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板 垣 坂

板垣トンネル入口(池田町側)板垣トンネル入口(今立町側)


1 板垣坂
(今立郡今立町・池田町)

 今立町南坂下から標高約420mの板垣坂(峠)を越えて池田町板垣に至る約5kmの坂道です。

 この道は、古くから池田を経由して大野、美濃方面と粟田部(今立町)、府中(武生市)、

 鯖江とを結んだ物資流通の主要路であり、古道は南坂下から峠まで、ほぼ直線状に通っていました。

 永仁5年(1297)鯖江の真宗本山誠照寺の如覚上人が美濃布教の帰り、この道を通っています。

 また朝倉氏や一向一揆攻略のために織田信長の部将、原彦次郎らが通ったといいます。

 また、峠から西に向かう鞍谷道もあり、府中への近道として利用されました。

 明治30年(1897)板垣道の大改修が行われ車道になりました。

 この時の道は、大谷山の東の緩傾斜地を上っていました。

 さらに新しい道は、昭和10年(1935)に完成した全長127mの鳥越隧道と昭和11年(1936)に完成した全長345mの板垣隧道を通るようになりました。

 そして昭和56年(1981)に国道417号に昇格し、新道や新トンネルが建設整備され、平成元年(1989)春、開通して、さらに便利になりました。



2 峠下集落

(1) 南坂下
(今立町南坂下)

 月尾川の最上流域、月尾谷の最奥部に位置する集落で、水間谷の坂下と区別するため南坂下と称しましたが、江戸時代は坂下村といいました。

 村名の由来は池田郷へ通じる坂ノ下に位置したことによると思われますが、詳しくは分かりません。

 越前国今立郡に属し、江戸期、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、

 元禄5年(1691)から大坂城代土岐頼殷領、正徳2年(1712)幕府領、享保5年(1720)から鯖江藩領になりました。

 村高は81石余うち田方38石余、畑方42石余でした。明治14年(1881)坂下村を

 南坂下村に改称し、明治22年(1889)岡本村の大字、昭和31年(1956)今立町の大字となりました。

 明治24年(1891)の人口は251人(男132、女119)、戸数48でした。大正4年(1915)大火に見舞われ、25戸を焼失した記録があります。


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(2) 板垣(池田町板垣)

 足羽川の支流、魚見川の中流左岸に位置する集落です。慶長国絵図に村名がみえます。

 越前国今立郡に属し、江戸期、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、

 元禄5年(1691)大坂城代土岐頼殷領、正徳2年(1712)幕府領、享保5年(1720)から鯖江藩領になりました。

 村高は153石余うち田方117石余、畑方35石余で、享保5年(1720)の人口は

 167人(男93、女74)、家数24とあります。その後、文化15年(1818)の人口は198人、家数40と増加しています。

 元禄年間(1688〜1703)の頃から鍛冶職人が住み始め、多い時には数軒、農閑期には近隣の村に出かけて稼動したといいます。


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3 板垣坂の歴史

(1) 鯖江誠照寺の美濃檀家廻り


 誠照寺は浄土真宗の祖、親鸞聖人が越後へ流罪となり、当地に向かう途中、

 越前上ノ原(鯖江市)に立寄って布教した縁で、承元元年(1207)開山した真宗誠照寺派の本山です。

 鎌倉時代、道性の第2子如覚(誠照寺第3世)は、教義上、父と意見が対立して勘当の身となり、知人を頼って美濃地方で流浪生活を送りました。

 永仁5年(1297)9月、道性の臨終により如覚は、急ぎ越前へ帰国することになりましたが、

そのとき、越前の板垣坂を通ったと「浄土真宗源流記」の一節に書かれています。

 当時、美濃の徳山、根尾地方から越前へ入るには、蝿帽子峠、温見峠、冠峠、杉ノ谷峠などありましたが、

父、道性の死を前にして当然、近道を選んだでしょうから美濃徳山から越前池田へ入り、板垣坂を通って鯖江へ向かったに違いありません。

 この頃、徳山・根尾谷に住む人達の宗教は天台宗や真言宗が盛んだったようですが、

如覚が美濃方面を流浪中に、この地域でも布教活動を行い改宗させたといわれます。

 その後、本願寺に蓮如が現れ、各地の門徒を転派させたので檀末が減少しました。

 そこで誠照寺派本山、中興の祖といわれる秀かん上人
(しゅうかん1642〜1691)が、寛文2年(1662)の夏から毎年1回(土用の頃)の「美濃檀家廻り」を興されました。

 この美濃廻国の巡回路は本山を出発し,7今立郡池田の谷口を経て水海で休み、

 美濃俣峠(熊河峠)を越えて大野郡西谷を廻り、蝿帽子峠を越えて美濃国に入りました。

 そして根尾、徳山を巡回して越前池田の田代、河内、楢俣から志津原を経て、9月の彼岸頃、鯖江に帰山するというコースでした。

 このような美濃地方の教化活動は、元禄2年(1689)まで隔年ごとに10日間ほど根尾、徳山村において行われましたが、次第に衰退していきました。

 その後、第20代秀実上人が衰退した美濃廻国を復興され、延享元年(1744)から

 文化3年(1806)まで巡回しました。しかし、秀実上人が高齢となり巡回できなくなりました。

 そこで、寛政7年(1795)から「御書様
(ごしょさま)」を使者が携え、巡回教化するという方式がとられるようになり、約200年近く続きました。 

 明治3年(1870)巡回教化が復活され、7月から3ヶ月間の日程で3年毎に巡回されることになりました。

 明治4年(1871)からは池田廻りも復活し、3月から15日間の日程で隔年毎に再開されることになりました。

 現在、美濃地方で旧根尾村と旧徳山村だけが越前の誠照寺派の門徒になっています。


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(2) 芝峠と旧峠道について

 この峠は「芝峠」ともいわれ、昔は大谷山(標高約448m)の東側を回って峠へ上る道でしたが、

新道は月尾谷の南坂下の集落から神儀谷川に沿って、大谷山の西、鳥越隧道を抜けて峠につながる道になりました。

 この道は、大正5年(1916)に開削されたものですが、全長345mのトンネルは昭和11年(1916)に完成したものです。

 その後、この峠道の拡幅工事が峠の両側から進められ、月尾谷側の鳥越トンネルは

 昭和57年(1982)秋、完成し、峠道は大平山(標高約581m)の南斜面を高く巻くようにつけられました。



(3) 板垣村の名開祭と木地師伝承

 池田側峠下の板垣村には、かつて木地師が住んでいたのか、彼等が残したと思われる習俗が残っています。

 それは「名開祭」
(なびらきまつり)という祭事で、文政の頃(1818〜1829)から約160年間伝承されてきました。

 これは男子の元服を祝ったもので、今の成人式に当たります。

 昔から木地師には「氏子狩」という制度が厳守されてきましたが、村人すべてが

 木地師の子孫だったわけではありませんが、良い風習でしたので、これを取り入れ伝承してきました。

 木地師の故郷、近江国愛知郡君ヶ畑と蛭谷の両神社の氏子として認知し、神社を維持していくために「氏子駆」と呼んで、

 全国に散在していた木地師を訪ね「お初穂」を集めて成人した者を祝福し、「名替」を認めました。

 「名開」も「名替」も内容は同じで、成人に達すると幼名を棄てさせ、先祖の名を襲名させて「烏帽子着」、「冠頭」と呼ばれる厳粛な式を挙げて祝いました。



(4) 池田郷から府中(武生市)への間道

 板垣坂は池田郷のほぼ中央に位置していたので、昔から府中や鯖江に行くのに好都合な峠道でした。

 現在、峠から鳥越トンネルへ向かう途中、左側に下って中居(武生市中居)へ出る道がありますが、

この道は、昔から池田と府中を往来するのに便利なため、自然に利用されるようになった道です。

 これが明和5年(1768)大紛争になり、池田側で詫び状一札を入れたという経緯があります。

 近道として自然にできた通路が、本道となって通行人に利用されたわけです。

 この頃、池田側から味真野鞍谷に出るには魚見坂のほかに、もう一本の道がありました。

 それは板垣村から峠の手前で左折し、山の鞍部を越えて入谷村「十万谷」へ出る道で、これが本道でした。

 この道を利用すれば問題はなかったのですが、便利なため他人の山や土地を利用するようになったわけです。



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主な参考文献

角川地名大辞典18福井県 角川書店
越前・若狭峠のルーツ 上杉喜寿著





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