1檜尾峠(福井県今立郡池田町・岐阜県揖斐郡揖斐町)
福井県の南端、越美国境にある冠山峠から北西約1.5km地点に位置し、
かつて福井県今立郡池田町楢俣と岐阜県揖斐郡揖斐町塚(旧徳山村塚)とを結んだ標高約998mの峠でした。
この峠は江戸後期(1800年頃)に開かれたようですが、詳しくは分かりません。
冬期になると美濃(岐阜県)から檜尾峠が登りやすいといわれ、地元の人達がよく利用したようです。
鯖江藩史料に安永4年(1775)11月、峠下集落の楢俣村から「通行人が無理難題をいって狼藉をするので」
制札下付願が提出され、鯖江藩が現場に出張し制札を立てていることから、この頃、峠が開かれたと思われます。
大正2年(1913)頃、峠道が整備され冠峠(冠越)に代って檜尾峠の48曲がり道が利用されるようになったといいます。
しかし、ここも昭和30年代(1955〜1964)に入ると岐阜県側の揖斐川沿い道路交通が整備されたため利用されなくなりました。
現在は登山者や沢登り愛好者が利用するだけの熊笹に覆われた獣道となりました。
2峠下集落
(1) 楢俣(福井県今立郡池田町)
冠山の北麓、足羽川上流域の支流楢俣川流域に位置した地域です。
越前国今立郡に属し、江戸期、はじめ河内村の枝村でしたが、宝暦8年(1758)頃、河内村から分村し、
鯖江藩領に属して村高4石余、家数5、人数24と記されてあります。
耕地面積が少ないため焼畑が盛んに行われ、栃の実拾いの「山の口」も厳重でした。
木地師が入ったのは、当村のさらに奥の白倉谷や添又谷であったといい、
また、その奥には美濃国徳山との国境檜尾峠があって西鯖江誠照寺の美濃廻国の帰路として利用されました。
明治22年(1889)上池田村、昭和30年(1955)池田村、昭和39年(1964)池田町の大字となり、昭和41年(1966)から無住地になりました。
(2) 河内(福井県今立郡池田町)
冠山の北麓、足羽川の上流域で楢俣から1kmほど下ったところに位置し、
源平時代、斬首された斉藤実盛一族が当地に落ち延び、一村をなしたと伝えられています。
越前国今立郡に属し、慶長3年(1598)の太閤検地帳には「川内村」、慶長国絵図には「河内村」の村名が見えます。
また、元禄年間(1688〜1703)の村々明細帳に枝村として楢俣と田代がでています。
はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)大坂城代土岐頼殷領、
のち幕府領を経て享保5年(1720)から鯖江藩領、文久2年(1862)から幕府領となりました。
楢俣村は宝暦8年(1758)頃から庄屋名が見えることから、この頃、河内村から分村したと思われます。
元禄年間の家数12、人数104、享保6年(1721)家数13、人数114、牛6とあります。
明治22年(1889)上池田村、昭和30年(1955)池田村、昭和39年(1964)池田町の大字となりました。
昔から焼畑が行われ、炭焼きや山仕事が多いため3月9日、12月9日には村をあげての山祭りが行われました。
幕末の頃から養蚕も行われ池田産物会所へ納めました。
この村は美濃徳山越えに冠越(冠峠)、檜尾峠があり、当村はその起点となる要地として口留番所が置かれていました。
(3) 塚(岐阜県揖斐郡揖斐町)
冠山の南麓、揖斐川源流付近に立地した美濃の峠下集落があったところで、
古くから冠越(冠峠)、高倉峠、檜尾峠などを経て越前に通じる道筋にあたりました。
地名の由来は、追手から逃れて落ち延びた二条天皇が三軒屋(揖斐町櫨原のうち)近くの崖で
足を踏み外して一命をなくしたため、その遺体を葬った塚があることからといわれます。
当地には歩危尻(ほきしり)という地名が残り二条歩危に由来するといいます。「つか」という地名は室町期には見え、美濃国大野郡に属していました。
江戸初期に徳山村から分村、旗本更木徳山氏知行地となり、村高39石余の畑作中心の山村でした。
明治2年(1869)の戸数18、人数117で、以後、徐々に増加しています。
村民は真宗誠照寺派越前西福寺(福井県鯖江市)と本巣郡専念寺(岐阜県本巣市根尾東板屋)の檀家に分かれていました。
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