていたと考えられます。

 峠下の菅谷村では、鎌倉期(1185〜1333)から木灰を生産し、府中(越前市)の紺屋(染物屋)や五箇(越前市)の紙漉きなどへ運んだようです。

 菅谷村には木灰を作る特殊な倉が近年まであったようですから、長い間、木灰作りが行われていたのでしょう。

 和紙の起り(歴史)をみますと、紙は2世紀初め中国で製紙法が大成し、わが国には推古天皇18年(610)

 高句麗の貢僧、雲徽によって紙、墨の製法が伝えられたようです。

 その後、聖徳太子(574〜622)らによって改良され、麻のほか楮
(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮など良質な材料を用い、

 紙漉法も流し漉きを工夫し、煮熟剤に木灰を用い、抄造にネリを加えることを考え、世界無比の最良質の和紙を作るようになったといいます。

 大宝元年(701)大宝律令により造紙、造筆、造墨の制ができ、朝廷には造紙手という役人が置かれ、官営の製紙業が始まりました。

 天平期(729〜766)の仏教興隆で写経が盛んになり、製紙業も中央から地方へ波及し、

 京畿に近い越前、美濃、美作、出雲、播磨などに広がっていきました。



(2) 五箇・府中へ木灰が運ばれた峠道

 菅谷村(南越前町)などで作られた木灰は俵に詰められ、灰俵になって人の背や牛の背で峠を越え湯尾村(南越前町)を経て

 府中(越前市)の紺屋へは北陸道で、五箇(越前市)の紙漉きへは日野川を渡って牧谷越えで、それぞれ運ばれました。

 こうして大量の灰が鎌倉期から江戸・明治期を通じて長い間、峠を越えて運ばれたことから灰坂峠と呼ばれるようになったといいます。

 一方、この峠道は北陸道沿いの湯尾(南越前町)から湯尾谷の灰坂峠を越え菅谷(南越前町)経由で若狭へ通じていましたので「若狭道」とも云われました。

 湯尾(南越前町)から灰坂峠へ行くには、湯尾谷を西へ3kmほど上ると道が2分し、左手を上りつめると峠に至り、

 峠を越えて3kmほで下ると菅谷(南越前町)に至ったようですが、今では峠道も定かでなく、歴史の中に埋もれてしまいました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
越前若狭峠のルーツ    上杉喜寿著
越前若狭歴史街道     上杉喜寿著
越前若狭続山々のルーツ  上杉喜寿著
「福井県史」通史編2  中世  福井県






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