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深 坂 峠


深坂峠道(1)深坂峠道(2)


1 深坂峠
(福井県敦賀市追分・滋賀県伊香郡西浅井町沓掛)

 敦賀市疋田から伊香郡西浅井町塩津浜間の塩津道のうち、敦賀市追分から西浅井町沓掛間の江越国境を越えた標高約370mの峠です。

 この峠道は敦賀湊と琵琶湖の塩津浜を結ぶ最短経路であったので、古来から主に塩を運搬する道として利用されました。

 しかし、敦賀市追分からが急傾斜で雪も多く、近世初期、三足富士の東を迂回する新道野越(塩津道・国道8号)が開発され、この深坂越えは衰退していきました。

 <参考>

 ◎ 深坂山


 敦賀市南部の旧越前・近江国境の山々をいい、特定の山をさすものではない。「敦賀志」の追分

の項で「この村の東の山を深坂という、この坂を登りて新道野の南へ出、沓掛村を経て塩津へ出る、是昔官道なり」と記している。

 古代の北陸道は敦賀津・疋田から駄口・山中を経て海津へ向かう七里半越(海津道)とともに、追分で分かれて深坂越で塩津へ向かう塩津道もその1つであった。

 「敦賀志」にいう深坂山、また深坂越、今日のJR北陸本線の深坂トンネルなど、古代の深坂山の遺称といえよう。(出典:角川地名大辞典18福井県p980)


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敦賀市追分の深坂古道登り口にある案内板深坂峠道(3)


2 峠下集落

(1) 追分
(福井県敦賀市追分)

 野坂山地の東部、三足富士
(みあしふじ・標高290m)西麓の低位段丘上に位置し、集落の西を五位川が流れています。
 
 村内中央に西近江路(七里半越)が通り、当村で南進し海津村へ向かう西近江路と南東の深坂峠

を越えて沓掛村(滋賀県伊香郡西浅井町)へ出て後、塩津浜村または大浦村に至る塩津道、大浦道に分かれました。

 追分村の地名は、これらの分岐点にあたったので名付けられたようで、江戸期、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領となりました。

 享保12年(1727)の家数20、人数108、安政年間(1854〜1859)塩津浜村へ出る深坂越の旧道が改修され、一時賑わいましたが、

 急坂難路のため明治11年(1878)新道野越えの塩津道が改修され、以後、深坂越による人馬の往来は衰退しました。


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深坂峠道の掘止地蔵堂深坂峠道沿いにある標柱


(2) 沓掛(滋賀県伊香郡西浅井町沓掛)

 江越国境(滋賀・福井県境)の深坂峠を源に南東流する大川上流の山峡に位置した集落です。

 この大川に沿って塩津道が通り、北部で大浦谷に沿ってきた大浦道を合わせたあと分岐し、

 深坂峠を越えて追分村(敦賀市追分)へ、新道野峠(沓掛峠)を越えて新道野(敦賀市新道野)に至る二つの塩津道に分かれました。

 深坂越えは古代からの道で、道沿いに今も石畳や問屋跡が残っており、新道野越えは近世になって開削された新しい道です。

 沓掛村の地名は、草鞋
(わらじ)を掛けて旅の無事を祈ったことに由来するといわれます。

 地内にある深坂には平清盛の運河開削伝説のある深坂地蔵があり、古代の愛発関の所在地を同地辺に比定する説もあります。

 江戸期、沓掛村は近江国浅井郡に属し、寛永11年(1634)の村高254石余で山城淀藩領、

 その後、甲斐甲府藩領を経て、天保郷帳の村高369石余、家数104、人数530、牛3、馬46とあり、大和郡山藩領で幕末に至ります。


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3 峠の歴史


(1) 万葉の古道〜塩津道(深坂越)〜


 塩津湊から大川(塩津川)東岸沿いに北上し、沓掛村(滋賀県西浅井町)で越前国境

 野坂山地の深坂峠を越えて追分村(福井県敦賀市)へ出る深坂越は、古代から利用された塩津道でした。

 この深坂越の山を古くは塩津山
(注1)と称しましたが、「万葉集」巻三の笠朝臣金村の歌に

 「塩津山うち越え行けば我が乗れる馬そ爪づく家恋ふらしも」とあります。

 神亀4年(727)笠朝臣金村は平城京から近江へ入り、琵琶湖水運で塩津湊で下船して、深坂越で敦賀津へ向かう途中、この歌を詠んだものといいます。

 
注1:塩津山

 
平安期以降の歌枕。敦賀市と滋賀県境に連なる行市(ぎょういち)山から南に、藤ヶ崎に至る延長約7kmの山系の総称。近江の塩津から深坂峠を越えて敦賀へ出る交通の要路にあたり、

 前記笠金村の歌や後述する紫式部の歌に見られるように険阻な山道であったことがうかがえるが、鎌倉期になると「風吹けば空に干潟の塩津山花ぞ満ちくる沖つ白波」(夫木抄)など、

 滋賀県側から、特に塩津近辺からの歌想が主になってくる。(出典:角川地名大辞典18福井県p559)



(2)「源氏物語」の紫式部が越えた塩津道(深坂越)

 長徳2年(996)9月、紫式部は父藤原為時とともに越前へ下向した時の歌と詞書が「紫式部集」にあります。

 「塩津山といふ道のいと繁きを 賎
(しず)の男のあやしきさまどもして『なおからき道なりや』

 といふを聞きて『知りぬらむ往来にならす塩津山世に経る道はからきものぞと』」と詠んでいます。

 訳しますと「塩津山という道に草木が茂り、輿
(こし)を引いて荷物を運ぶ男たちがみすぼらしい姿で

 『やはりここは難儀な道だなあ』と言うのを聞いて、お前達もわかったでしょう。

 歩き慣れている塩津山も世渡りの道としては辛いものだということが」というものです。



(3) 「延喜式」に規定された雑物運送の官道・塩津道(深坂越)

 平安初期の延喜式
(注1)に「敦賀津より塩津に運ぶ、塩津より大浦に漕ぐ」とありますように、

 古代から雑物運送の要路として公定駄賃は一駄につき米一斗六升と定められていました。

 北陸道諸国から運ばれる大量の朱や海産物は、敦賀津から陸路を経て塩津に集まり、湖上から大津に荷揚げされ、陸路で平安京へ運ばれるのが公定ルートでした。

 かつては深坂峠を通る馬が「上り千頭、下り千頭」といわれるほど栄えた峠道でしたが、

 一番の難所で深い坂と名付けられたように延長3.5km、標高差250mの峠越えは人や牛馬を苦しめました。

 このため近世初期、峠の東側1kmを迂回する新塩津道(新道野越)が開削され主道になっていきます。

 注1:延喜式

「延喜」とは平安前期、醍醐天皇の時の年号であり、西暦901年7月15日〜西暦923年閏4月11日までの間をいいます。

 延喜式は弘仁式・貞観式以降の律令の施行、細則を取捨・集大成したもので五十巻あり、三代式の一つです。

 延喜5年(905)醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集したもので、延長5年(927)成立、康保4年(967)施行されました。(出典:小学館「国語大辞典」)




(4) 日本海と琵琶湖を結ぶ運河計画と深坂地蔵

 平安末期、平清盛は当時、越前守護の平重盛に命じ、日本海と琵琶湖を結ぶ運河の建設に着手しましたが、

 深坂峠の沓掛村側に祀られた深坂地蔵付近において巨岩に阻まれ運河の建設を断念したと伝えられます。

 このため、この地点に地蔵を祀り深坂地蔵と名付けましたが、運河着手を阻んだ地点の地蔵であることから掘止地蔵とも称します。

 その後、時代が下って幾度か運河計画が持ち上がりましたが実現しませんでした。

 享保5年(1720)には京都の塗師・蒔絵師の幸阿弥伊予が運河開削を願出て、幕府役人の視察も行われましたが湖岸漁民の反対などで不許可になっています。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県   角川書店
角川日本地名大辞典25滋賀県   角川書店
日本歴史地名大系 滋賀県     平凡社
越前・若狭峠のルーツ     上杉喜寿著
近江・若狭と湖の街道     吉川弘文館
福井県史通史編3 近世一     福井県





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