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花 山 峠

花山峠と坂戸集落風景朝倉義景墓所(大野市泉町)


1花山峠
(大野市牛ヶ原)

 古くは坂の峠、坂戸ともいいました。大野市牛ヶ原の坂戸と足羽郡美山町計石との間にあった標高約220mの峠です。
峠の地図はこちらです

 峠名は、峠下の坂戸、花山によるのでしょうか。福井・大野両城下を結ぶ大野道(大野からは福井道)、その延長の美濃街道(現国道158号)が越えています。

 江戸期、峠道は花山から坂戸村の中を通り計石村へ越えましたが、急坂で車の通行が困難であったため、

 明治14年(1881)から同16年(1883)にかけて坂戸村の南山麓を通過できるよう改修されました。

 さらに昭和10年(1935)越美北線のトンネル工事と同時に4m余り掘り下げられました。

同38年(1963)には崖崩れと雪崩を防ぐために切通しをコンクリートで覆って花山隧道が建設されました。


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2 峠下の集落

(1)坂戸
(大野市牛ヶ原)

 大野盆地の北西、禅師峰の峰続きである鍋床山の麓に位置した古代から見られた地名です。明治9年(1876)牛ヶ原村の一部となりました。

 江戸期、大野郡に属し、坂戸村として牛ヶ原村から分村しました。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは大野藩領に属しました。

 村内を美濃街道が通り花山峠を越えて福井へ向かいました。当初は坂の峠と呼ばれ、幕末頃から坂戸峠と呼ばれるようになりました。

 峠を下った右手の山はツツジやアセビの花が咲き、大野藩士岡田輔幹は文化10年(1813)の「深山木」の中で花山と称しています。



(2) 計石(足羽郡美山町計石)

 足羽川の支流羽生川上流から、さらに分流した計石川上流域の谷あいに位置した集落です。

 江戸期には越前国大野郡計石村として大野藩領に属しました。

 当村は美濃街道沿いに位置し、ここから花山峠を越え大野城下へ通じていました。

 天保4年(1834)の「続白山紀行」に、花山峠を過ぎて左の山を花山というのは、ツツジや木瓜
(あせび)の木が多いことによると記しています。

 当時、この村は福井・大野間の塩など物資の運送に携わる者が多く、文化9年(1812)、文政元年(1818)に大野城下の塩屋との間で塩直売をめぐる争論が生じました。

 天保14年(1843)に福井藩から塩付馬札が貸渡され、これを所持しない者は福井の塩問屋に塩を売ることができませんでした。



3 敗走の戦国大名朝倉義景、最後の峠越え


 天正元年(1573)8月13日夜、敦賀郡刀根坂において織田信長に大敗を喫した朝倉義景は、兵力の大半を失い一乗谷へ敗走しました。

 大野郡司朝倉景鏡の勧めで8月16日、再起を期した義景は一乗谷から美濃街道を下って大野へ退く途中、この峠を越えて洞雲寺へ入りました。

 信長軍は、義景の後を追って敦賀から府中に入り龍門寺に着陣するや、直ちに軍勢を一乗谷へ進軍させ、谷中を完全に破壊しました。

 一方、義景は景鏡の誘いを受けて8月19日、大野郡山田庄の六坊賢松寺へ移りましたが、

 翌8月20日、景鏡は義景を裏切って六坊賢松寺を包囲し攻めました。

 一族の裏切りを知った義景は、ここで悲憤のうちに自刃して果てました。翌8月21日、景鏡は織田軍に降参し、

 義景の首とその母、妻、男子である光徳院、少将、愛王の身柄を引き渡しました。

 その後、義景の遺族達は裸馬に乗せられて、再びこの峠を越え、光徳院と愛王は、

 途中、鹿蒜の里(南越前町今庄)で殺され、5代100年にわたって栄華を誇った朝倉氏の直系は完全に絶えました。

 こうして朝倉義景は滅びましたが、旧朝倉同名衆や重臣の一部は降参を認められ、

 最初に織田軍に寝返った前波長俊(前波吉継のち桂田長俊に改名)は、その功で越前の守護代に任命されました。

 また、朝倉景鏡(土橋信鏡)らも本領を安堵されて、新しい名をつけられました。

 しかし、桂田長俊は、翌天正2年(1574)正月、富田長繁の画策した一揆により滅び、土橋信鏡も同年2月、蜂起した一向一揆によって滅ぼされました。



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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
越前若狭峠のルーツ    上杉喜寿著
「福井県史」通史編2 中世   福井県




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