2 峠下集落や峠名について
この峠について上杉喜寿著「歴史街道」「峠のルーツ」に興味ある記述がありますので、その要旨を紹介させていただきます。
昔の油坂峠は、トンネルの上ではなく南方500mばかりの山麓にあったようで、
美濃側の向小駄良からの上りが、あまりに急峻で油汗を流したから峠名になったといいます。
積雪期の苦難は筆舌に尽くせなかったため、油坂峠を避けて南にある荷暮谷を通り、勾配が緩やかで雪の少ない仏峠や白木峠を利用しました。
郡上藩領だった穴馬谷の村民にとって、このコースは郡上八幡への近道でもありました。
また、この峠名の由来は、峠に石仏が祀られていたので仏峠になったといいます。
しかし、どこの峠にも大なり小なり石仏は祀られています。そこには何か理由があるはずです。
その理由の一つとして考えられるのが、この峠下には、どちら側にも村落がありません。
越前側の荷暮は、野々小屋谷から川沿いに6km余も下ったところにあるし、美濃側の村落までは、
もっと遠い亀屋島川に沿って郡上八幡へ出るのに荷暮谷道の3倍はあります。
いま一つの道、美濃大和村の島集落までも越前側の倍はみなければなりません。
通常、峠には行先名を冠する場合が多いのですが、この峠は村落までの距離がありすぎて、結局、峠に立つ石仏が峠名になったのであろうというのです。
3 越前の集落「荷暮」
越美国境にある標高1,413mの滝波山の北麓、九頭竜川の支流、荷暮川と根倉谷の合流域の山間部に荷暮はありました。
平家の落人が住みついた集落だと伝えられますが、慶長4年(1599)に村名が見え、村高3石7斗5升1合とあるのが初見です。
江戸期、荷暮村として越前大野郡に属して、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)に幕府領、元禄5年(1692)から美濃郡上藩領となって明治維新を迎えました。
宝暦9年(1759)の諸上納明細記には家数25、人数150、牛2、馬1などと記録され、寛政9年(1797)には家数43、人数247と増加しています。
当村には郡上藩経営の金倉銅山があり、その後、変遷しながら荷暮銅山として昭和期まで採掘されました。
昭和38年(1963)から九頭竜川電源開発事業が始まり、同43年(1968)九頭竜川が完成し荷暮川下流域まで水没しました。
この水没で昭和39年(1964)住民全員が離村しました。しかし、近年、離村した住民が夏の期間だけ出作りしながら住んでいます。
4仏峠の歴史
戦国期、織田信長は越前一向一揆討伐の際、各傘下の部隊を国境の諸峠から一気に進攻させました。
このとき美濃の武将、遠藤惣兵衛の軍勢は油坂峠とこの仏峠から進攻し「穴馬の城」を主戦場としました。
「穴馬の城」は、その位置に諸説ありますが「滝波山」と「野々小屋付近」が有力視されています。
仏峠を越えた遠藤の軍勢は、野々小屋付近に布陣した一向一揆勢をいち早く察知し「物見峠(牧尾峠)」へ迂回して危機を脱し、敵の裏をかきました。
野々小屋付近は道が懸崖下を通り、右手には荷暮川が岩を噛み飛沫をあげて流れているところです。しかし、ここを通らなければ前へは進めません。
通れば必ず崖の上から巨岩が落とされ、弓、鉄砲を乱射されます。仏峠はこんな戦史をを秘めているところです。
また、この峠道も木地屋が越え、紙屋が往来し、油坂峠が雪で通れなくなると穴馬谷の村人も、この峠を往復しました。
江戸中期以降、穴馬谷一円は郡上藩領になったため、御用のときは郡上八幡まで出向かねばなりませんでした。
5 仏峠の近くにあった白木峠、牧尾峠(物見峠)
(1)白木峠(福井県大野郡和泉村・岐阜県関市板取(島口))
白木峠は仏峠の南方、和泉村と関市(旧板取村)の国境にありました。板取村史によると、古くから木地師、山師が往来し、
穴馬谷(和泉村)の村人が、この峠を越えて板取村島口の集落へ茶や塩を求めて往来しました。
また、織田信長の越前一向一揆討伐の際、部将金森長近の一隊は白木峠を越え、岩屋、野々小屋を通って穴馬谷へ進攻し、別隊は根尾谷から蝿帽子峠を越えて西谷へ進攻しました。
更に時代を遡れば越美国境一帯は平家落人伝説の多い地域で、古くから人々の往来があったところでありました。
(2)牧尾峠(物見峠)「福井県大野郡和泉村・岐阜県郡上市大和」
牧尾峠は仏峠の北方、和泉村と郡上市(旧大和町)の国境付近にあったようですが、史料に乏しくよく分かりません。
前述のように戦国期、織田信長の越前一向一揆討伐の際、部将遠藤惣兵衛の一隊は仏峠の下に一揆勢が待ち伏せているのを察知し、牧尾峠へ迂回して戦ったとあります。
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