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細呂木峠

細呂木からの峠道細呂木峠道


1 細呂木峠(福井県あわら市・石川県加賀市)

 加越国境の最北端、北潟湖の東に緩やかに広がる加越の丘陵地に位置した、あわら市細呂木と加賀市橘町を結ぶ標高約70mの峠です。

            峠の位置はこちらです。

 中世から近世にかけての北陸道が越前国細呂木から加賀国橘へと通じ、

 江戸期、細呂木には福井藩の関所(口留番所)、橘には加賀大聖寺藩の御使者改番所が置かれました。

 峠名は峠下の地名に由来しますが、このほかに中ノ坂、鋸坂(のこぎりさか)、祝言坂(のりとさか)とも呼ばれました。

 中ノ坂の由来は不明ですが、鋸坂は改修前、細呂木からの登り道が鋸の歯のように屈曲した急坂だったこと、

 祝言坂は江戸初期の大改修で大名道路となり、祝言坂に名を変えたといわれます。



2 峠下集落

(1) 細呂木
(福井県あわら市)

 鎌倉期から戦国期に細呂宜郷が見え、室町期に上方・下方の二つに分けられますが、越前国坂北郡河口荘10郷の一つでした。

 細呂宜郷内の村々として「大乗院寺社雑事記」の文明2年(1470)7月14日条に次のようにあります。

「細呂宜ニハ牛屋村、宇禰一野村、青木村、伊比政所村、宮谷村、西方寺村、たかつか村、

 ひ山村、たかはたけ、はしや村、吉さき村、今道村、滝平谷村、神宮寺村」とあります。

 これをみると細呂宜郷は、旧金津町西部の広い範囲にわたっており、村々は東(上)と西(下)に分けられ配列されています。

 この「ほそろぎ」という地名は、慶長年間(1596〜1615)に細呂宜から細呂木に、そして郷名から宿場名に変わりました。

 関所と宿駅を設置した場所が今道村で、この地名変更で今道村という名が消え、細呂木の宿駅となりました。

 元来、今道村というのは、新道沿いの村という意味で、北陸道の移動によって生れた地名です。

 延喜駅制による北陸道は、越前雄島海岸の三尾駅(現三国町安島に比定)から吉崎(現あわら市吉崎)を経て加賀の朝倉駅(現加賀市橘に比定)へ通じていたという説

 二面(あわら市二面)から北潟西岸を経て朝倉駅へ通じていたという説などがあります。

 いずれにしても、このコースは遠回りで、しかも浜坂(現あわら市浜坂)から吉崎へ舟で渡らなければなりませんでした。

 このため自然に金津→今道→鋸坂(細呂木峠)→橘を結ぶ山道を利用する者が多くなり、人通りが多くなるにしたがい集落は発達しました。

 また、鋸坂〜橘間の山越えは、すでに鎌倉時代に開通しており「音にきく、のこぎり坂」で知られていました。

 中世、興福寺領河口荘に属した細呂宜郷の交通が頻繁になったので、細呂宜橋で関銭を徴収した時期があったことが「大乗院文書」に出ております。

 江戸期は細呂木村として福井藩領に属し、村高652石余でした。寛政7年(1795)〜天保11年(1840)の御物成銀米納入別帳によると戸数は70〜80戸とあります。

 慶長6年(1601)越前藩主結城秀康は、越前16関の一つである細呂木関所を観音川のたもとに設置し、加賀国の関門として重視するとともに細呂木に宿駅を置きました。

 こうして細呂木村は北陸道の宿駅として発達し、村高の半分は諸役が免除され、役馬17匹の常置が義務付けられていました。

 細呂木が宿場になりますと、往還は4間幅(約7m)となり、宿場道の定法通り直角に曲がる枡形が二ヶ所設けられました。

 そして往還を挟んで民家が軒を連ね、「かどや」と「あたらしや」の二軒の問屋を中心にお役町を形成しました。

 本陣・脇本陣・旅籠屋・伝馬役と歩行役を割り当てる馬指所・人夫溜りなどができ、裏通りには茶屋・しもた屋・百姓屋・馬借の家などが、ぎっしり集まりました。



細呂木関所跡細呂木宿風景

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 細呂木橋の橋詰には城戸があり、その一角に金津奉行所から派遣された関守や番人の詰所及び居宅がありました。

 江戸中期以降、交通量が急増し、そのうえ参勤交代制が確立してからは、細呂木駅の常設人馬を17人・17疋としました。

 そして補充として定助郷・加助郷・大助郷の村々が定められ、村高100石につき1人2疋が割り当てられました。

 明治2年(1869)細呂木の関所は撤廃され、同5年には伝馬所も廃止になりました。この頃の細呂木村の戸数82、人口382(男191女191)でした。

 北陸道の道筋も明治13年(1880)に大聖寺・牛ノ谷〜丸岡間へ切り替えられ、細呂木は人通りがなくなりました。

 明治22年(1889)、滝、沢、指中、青野木、宮谷、檜山、橋屋、細呂木、蓮浦、坂口、

 清王、山十楽、柿原、山西方寺、高塚、山室の16か村が合併して細呂木村ができました。

 村名の由来は、中世からこの一帯が「細呂宜郷」と呼ばれたことによります。昭和29年(1954)からは金津町の大字名となりました。

 そして平成の大合併により、平成16年(2004)3月、芦原町・金津町の2町が合併して「あわら市」となり、その大字名になりました。



(2) 橘(石川県加賀市橘町)

 大聖寺川の支流、奥谷川の中流左岸に位置した中世(戦国期)から見える村名で、加賀国江沼郡に属しました。

 江戸期は江沼郡内の大聖寺藩領に属し、村高は116石余あって家数24、人口111、馬19とあります。

 大聖寺藩邸からの行程1里(約4km)、当地には宿駅が置かれ、問屋場があり馬25頭を常備しておりました。また橘村御使者改番所が置かれ通行人を検問しました。

 明治13年(1880)、北陸道(国道)が大聖寺町から福井県牛ノ谷を通る新道に代わったため、従来の北陸道の通行が減少し、当地の宿場は衰退しました。

 さらに明治30年(1897)新道の近くに国鉄北陸本線が開通し、ますます衰え、昭和初年(1926)には全く消滅しました。

 明治22年(1889)三木村の大字となり、昭和33年(1958)加賀市の町名となりました。



橘宿跡橘宿の由来記

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3 峠付近の歴史

(1) 文明5年
(1473)の蓮浦・細呂宜(日山・樋山)合戦

 応仁元年(1467)から起こった応仁の乱は、将軍家の争いと細川氏と山名氏の争い、それに守護家の内輪もめとが結びついて、

 国内の約3分の2の守護大名が東西に分かれ、11年にわたって争いあう大乱になりました。

 越前守護職斯波家も東西に分かれて争いましたが、朝倉孝景は当初、甲斐氏とともに西軍方について活躍しました。

 しかし、東軍方からの寝返り交渉があり、将軍義政と孝景との間に越前守護職に関する密約が交わされ東軍につくことになりました。

 東軍に寝返った朝倉孝景は、文明4年(1472)越前平定に乗り出し、西軍の甲斐勢を各地で討破り、同年8月6日、ついに府中(武生市)を陥落させ、付近一帯を平定しました。

 さらに、越前北部の坂井郡長崎庄(丸岡町)に立て籠もった甲斐勢を打ち破り、加賀へと追放しました。

 追放された甲斐勢は、態勢を整えると翌文明5年(1473)7月、越前に侵入し大規模な反撃に出ました。

 そして坂井郡細呂宜郷に集結した甲斐勢は、8月8日〜9日、蓮浦の光塚(光坂)や日山(樋山)において朝倉勢と会戦しました。

 この合戦で朝倉方は、栂野隼人など70人が討死し、手負800人という大損害を蒙りましたが、

 孝景、氏景の連合軍の猛勢に怖気づいた甲斐勢は、夜中に加賀へ退散して朝倉勢の勝利となりました。

 しかし、その後も甲斐勢は越前侵攻を繰り返し、翌文明6年(1474)、再び大反撃に出ました。



(2) 長享2年(1488)の「橘口」合戦

 越前朝倉氏によって越前を追われた甲斐・二宮ら反朝倉勢力と結んだ一向宗門徒(本願寺門徒)は、この頃、一大軍事集団に成長していました。

 これに対し、一向宗門徒と結んで加賀守護職となった富樫政親は、次第に一向一揆の重圧を強く感じるようになり、これを除かんとしました。

 これを察知した数万の一揆勢は、長享2年(1488)5月、富樫政親が拠城とする石川郡高尾山を包囲しました。

 朝倉貞景は、慈視院光玖を大将として国侍ら5千余騎を加賀国境の橘から侵攻させ、

 富樫政親を救援しようとしましたが間に合わず、長享2年6月9日、ついに落城して富樫氏は滅亡しました。

 その前日(6月8日)、敷地・福田の諸勢と願正入道を大将とする一向一揆勢7千余騎は、

 朝倉勢5千余騎と橘口にて激戦をしますが、翌日、高尾城が陥落したことを知った朝倉勢は撤兵しました。

 こうして加賀を本願寺領国化した一揆勢は、その後、越前朝倉氏との宿命的な抗争を繰り返すことになります。



(3) 天文24年(1555)の合戦で朝倉宗滴が橘山に陣所を置く

 天文24年7月、越前の朝倉宗滴(教景)は、加賀一向一揆の討滅をめざし江沼郡へ侵攻、

 橘山に陣所を置いて、黒瀬掃部丞・潟山津大助・振橋帯刀ら当郡の一揆衆を討ち破りました。

 しかし、宗滴が陣中で発病して朝倉勢が撤退したため、加賀一向一揆衆は壊滅の危機を脱しました。



(4) 加越国境の細呂木関所(あわら市細呂木)

 この関所は江戸期、福井藩の関所として近越国境の板取関所とともに重要視されました。

 福井藩祖結城秀康が慶長6年(1601)5月、越前入国の際、北陸道の関門として設けたもので、

 今庄町板取の関とともに北と南で国境を警備し、通行人と物資の搬出を監視しました。

 北陸道の観音川に架かる橋の左岸たもとにあって、金津奉行の支配下にあり足軽2人が番人として詰めていました。

 嘉永4年(1851)の記録によれば関所の柵は、左右延長60間(109m)、柵扉の高は6尺5寸(2m)、城戸の扉は幅5尺(1.5m)で高さ8尺5寸(2.6m)でした。

 関守を番人と呼び、金津奉行所から出張していました。その宿舎は3間(5.4m)に4間半(8.1m)の二軒長屋でした。

 城戸は日の出と共に開門し、日没と共に閉門しました。この関所を通るには福井藩の役所手形が必要で、鉄砲と女の改め方は特に厳しかったようです。

 この関所も、何時の頃からか口留番所となり、明治2年(1869)5月に廃止されました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県     角川書店
角川日本地名大辞典17石川県     角川書店
日本歴史地名大系17石川県の地名   ㈱平凡社
越前・若狭峠のルーツ       上杉喜寿著
越前朝倉一族           松原信之著
本願寺と一向一揆         辻川達雄著





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