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風 谷 峠

刈安山頂上付近風谷峠付近図


1 風谷峠
(福井県あわら市・石川県加賀市)

 古くは市野々峠ともいい、あわら市権世市野々と加賀市山中温泉風谷町との間にある標高510mの峠です。

 峠名は峠下集落に由来し、また冬期に風谷から峠に登れぬくらいの強風が吹くからともいわれます。

 越前側は比較的緩やかな道でしたが、風谷からはかなりの険路で47坂もあるといわれ、俗にイロハ坂ともいわれました。

 天文3年(1534)享禄の錯乱(加賀大一揆・小一揆)の戦場となりましたし、古くは越前から米が、加賀から木炭など林産物が運ばれました。

 このように風谷越は、元来加越国境の間道として利用されたので、江戸期には福井藩が権世市野々に、

加賀大聖寺藩が風谷に、それぞれ口留番所を置いて人・物の出入を監視しました。

 明治11年(1878)牛ノ谷峠道に熊坂新道が開かれると次第に利用されなくなり、さらに峠の北方約1kmの刈安山南に林道ができて以後、峠道は廃道化しました。



2 峠下集落

(1) 権世市野々
(福井県あわら市)

 剣ヶ岳盆地の北端、権世川谷の最奥に位置し、加賀境の風谷峠の登り口にあって、中世には坪江郷に属しました。

 江戸期には越前国坂井郡に属し、福井藩領として村高は74石余(うち田25石余・畑49石余)ありましたが、耕地が少なく農耕よりも山仕事の比重が高かったようです。

 このため加賀の山へも立入り、元禄8年(1695)後山組17ヶ村の1村として加賀の山に立入らないことなどの請書を出しています。

 当時、風谷峠は加賀山中方面への交通路で、福井藩の口留番所が置かれて人や物資の出入を取締り、また茶店や駄馬がありました。

 明治初年の「足羽県地理誌」には戸数23、人口99(男50女49)、馬3、田2町2反余、畑1町6反余、物産として木綿100疋、炭200俵、薪2,000束、油木実(油桐実)、繭を産すとあります。

 風谷峠は明治期までは越前北部と加賀の山中方面を結ぶ最短距離として価値をもっていましたが、大正3年(1914)大聖寺〜山中間に温泉電鉄が開通したため急激に寂びれました。

 明治22年(1889)剣岳村の大字となり、昭和30年(1955)からは金津町も大字、平成16年(2004)3月からあわら市の大字名になりました。


刈安山への道刈安山途中の水車小屋

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(2) 風谷
(石川県加賀市山中温泉風谷町)

 大聖寺川の支流、風谷川の上流に位置した山間の集落で、周囲一帯は刈安山系に属する300〜500mの山地です。

 越前国との境にあり、地名の由来は一般に国境は風が荒く、こうした所に「風越」の称が多いことから「風谷は風越の意であろうか」といわれます。

 江戸期は加賀国江沼郡に属し加賀大聖寺藩領で、「正保郷帳」には村高91石余、田1町3反余、畑5町6反余、家数22、人数102、馬12とあります。

 他村に比べ家数に対する馬数が多いのは、風谷峠越えの賃馬を余業としていたようです。

 また、この道には大聖寺藩の風谷番所が置かれ、往来が制限されていましたが、越前との係わりは多かったようで住民の言葉に越前訛りがみられます。

 村人の多くは薪を丸岡に運び、粟・蕎麦・稗などを栽培していましたが、明治15年(1882)頃から炭焼きが主業になり、昭和10年(1935)頃まで村の7割が製炭に従事しました。

 明治22年(1889)西谷村の大字、昭和30年(1955)山中町の町名となりましたが、山間部のため過疎化が著しく、昭和50年(1975)には戸数6、人口16となりました。

 平成17年(2005)10月1日加賀市と山中町は町村合併し、加賀市となりました。



3 峠の歴史

(1) 加賀一向一揆の越前侵攻と風谷峠


 前年、九頭竜川原の大合戦で大敗し、越前を追われた超勝寺・本覚寺ら加賀一向一揆勢は、

 その恥をそそがんと能登・越中の一揆に加勢を頼み、永正4年(1507)8月28日、再び越前に侵攻しました。

 この時、風谷峠を越えた一揆勢の支隊が権世市野々を制圧し、坪江郷帝釈堂口(現在の前谷松竜寺付近)に布陣して、朝倉軍と対峙しました。

 翌29日、朝倉軍と激しく戦った一揆勢も大将玄忍が討ち取られ、またもや敗退しました。

 戦場には多くの遺体が放置されたのか、その後、帝釈堂付近の村里では毎夜亡霊が現れ、村人を悩まさせたといわれます。

 そこで、豊原寺の増信上人が帝釈堂に卒塔婆を立てて法華経を読み、昼夜追善勧行をしたので、その翌日から怪奇な現象が消えたということです。

 朝倉氏は、この永正の一向一揆来襲を契機に吉崎の坊舎を破却するとともに、越前国内の一向宗坊主・門徒を悉く国外に追放しました。

 また、北陸道の要所であった坂井郡長崎には永正15年(1518)まで番替を置いて加賀の一揆来襲に備え、北陸道の通行も朝倉方から一方的に閉鎖されました。



(2) 享禄の錯乱(加賀大一揆・小一揆)と風谷峠

 いわゆる享禄の錯乱
(注1)で越前に逃れていた山田光教寺(顕誓)ら加州三ヶ寺派は、牛ノ谷(あわら市)に在陣して江沼奪回を図っていましたが、

 天文3年(1534)黒瀬左近四郎が出陣を装って風谷を越えて加賀に逃亡したため、計画は完全に失敗しました。



(注1) 享禄の錯乱

 加賀一向一揆勢が永正3年(1506)の越前侵攻に失敗した頃の加賀では、領国支配の最高首脳層は三山の大坊主と呼ばれた

 一家衆の若松の本泉寺・波佐谷の松岡寺・山田の光教寺で、いずれも領国拡大を望まない現状維持派でした。

 これに対し越前を追われて加賀に牢人した越前の大坊超勝寺・本覚寺の両寺勢力は、当時、加賀に下向していた

 本願寺家老の下間頼秀・頼盛兄弟と結んで、再び越前侵攻の機を窺いながら、あわせて加賀・越中支配の野望も抱いていました。

 前者を小一揆、後者を大一揆と呼び両者は激しく対立しました。山田の光教寺蓮淳は超勝寺・本覚寺両寺の野望を本願寺に

 訴えますが退けられたため、小一揆側は享禄4年(1531)5月、加賀の国侍らとともに兵を挙げました。

 これを享禄の錯乱と呼びます。これに対し超勝寺・本覚寺は能美郡の山内に立て籠もって、小一揆と戦いつつ松岡寺などを焼き払い、戦を優勢に進めました。

 戦況が不利となった小一揆側は越前朝倉氏に加勢を求めました。朝倉氏は超勝寺・本覚寺らの越前侵攻を恐れていたので、求めに応じて加賀へ派兵し、能美郡本折(小松市)まで兵を進め、

 手取川を渡河して大一揆側を敗走させましたが、北の能登・越中の小一揆側が敗北したという報に接し、浮き足だち朝倉軍が兵を越前に引き揚げたため大一揆の完勝となりました。



(3) 堀江氏の変と加賀一向一揆の越前侵攻

 永禄10年(1567)3月、朝倉家の有力被官で坂井郡本荘城主の堀江景忠が、加賀一向一揆と通じて朝倉氏に叛き、

 これに呼応して一向一揆勢が風谷峠を越えて越前に侵攻、朝倉軍と上野、高塚をはじめ各地で戦いましたが敗退しました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県     角川書店
角川日本地名大辞典17石川県     角川書店
日本歴史地名大系17石川県の地名   ㈱平凡社
越前・若狭峠のルーツ       上杉喜寿著
越前朝倉一族           松原信之著
本願寺と一向一揆         辻川達雄著




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