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宝 慶 寺 峠

宝慶寺山門旧宝慶寺村の民家


1宝慶寺峠
(大野市・今立郡池田町)

 普聞坂とも呼ばれ、大野市宝慶寺と今立郡池田町の境にある標高約640mの峠です。

 峠名は峠下にある宝慶寺に由来するようですが、普聞坂の由来は不明です。

 宝慶寺峠から西へ流れる部子川の支流、稗田川の谷筋を県道松ヶ谷・宝慶寺・大野線が通っています。

          峠の地図はこちらです。

 江戸期、幕府の巡見使が通行したので巡見坂とも呼ばれ、池田谷から大野城下への間道として利用されました。

 元治元年(1864)水戸天狗党の一行が大野藩との戦を避け、この峠を西へと越えました。

 峠の下には「座禅石」という巨岩があり、宝慶寺開山の寂円が座禅を行ったと伝えられます。



2 峠下集落

 
(1) 宝慶寺村(大野市宝慶寺)

 清滝川の上流に位置し、南には部子山、銀杏峰など標高1500m級の山々を望んだ60戸ほどの村です。

 地名の由来は曹洞宗日本第2道場宝慶寺の門前に発達したことによります。

 江戸初期は福井藩領、寛永元年(1624)木本藩領、寛永12年(1635)幕府領福井藩預り地、寛永14年(1637)福井藩領、貞享3年(1686)から幕府領となりました。

 明治22年(1889)上庄村の大字になり、昭和29年(1954)から大野市の大字になりました。



 (2) 稗田村(今立郡池田町稗田)

 部子川上流の稗田川流域に位置した7戸ほどの村で、村民は長慶寺(福井市木田)の檀家であり、

 木地師達が大本村の谷々に入り込んで開いた村の一つと考えられています。

 しかし、伝承によれば承久の乱(1221)後、難を避けて大野郡阿難祖に隠棲していた滝尾家の先祖が、

追っ手の探索を恐れて木地師、仁右衛門に案内させ黒谷から尾根伝いに番場に入り、

 以後、開拓を続けて稗田川と村松川の合流点付近の中河原に進出し、村を形成したと伝えています。

 越前国今立郡に属し、江戸初期は福井藩領でしたが、貞享3年(1686)から幕府領になりました。

 元禄8年(1695)の村明細帳には7戸、24人、村高10石余とあります。木地挽や養蚕が盛んに行われ、製品は大野方面へ売捌いたといわれます。

 明治22年(1889)下池田村の大字、昭和39年(1964)から池田町の大字となりましたが、昭和38年(1963)の豪雪により翌39年から無住地になりました。



 注:承久の乱

 鎌倉幕府の内部で、執権北条氏の指導的立場が確立し、武家政権が一段と成長しようとしていた時、京都で後鳥羽上皇を中心とする公家政権が討幕計画を策し、

 承久3年(1221)5月、畿内近国の武士や諸寺の僧兵を召集し、北条義時追討の院宣を諸国に発しました。

 これに対して幕府は、19万余の軍勢を東海、東山、北陸の三道から西上させて進撃し、公家方軍勢を討破って、京都を制圧しました。

 こうして承久の乱は、義時追討宣旨が出てから、わずか1ヶ月であっけなく関東の幕府方の完勝に終わりました。

 承久の乱後、鎌倉幕府創設以来の公武両政権の間の政治的力関係は完全に逆転し、武家政権の優位が決定づけられました。

 倒幕計画の中心であった後鳥羽・順徳両上皇は、それぞれ隠岐・佐渡に配流され、土御門上皇も土佐に移りました。

 また後鳥羽の皇子、六条宮・冷泉宮も但馬・備前に流されました。


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主な参考文献

角川地名大辞典 18福井県 角川書店
越前・若狭峠のルーツ  上杉喜寿著
日本歴史シリーズ6   世界文化社





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