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冠 山 峠



冠山峠と石碑冠山遠景


1 冠山峠
(福井県今立郡池田町・岐阜県揖斐郡揖斐町)

 越美国境(福井県・岐阜県境)のほぼ中央に位置した標高約1015mの峠です。

 烏帽子の冠に見える「冠山」(標高1256.6m)の頂上から西へ尾根伝いに約2km離れたところにあります。

 この峠は昭和46年(1971)に新設され、峠を境に福井県側に「峰越林道」、岐阜県側に「塚林道」が通って、

 今立郡池田町と揖斐郡揖斐町(旧徳山村)を結んでいます。また、この峠道は国道417号に指定されています。

        峠の地図はこちらです。

 かつて、この付近に「冠越」(冠峠)と呼ばれた標高約1,100mの古い峠がありましたが、

 この峠は、現在の冠山峠から東南東に約3km離れた冠山の東肩付近にありました。

 古い峠道は、池田町河内の枝村で最奥にあった田代(廃村)から足羽川源流(河内川)を

 渡渉しながら現在の冠山登山Bコースに当る急斜面の尾根を登りました。

 峠に着くと頂上の長い冠平(ほぼ高度が一定している)を500〜600m東に歩いて冠山の東肩に至り、

 南東に出るヒン谷の支流、中ノ又とシタ谷に挟まれた急勾配の尾根を下って揖斐町(旧徳山村)塚(廃村)に至りました。


冠平近景冠峠への林道遠景


2 峠下集落


(1) 田代
(福井県今立郡池田町)

 冠山の北麓、足羽川の最上流域に位置した地域です。地名の由来は、定かでありませんが、新田村であったことから名付けられたようです。

 江戸時代の寛文6年(1666)頃、「よもぎ平」に入って木地挽に従事した人達によって村づくりが始まったと伝えられます。

 越前国今立郡のうちで、元禄年間(1688〜1703)の村々明細帳に河内村の枝村として見え、

 木地山手銀を負担し、元禄7年(1694)土岐伊予守検地で高11石余の水帳が与えられています。

 はじめ大坂城代土岐頼殷領、のち幕府領を経て享保5年(1720)鯖江藩領、文久2年(1862)から幕府領となりました。

 木地山手銀は、河内村庄屋を通じて上納し、山稼ぎ、木実なども河内村などと入会であったといいます。

 元禄年間の家数12、人数43、享保6年(1721)の村明細帳では家数15、人数83と増加しています。

 明治22年(1889)上池田村、昭和30年(1955)池田村、昭和39年(1964)池田町の大字となり、昭和46年(1971)から無住地になりました。



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(2) 河内(福井県今立郡池田町)

 冠山の北麓、足羽川の上流域で田代から5kmほど下ったところに位置し、

 源平時代、斬首された斉藤実盛一族が当地域に落ち延び、一村をなしたと伝えられています。

 越前国今立郡のうちで慶長3年(1598)の太閤検地帳には「川内村」、慶長国絵図には

 「河内村」の村名が見えますし、元禄年間(1688〜1703)の村々明細帳に枝村として楢俣と田代がでています。

 はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)大坂城代土岐頼殷領、

 のち幕府領を経て享保5年(1720)から鯖江藩領、文久2年(1862)から幕府領となりました。

 楢俣村は宝暦8年(1758)頃から庄屋名が見えることから、この頃、河内村から分村したと思われます。

 元禄年間の家数12、人数104、享保6年(1721)家数13、人数114、牛6とあります。

 明治22年(1889)上池田村、昭和30年(1955)池田村、昭和39年(1964)池田町の大字となりました。

 昔から焼畑が行われ、炭焼きや山仕事が多いため3月9日、12月9日には村をあげての山祭りが行われました。

 幕末の頃から養蚕も行われ池田産物会所へ納めました。

 この村は美濃徳山へ越える峠に冠越(冠峠)、檜尾峠 があり、当村はその起点となる要地として口留番所が置かれていました。




(3) 塚(岐阜県揖斐郡揖斐町)

 冠山の南麓、揖斐川源流付近に立地した美濃の峠下集落があったところで、

 古くから冠越(冠峠)、高倉峠、檜尾峠などを経て越前に通じる道筋にあたりました。

 地名の由来は、追手から逃れて落ち延びた二条天皇が三軒屋(揖斐町櫨原のうち)近くの崖で

 足を踏み外して一命をなくしたため、その遺体を葬った塚があることからといわれます。

 当地には歩危尻(ほきしり)という地名が残り二条歩危に由来するといいます。「つか」という地名は室町期には見え、美濃国大野郡に属していました。

 江戸初期に徳山村から分村、旗本更木徳山氏知行地となり、村高39石余の畑作中心の山村でした。

 明治2年(1869)の戸数18、人数117で、以後、徐々に増加しています。

 村民は真宗誠照寺派越前西福寺(福井県鯖江市)と本巣郡専念寺(岐阜県本巣市根尾東板屋)の檀家に分かれていました。



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3 冠越(冠峠)の歴史

(1) 冠山の戦いとオザワマサカド伝承 

  かつて、越美国境の冠山の南麓、冠峠(冠越)下にあった塚(揖斐郡揖斐町塚)という村に、次のような伝承があります。

 昔、源平の争いが盛んだった頃、東谷
(ひがしたに)地域の塚村にオザワマサカド(タイラノマサカド)と呼ぶ豪族がいました。

 その頃、美濃地方に勢力を持っていた源氏は、平家方のマサカドを滅ぼそうと、しきりに攻めたて、

 ついにマサカドは冠山の戦いに敗れ、越前の小沢(福井県大野市小沢)を経て温見
(ぬくみ)へ逃げました。

 その後、そこの土地を切り開いて住み付きましたが、ある正月、マサカドは年頭の挨拶に小沢村に出かけ、そこで亡くなりました。

 そのとき、マサカドの死体をどこに葬るか、兄弟が互いに争い、ついに、兄は死体を布団に包んで雪の中を運び出しました。

 ところが雪が多くて運び出すことができず、途中で死体を二つに切り分け、

 首の方は温見、胴の方は小沢に埋葬したといいます。その墓が今日でも残っているというのです。




(2) 源平の冠山決戦と平家の敗走

 冠峠下の根尾東谷にあった塚村に、もう一つ次のような源平合戦の伝承があります。

 源平山岳戦で、温見谷(福井県大野市温見)に陣を敷いた平家方に対し、徳山谷(岐阜県揖斐郡揖斐町)から攻め上ったのが源氏方でした。

 両軍の申合わせで、明朝、冠山を戦場に決戦することになりました。その前夜、平家方は兵を出して敵の動きを偵察させました。

 すると山麓の狂小屋
(くるいこや)辺り一面に火が見えたため、源氏の軍勢が、

 まだ山麓でたむろしているなら急ぐこともあるまいと速断、山稜まで登らず途中で野宿しました。

 ところが、その火は源氏方のはかりごとだったのです。山麓に軍勢が止まっているように見せかけ、ひそかに火を消して冠山の頂上まで移動させておりました。

 夜が明け、平家の軍勢が勢い込んで冠山頂上めがけて突進すると、山頂には源氏の白旗が一杯翻っており、平家方は大敗を喫してしまったということです。

 この敗北で平家方は、あちこちの山峡へ落ち延び、その一部が、なんとなく温かそうな山懐を見つけ、そこを隠れ家にして温見谷と名付けました。

 こうした平家落人伝説は、越美国境付近の村々の伝承や「屏風山」「平家平」といった地名となって、今も残っているのです。



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(3) 南朝方武将、新田義貞(1301〜1338)の死亡地伝説

 かつて、冠峠の南麓、旧徳山村櫨原
(はぜわら)に鳥山神社(注1)がありました。この境内に南朝方の武将、新田義貞死亡地とする石碑が建っておりました。

 越前藤島の合戦に敗れた新田義貞は、当地まで逃げ延びてきましたが、ここで村人によって殺されたという伝説があるのです。

 徳川幕府の旗本、徳山五兵衛家では徳川家の親藩であった福井藩松平家に遠慮して、

 明治22年(1889)新田義貞の墓石とされた五輪塔のあった所に自然石で

 「仁田四郎由定の墓」(側面には「年代不詳5月28日」、碑文は当時役場吏員の早川菊次郎氏、詞は扇間儀雄氏の寄進)と刻みました。

 福井県福井市にある藤島神社は、明治9年(1876)11月7日より官幣社となり、明治15年(1882)8月7日、新田義貞に正一位が贈られています。

 しかし、当地の村人は「越前藤島の合戦で死んだ兜
(注2)の主(新田義貞)は、

 激戦の最中、大将の身を守った側近の部下であり、義貞の影武者だった」と信じていたのです。

 南朝方の新田義貞は、延元3年(1338)越前各地において北朝方の斯波高経と戦っていましたが、

 白山中宮平泉寺衆徒に裏切られて次第に旗色が悪くなり、越前北庄の藤島(新田塚)付近の戦闘によって戦死したと伝えられています。

 しかし、この地で戦死したのは新田義貞の影武者で、義貞は再起を念じつつ、

 鳥山四郎と名乗って旅僧に姿を変え、冠峠(冠越)を通って櫨原まで逃げ延びてきました。

 そして当地の村人に「匿ってくれれば、ここに城を築き、村を城下町にしてやろう」と持ちかけましたが、村人は旅僧が持っていた金を奪おうと竹槍で襲いました。

 神社へ逃げた旅僧(義貞)は、「もはや、これまで」と実名を名乗り、懐剣を口にくわえ自害したというのです。

 以来、村は、その怨霊の崇りで7回も大火に見舞われて全焼の憂き目をみたといい、火事の直前には白衣の稚児が細く悲しげな声を震わせて村中を歩き、

 それが上から下へ歩くと火の手が上手から起り、下から上に歩く時は下手から火が上ったといいます。

 そのため村人は、新田義貞の怨霊を鎮めるため墓をつくりました。しかし、いずれの火事においても

 義貞を匿った未亡人おむつの早川太右衛門家だけは数百年たっても類焼を免れたといいます。

 また、明治時代、毎年夏になると子供にはかからなくて、大人だけに奇病が発生し、激しい下痢で全身が衰弱して体力が容易に回復しませんでした。

 村人は「これは落武者の霊を慰める五輪塔を建てただけで、後の供養をしてないからだ。」と考え、新しい石碑を建て、その付近の清掃を心掛けました。

 さらに、毎年5月28日の武士が自刃した命日には、墓前で盛大な供養祭を行うことにしました。それ以後、火災も悪病もなくなったといわれます。

 このような伝説が出てくるのは、この地域が吉野朝廷や越前の勢力と深くかかわっていたことに大いに関連しているからでしょう。

 なお、塚、櫨原、本郷地区の白山神社の棟札が、ともに興国元年(1340)11月となっていることから、

 この地域が吉野朝廷の支配下にあり、美濃源氏の流れを汲む徳山金吾貞信が美濃官軍の味方をしていた地域であることです。

 ただ、「太平記」によると南朝方は平泉寺の離反により藤島で敗戦し、義貞の実弟脇屋義助は、

 加賀の住人、山岸新左衛門(のち根尾氏を名乗る)とともに越前の池田、冠越をして、根尾村まで落ち延びたらしく、そこで城を築き、南朝方の根拠地としたようです。

 徳山村の徳山金吾貞信は、美濃官軍として早くから南朝方に味方していましたので冠越で越前各地の戦場にはせ参じたことでしょう。

 新田義貞の戦死で、弟の脇屋義助や徳山金吾らは「池田冠越」で徳山に逃げ延びたと伝えられています。



(注1):鳥山神社
 以前は「鳥山殿」といわれました。この鳥山氏は新田一族で、義貞の挙兵から討死の日まで義貞の武将として奮戦しています。

(注2):兜の主
 新田義貞の死から約320年後の万治3年(1660)、越前藤島において耕作中の水田から農民が義貞が着用していたという兜を発見しました。4代福井藩主、松平光通がここに標識を立て、新田塚としました。



(4) 美濃守護土岐家の内乱と越前守護朝倉家の救援

 永正14年(1517)徳山貞隆は、土岐家内紛のとき美濃と越前との連絡にあたりました。

 天文7年(1538)秋、美濃守護職土岐頼芸の家臣斉藤彦九郎と新参の長井新九郎(のち斉藤道三)とが互いに勢力争いを続けていました。

 土岐家から救援を求められた近江の六角定頼と越前の朝倉孝景は、美濃へ兵を出して藤橋村杉谷付近で戦い、斉藤彦九郎を支援して土岐家の安泰を図りました。

 このとき朝倉孝景の一隊は、冠峠を越えて美濃へ進出したといいます。

 また、天文11年(1542)9月守護土岐頼芸は、再度、斉藤左近太夫利政(のちの斉藤道三)に攻められて、朝倉家に救援を求めました。

 このとき朝倉義景は、根尾、徳山、川口から攻入り斉藤勢の岩手、高橋、国枝氏などと藤橋村杉原など美濃各地を転戦しました。



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主な参考文献

日本地名大辞典      角川書店
峠のルーツ       上杉喜寿著
山々のルーツ      上杉喜寿著
美濃の峠(冠山峠) 田代信雄調査委員





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