3 敗走の戦国大名朝倉義景、最後の峠越え
天正元年(1573)8月13日夜、敦賀郡刀根坂において織田信長に大敗を喫した朝倉義景は、兵力の大半を失い一乗谷へ敗走しました。
大野郡司朝倉景鏡の勧めで8月16日、再起を期した義景は一乗谷から美濃街道を下って大野へ退く途中、この峠を越えて洞雲寺へ入りました。
信長軍は、義景の後を追って敦賀から府中に入り龍門寺に着陣するや、直ちに軍勢を一乗谷へ進軍させ、谷中を完全に破壊しました。
一方、義景は景鏡の誘いを受けて8月19日、大野郡山田庄の六坊賢松寺へ移りましたが、
翌8月20日、景鏡は義景を裏切って六坊賢松寺を包囲し攻めました。
一族の裏切りを知った義景は、ここで悲憤のうちに自刃して果てました。翌8月21日、景鏡は織田軍に降参し、
義景の首とその母、妻、男子である光徳院、少将、愛王の身柄を引き渡しました。
その後、義景の遺族達は裸馬に乗せられて、再びこの峠を越え、光徳院と愛王は、
途中、鹿蒜の里(南越前町今庄)で殺され、5代100年にわたって栄華を誇った朝倉氏の直系は完全に絶えました。
こうして朝倉義景は滅びましたが、旧朝倉同名衆や重臣の一部は降参を認められ、
最初に織田軍に寝返った前波長俊(前波吉継のち桂田長俊に改名)は、その功で越前の守護代に任命されました。
また、朝倉景鏡(土橋信鏡)らも本領を安堵されて、新しい名をつけられました。
しかし、桂田長俊は、翌天正2年(1574)正月、富田長繁の画策した一揆により滅び、土橋信鏡も同年2月、蜂起した一向一揆によって滅ぼされました。
|