3 板垣坂の歴史
(1) 鯖江誠照寺の美濃檀家廻り
誠照寺は浄土真宗の祖、親鸞聖人が越後へ流罪となり、当地に向かう途中、
越前上ノ原(鯖江市)に立寄って布教した縁で、承元元年(1207)開山した真宗誠照寺派の本山です。
鎌倉時代、道性の第2子如覚(誠照寺第3世)は、教義上、父と意見が対立して勘当の身となり、知人を頼って美濃地方で流浪生活を送りました。
永仁5年(1297)9月、道性の臨終により如覚は、急ぎ越前へ帰国することになりましたが、
そのとき、越前の板垣坂を通ったと「浄土真宗源流記」の一節に書かれています。
当時、美濃の徳山、根尾地方から越前へ入るには、蝿帽子峠、温見峠、冠峠、杉ノ谷峠などありましたが、
父、道性の死を前にして当然、近道を選んだでしょうから美濃徳山から越前池田へ入り、板垣坂を通って鯖江へ向かったに違いありません。
この頃、徳山・根尾谷に住む人達の宗教は天台宗や真言宗が盛んだったようですが、
如覚が美濃方面を流浪中に、この地域でも布教活動を行い改宗させたといわれます。
その後、本願寺に蓮如が現れ、各地の門徒を転派させたので檀末が減少しました。
そこで誠照寺派本山、中興の祖といわれる秀かん上人(しゅうかん1642〜1691)が、寛文2年(1662)の夏から毎年1回(土用の頃)の「美濃檀家廻り」を興されました。
この美濃廻国の巡回路は本山を出発し,7今立郡池田の谷口を経て水海で休み、
美濃俣峠(熊河峠)を越えて大野郡西谷を廻り、蝿帽子峠を越えて美濃国に入りました。
そして根尾、徳山を巡回して越前池田の田代、河内、楢俣から志津原を経て、9月の彼岸頃、鯖江に帰山するというコースでした。
このような美濃地方の教化活動は、元禄2年(1689)まで隔年ごとに10日間ほど根尾、徳山村において行われましたが、次第に衰退していきました。
その後、第20代秀実上人が衰退した美濃廻国を復興され、延享元年(1744)から
文化3年(1806)まで巡回しました。しかし、秀実上人が高齢となり巡回できなくなりました。
そこで、寛政7年(1795)から「御書様(ごしょさま)」を使者が携え、巡回教化するという方式がとられるようになり、約200年近く続きました。
明治3年(1870)巡回教化が復活され、7月から3ヶ月間の日程で3年毎に巡回されることになりました。
明治4年(1871)からは池田廻りも復活し、3月から15日間の日程で隔年毎に再開されることになりました。
現在、美濃地方で旧根尾村と旧徳山村だけが越前の誠照寺派の門徒になっています。
(2) 芝峠と旧峠道について
この峠は「芝峠」ともいわれ、昔は大谷山(標高約448m)の東側を回って峠へ上る道でしたが、
新道は月尾谷の南坂下の集落から神儀谷川に沿って、大谷山の西、鳥越隧道を抜けて峠につながる道になりました。
この道は、大正5年(1916)に開削されたものですが、全長345mのトンネルは昭和11年(1916)に完成したものです。
その後、この峠道の拡幅工事が峠の両側から進められ、月尾谷側の鳥越トンネルは
昭和57年(1982)秋、完成し、峠道は大平山(標高約581m)の南斜面を高く巻くようにつけられました。
(3) 板垣村の名開祭と木地師伝承
池田側峠下の板垣村には、かつて木地師が住んでいたのか、彼等が残したと思われる習俗が残っています。
それは「名開祭」(なびらきまつり)という祭事で、文政の頃(1818〜1829)から約160年間伝承されてきました。
これは男子の元服を祝ったもので、今の成人式に当たります。
昔から木地師には「氏子狩」という制度が厳守されてきましたが、村人すべてが
木地師の子孫だったわけではありませんが、良い風習でしたので、これを取り入れ伝承してきました。
木地師の故郷、近江国愛知郡君ヶ畑と蛭谷の両神社の氏子として認知し、神社を維持していくために「氏子駆」と呼んで、
全国に散在していた木地師を訪ね「お初穂」を集めて成人した者を祝福し、「名替」を認めました。
「名開」も「名替」も内容は同じで、成人に達すると幼名を棄てさせ、先祖の名を襲名させて「烏帽子着」、「冠頭」と呼ばれる厳粛な式を挙げて祝いました。
(4) 池田郷から府中(武生市)への間道
板垣坂は池田郷のほぼ中央に位置していたので、昔から府中や鯖江に行くのに好都合な峠道でした。
現在、峠から鳥越トンネルへ向かう途中、左側に下って中居(武生市中居)へ出る道がありますが、
この道は、昔から池田と府中を往来するのに便利なため、自然に利用されるようになった道です。
これが明和5年(1768)大紛争になり、池田側で詫び状一札を入れたという経緯があります。
近道として自然にできた通路が、本道となって通行人に利用されたわけです。
この頃、池田側から味真野鞍谷に出るには魚見坂のほかに、もう一本の道がありました。
それは板垣村から峠の手前で左折し、山の鞍部を越えて入谷村「十万谷」へ出る道で、これが本道でした。
この道を利用すれば問題はなかったのですが、便利なため他人の山や土地を利用するようになったわけです。
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